第6話 食事アイテム
どれくらい眠っていたのか分からない。
扉を叩く音で、ミオは目を覚ました。
「ミオ。厨房が動いた」
扉の向こうから、クロウの声が聞こえる。
「食事にする。厨房へ来てくれ」
ミオは寝台の上で身体を起こした。
「はい」
床へ足を下ろし、扉へ向かう。
取っ手を握ると、扉はミオの手で当たり前のように開いた。
廊下にはクロウが立っていた。
黒い鎧も、肩に担いだハルバードも、先ほどまでと変わっていない。
ミオが部屋から出ると、クロウは厨房へ向かって歩き出した。
「厨房は、もう使えるんですか」
「ああ。人員も入れた」
ミオはその後ろについて指揮所を出た。
外は、もう薄暗くなり始めていた。
拠点化された村では、夕食の配給が始まっている。
厨房の煙突から煙が上がり、食器の触れ合う音が聞こえた。
住民たちは建物の前に列を作っている。
厨房では、揃いの作業着を身につけた二人の女が働いていた。
一人が木椀へ穀物の粥を入れ、もう一人が煮込んだ野菜を添えて渡している。
どちらの顔にも見覚えがあった。
少し前まで、中央の空き地に集められていた村人たちだ。
今は不満を口にすることも、手を止めることもなく、同じ動作を繰り返している。
「この人たちは……」
「厨房ユニットにした」
「私が寝ている間に?」
「ああ。施設だけあっても、人員がいなければ動かないからな」
二体はミオが近くにいても顔を向けなかった。
目の前の列へ食事を配ることだけを続けている。
木椀の中身は、穀物の粥と煮込まれた野菜だった。
以前ミオが与えられていたものより、明らかに量が多い。
水ばかりでもない。
受け取った者たちは不満そうな顔をしていたが、食事を捨てる者はいなかった。
「一般糧食だ」
クロウが配給列を見ながら言った。
「拠点内の住民には、あれを配る」
「毎日ですか」
「備蓄がある間はな」
これまでは、食べ物は家ごとに分かれていた。
多く持っている家もあれば、ほとんど残っていない家もあった。
ミオへ何を与えるかも、村人の判断に任されていた。
今は同じ場所から、同じ量が配られている。
村長も他の者と同じ列に並んでいた。
以前なら、食事を受け取るために誰かの後ろへ並ぶような人ではなかった。
木椀を渡されると、中身を見て顔をしかめる。
それでも何も言わず、列から離れた。
門の近くでは、農民兵八体にも別の食事が配られていた。
固いパン。
干した肉。
水の入った革袋。
品数は少ないが、警備中でも持ち運べる形に揃えられている。
「兵用糧食」
クロウが言う。
「勤務中でも食べられる」
農民兵は食事を受け取ると、命じられた位置へ戻った。
誰も文句を言わない。
味を確かめる様子もなく、決められた量を口へ運んでいく。
「私は、どこに並べばいいですか」
「ミオは別だ」
村人とは別。
農民兵とも違う。
ミオは背中へ向けられる住民たちの視線を感じながら、クロウを追った。
クロウは配給列の横を通り、厨房の中へ入る。
二体の厨房ユニットは、クロウが通っても作業を止めなかった。
一体が竈の火を調整し、もう一体が空になった鍋へ次の粥を移している。
誰かに細かく指示されなくても、必要な作業が分かっているらしい。
厨房の奥には、小さな卓と椅子が置かれていた。
クロウは卓の前で立ち止まり、空中へ手を伸ばす。
「食事アイテムは残ってるな」
クロウの指が一点で止まった。
淡い光が机の上へ集まる。
光が消えると、木の盆が置かれていた。
白いパン。
厚く切られた焼き肉。
湯気の立つ野菜スープ。
小さな焼き菓子。
果実の香りがする飲み物。
ミオは立ち止まった。
厨房から配られていた食事とは、何もかも違う。
温かさも。
香りも。
盛りつけられた量も。
「これは……」
「プレイヤー用の食事アイテムだ」
クロウは椅子を引いた。
「本来はインベントリから使うものだが、ミオはまだ操作に慣れてないだろ」
「はい」
「なら、最初は普通に食べた方が分かりやすい。座って食べろ」
「クロウさんの分は?」
「俺の分は気にしなくていい」
クロウはそれ以上説明しなかった。
ミオは引かれた椅子へ腰を下ろした。
目の前の食事から、温かい匂いが上がっている。
腹が鳴った。
恥ずかしくなり、ミオは腹部へ手を当てた。
今朝、冷たい粥を食べてから、何も口にしていない。
井戸の水を飲んだことで、空腹がかえってはっきりしていた。
「食べて、いいんですか」
「ミオの分だ」
クロウは当然のように答えた。
ミオは白いパンへ手を伸ばした。
指先で触れると、まだ温かい。
