第19話 日本という言葉
東の街道を、二人の人影が歩いていた。
ミオは指揮所の窓から、その姿を見つけた。
一人は肩から鞄を下げている。
もう一人は、大きな布包みを抱えていた。
荷車はない。
バルトの姿もなかった。
二人は、そのままエルク拠点へ向かっている。
クロウは朝から、レイヴン前哨拠点へ向かっていた。
石壁と見張り台の修復状況を確認するためだ。
日が落ちる前には戻ると言っていた。
今、エルク拠点を管理しているのはミオだった。
ミオは指揮所を出る。
門には農民兵が二体いる。
「二人来ます」
ミオは農民兵へ指示した。
「門は片側だけ開けてください」
一体が横木のそばへ移動する。
もう一体は槍を持ったまま、門の正面に残った。
ミオは門まで歩き、街道へ目を向ける。
二人の姿が、少しずつ近づいてきた。
男は、薬草を入れるのに使われるような革の鞄を持っている。
女が抱えている包みからは、巻かれた布の端が見えていた。
二人とも武器は持っていない。
それでも、ミオは農民兵の位置を確認した。
知らない者を、見た目だけで信用するつもりはなかった。
やがて、二人が門の前で足を止めた。
男が先に口を開く。
「エルク村はこちらで合っていますか?」
「今はエルク拠点です」
ミオが答えた。
男は門の上に浮かぶ黒い鳥の紋様を見上げた。
隣の女も、一度だけ紋様へ目を向ける。
だが、すぐに二人の視線がミオへ戻った。
「あなたが、ミオさんですか?」
女が尋ねた。
ミオの表情がわずかに変わる。
「どうして私の名前を?」
「バルトさんから聞きました」
「バルトさんから?」
「はい」
女は小さく頭を下げた。
「私はサヨです。リード村で布を扱っています」
隣の男も続く。
「レンです。薬師見習いをしています」
リード村。
前日にバルトが帰っていった場所だ。
ミオは二人が持っている荷物を見る。
「今日は何の用ですか?」
「薬草と薬を少し持ってきました」
レンが肩から下げた鞄へ手を添えた。
「交換できる物があればと思って」
「私も布と糸を持ってきています」
サヨも答える。
取引。
それなら、エルク拠点へ来る理由にはなる。
バルトが持ってきた鉄製の道具ほど優先度は高くないが、薬草も繊維も使い道はある。
「荷物を確認します」
ミオは農民兵一体を門に残した。
もう一体を伴い、自分も外へ出る。
レンが鞄を開いた。
中には、乾燥させた薬草を入れた小袋がいくつかある。
小さな容器に入った薬もあった。
「これは?」
ミオが容器を見る。
「傷に使う薬です」
レンが答えた。
「こっちは熱が出た時に使います」
同じ薬草でも、使い方が違うらしい。
ミオが普段扱っているのは、資源としてまとめられた《薬草》だ。
どの葉を、どのように薬へ加工するのかまでは知らない。
続いて、サヨが布包みを開いた。
丈夫な布。
細い縄。
補修に使えそうな糸。
「この布は丈夫です」
サヨが一枚を広げる。
「袋や服にも使えます。縄は物を固定する時にも使えます」
前哨拠点では、まだ修復が続いている。
エルク拠点でも繊維は使う。
持ってきた量は多くないが、交換する価値はあった。
「何が欲しいんですか?」
ミオが尋ねる。
「食料と交換できれば」
レンが答えた。
「多くなくて構いません」
ミオは少し考えた。
二人が持ってきた量なら、エルク拠点の備蓄を大きく減らすこともない。
「分かりました」
ミオは門を片側だけ開けさせた。
「中へ入ってください。ただし、倉庫の中には入れません」
「はい」
サヨが答える。
レンも頷いた。
二人が門を通る。
農民兵一体は門に残した。
もう一体は、ミオたちの少し後ろを歩かせる。
レンとサヨは何も言わず、広場へ目を向けた。
労働ユニットが木材を運んでいる。
別の労働ユニットが、運ばれた木材を決められた場所へ積んでいく。
採取から戻ったユニットも、荷物を下ろしていた。
誰も立ち話をしていない。
作業の手を止める者もいなかった。
レンの歩みが少し遅くなった。
サヨも、木材を運ぶ労働ユニットへ目を向けている。
「倉庫の前で交換します」
ミオが言った。
二人は黙って後に続いた。
倉庫前の空いた場所で、レンとサヨが持ってきた物を並べる。
ミオは布と糸、薬草を確認した。
「これと交換します」
労働ユニットに、一般糧食を入れた袋を運ばせる。
一体の労働ユニットが袋を抱え、倉庫から出てきた。
レンが、その姿を見た。
労働ユニットはミオの前まで来ると、袋を指定された場所へ置く。
そのまま次の作業へ戻ろうとした。
「すみません」
レンが呼びかけた。
労働ユニットは止まらない。
レンがもう一度声をかける。
「少しいいですか?」
それでも反応はなかった。
サヨがレンを見る。
労働ユニットは二人へ顔を向けることもなく、そのまま倉庫へ戻っていく。
「作業中です」
ミオが言った。
レンが振り向く。
「用があるなら、私に言ってください」
「今の人に、聞きたいことがあったんです」
「何ですか?」
レンはすぐには答えなかった。
労働ユニットが消えた倉庫の入口を見る。
「……いえ」
サヨがレンの袖へ触れた。
レンは口を閉じた。
二人が交易以外のことを気にしている。
ミオにも、それは分かった。
バルトから何を聞いたのか。
元村長の言葉も伝わっているはずだ。
ミオは農民兵の位置を確かめた。
倉庫の前に一体。
門にも一体。
ほかの農民兵も、エルク拠点の中にいる。
「交換はこれで終わりです」
ミオが言った。
「ほかに用がなければ、門まで案内します」
レンとサヨが顔を見合わせた。
先に口を開いたのはサヨだった。
「ミオさん」
「何ですか?」
「少しだけ、お話しできませんか?」
「何の話ですか?」
サヨはすぐには答えなかった。
周囲を一度見る。
農民兵。
労働ユニット。
倉庫で作業する住民。
それから、もう一度ミオを見た。
「確認したいことがあります」
「ここで話してください」
「分かりました」
サヨは小さく息を吸った。
そして、声を落とす。
「スマホ」
ミオの動きが止まった。
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
理解した途端、胸の奥が強く鳴った。
「……今、何て?」
「スマホです」
サヨが繰り返した。
ミオは何も言えなかった。
手の中に収まる薄い板。
指で触れる画面。
写真。
文字。
連絡