柔らかく、簡単にちぎれた。
口へ入れる。
わずかな甘みがあった。
噛むたびに、麦の香りが広がる。
飲み込むと、身体の奥へ熱が落ちていった。
次の一口を急いでしまう。
止めようと思ったのに、手が動いた。
スープも温かかった。
柔らかく煮えた野菜と、濃い味のついた汁。
木匙を口へ運ぶたび、冷えていた身体が少しずつほどけていく。
焼き肉は厚いのに固くなかった。
塩と香草の味がする。
こんなに味の濃いものを食べたのは、この世界へ来てから初めてだった。
「急ぐ必要はない」
クロウが言った。
ミオは慌てて木匙を止める。
「すみません」
「謝る必要もない。ゆっくり食べても、食事効果は変わらない」
責める声ではなかった。
ミオは一度息を整え、今度はゆっくりパンをちぎった。
外から、木椀を持った住民たちの声が聞こえる。
食事が少ない。
自分たちの穀物なのに。
勝手に配る量を決めるな。
不満は途切れなかった。
ミオの手が止まる。
自分だけ、違うものを食べている。
村人たちが育てた穀物や野菜とは別に、クロウが所持していた食事。
温かく、量も多い。
小さな焼き菓子までついている。
「私だけ、これでいいんでしょうか」
クロウの兜がミオへ向く。
「何がだ?」
「外の人たちは、違う食事です」
「対象が違う」
「でも……」
「拠点内の住民には一般糧食。兵には兵用糧食。ミオはプレイヤーだから、食事アイテムだ」
決められた分類を説明しているだけだった。
そこに罪悪感はない。
特別扱いを誇る様子もなかった。
「同じものを配ることはできないんですか」
「全員に食事アイテムを使う必要はない」
クロウは短く答えた。
「一般糧食で維持できる」
維持。
人が生活するという意味ではなく、拠点内の住民を動ける状態に保つための言葉に聞こえた。
ミオは窓の外を見た。
木椀を持った村人たちが、それぞれの宿舎へ戻っていく。
あの人たちは、ミオへ温かい食事を与えなかった。
倉庫には食料があった。
村長の家から肉を焼く匂いがしたこともある。
それでも、ミオへ渡されたのは残り物の冷たい粥だった。
一度残しただけで、次の食事を与えられなかったこともある。
自分たちは持っていたのに、ミオには渡さなかった。
胸の中に浮かんだ考えを、すぐに打ち消そうとした。
だからといって、自分だけ良いものを食べていい理由にはならない。
けれど空腹は、その考えを簡単に押し流した。
スープはまだ温かい。
肉も残っている。
食べなければ、誰かに渡るのだろうか。
それとも、使われないまま消えるのか。
「ミオの分だ。残す必要はない」
クロウが言った。
ミオは木匙を握り直した。
「……はい」
もう一口、スープを飲む。
罪悪感は消えなかった。
それでも、食べる手を止めることはできなかった。
最後に焼き菓子を口へ入れた。
表面は少し固く、中は柔らかい。
甘い味がした。
舌に残る甘さに、目の奥が熱くなる。
泣くつもりはなかった。
それでも涙が一滴、頬を伝った。
慌てて袖で拭う。
クロウは理由を尋ねなかった。
食べ終えた盆を確認し、空中へ手を伸ばす。
盆と食器が淡い光に包まれ、そのまま消える。
「状態は?」
「状態?」
「疲労と空腹は軽くなったか」
言われて、ミオは自分の身体を確かめた。
空腹は消えている。
寒さも、先ほどまでより感じない。
身体の重さが薄れていた。
昨夜もまともに眠れていないはずなのに、頭が少しはっきりしている。
「楽になりました」
「食事効果は出てるな」
クロウはそれだけ確認すると、厨房を出た。
ミオも席を立ち、その後を追う。
指揮所へ戻ると、部屋の壁際に小さな箱が置かれていた。
先ほどまではなかったものだ。
クロウが蓋を開け、中から折り畳まれた衣服を取り出した。
清潔な白いシャツ。
濃い色の布のチュニック。
膝下まで届く軽い外套。
柔らかそうなブーツ。
手袋と、薄い布のインナー。
全て、今ミオが着ている服より新しかった。
破れも、染みもない。
「装備一式だ」
クロウが机へ置く。
「余ってた物だが、今の服よりはましだ」
ミオは服へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。
「これも、私が使っていいんですか」
「そのために出した」
「でも、こんなに……」
「同行するプレイヤーの装備が、初期状態以下だと困る」
クロウは服の上へ手をかざした。
「装備画面が使えれば、登録して終わるんだが」
「まだ見えません」
「なら、普通に着替えればいい」
クロウは箱の中から、もう一枚薄い布を取り出した。
「汚れた服は捨てても構わない。残すなら箱に入れろ」
ミオは自分の袖を見た。
固い灰色の布。
擦り切れた袖口。
誰が着ていたのかも分からない服。
村へ来た日に渡されてから、ずっとこれを着ていた。
洗うための替えもなかった。
残したいとは思わなかった。
それでも、服を捨てて新しいものを受け取ることに、ためらいがあった。
村人たちの視線が頭に浮かぶ。
食事だけではない。
今度は自分だけが、清潔な服まで与えられる。
「どうした?」
クロウに尋ねられる。
「外の人たちは、同じものをもらえないんですよね」
「住民用の衣服は別だ」
「私の方が、良いものですか」
「ああ」
迷わない返事だった。
「プレイヤー用だからな」
ミオは服を見つめた。
村人たちは、ミオが着ていた制服を取り上げた。
妙な服を着ている。
村の中で目立つ。
布は使える。
そう言われた。
代わりに渡されたのが、今着ている灰色の服だった。
返してほしいと頼んでも、聞いてもらえなかった。
クロウは、ミオが着ている服を確認し、新しい装備を出した。
見返りを求めない。
礼を言えとも、働いて返せとも言わない。
ただ、プレイヤーの装備として必要だと言う。
「着替えてきます」
ミオは衣服を両腕で抱えた。
「部屋を使え」
クロウは扉の方へ向く。
「着替えたら廊下へ出てくれ。装備状態を確認する」
「分かりました」
自分の部屋へ戻り、扉を閉じる。
鍵はない。
それでも、誰かが勝手に入ってくる気配はなかった。
ミオは灰色の服を脱いだ。
固い布が肌から離れる。
白いインナーへ腕を通すと、驚くほど柔らかかった。
シャツも、チュニックも、身体へ無理なく合った。
外套は軽い。
ブーツを履くと、土と小石で傷ついていた足の裏が包まれた。
紐を結び、立ち上がる。
服の表面に、ごく薄い光が走った。
驚いて袖を見る。
光はすぐに消えた。
何かが身体の周囲へ重なったような、不思議な感覚だけが残る。
鏡はなかった。
自分がどう見えているのかは分からない。
けれど、袖は擦り切れていない。
肩には正体の分からない染みもない。
足は冷たい床へ直接触れていなかった。
脱いだ灰色の服を持ち上げる。
箱へ入れようとして、手を止めた。
残しておく理由はなかった。
それはミオのものではない。
村人たちが、よそ者へ仕方なく与えたものだった。
ミオは部屋の隅に置かれた籠へ、灰色の服を入れた。
布が籠の底へ落ちる。
小さな音がした。
それだけで、納屋で過ごしたひと月まで捨てられるわけではない。
それでも、もう着なくていい。
扉を開けると、廊下で待っていたクロウが兜を向けた。
頭から足元まで確認する。
「問題なさそうだな」
「少し光りました」
「装備効果が反映されたんだろ」
クロウはミオの外套の袖へ触れ、布の状態を確かめた。
「見た目は布だが、今の段階なら十分使える」
「何にですか」
「多少の攻撃なら防ぐ」
ミオは袖を見た。
柔らかい布にしか見えない。
「これが?」
「ああ。すぐ壊れるような装備は渡してない」
クロウは袖から手を離した。
善意を説明するような言い方ではなかった。
使えない装備を同行するプレイヤーへ渡す理由がない。
クロウにとっては、それだけなのだろう。
ミオは外套の前を両手で握った。
温かい食事。
清潔な服。
足を守るブーツ。
自分で開けられる部屋。
村人たちは、ひと月かけても一つも与えてくれなかった。
クロウは出会ったその日のうちに、全てを揃えた。
人を迷わず殺す。
村を勝手に拠点へ変える。
村人を兵士にして、外へ出られないよう門を閉じる。
その恐ろしさは、なくなっていない。
それでも、クロウが自分を村人と同じ扱いにしないことだけは、少しずつ分かり始めていた。
「ありがとうございます」
ミオは頭を下げた。
今度もクロウは、礼に対して何も言わなかった。
「今日は休め」
代わりに、短くそう告げる。
「明日から拠点の中を確認する」
「私もですか」
「ミオにも管理画面を見てもらう」
クロウは指揮所の奥へ歩き出した。
「UIが見えるか、もう一度試す」
ミオはその背中を見送った。
管理画面が何なのかは、まだ分からない。
自分に見えるとも思えなかった。
それでも、明日もここにいていいのだと分かった。
ミオは部屋へ戻る。
新しいブーツの足音が、木の床へ小さく響いた。
今夜は空腹を抱えずに眠れる。
乾いた毛布の中で。
外から扉を閉ざされることもなく。
その安心を手放したくないと思ったことに、ミオは気づかないふりをした。




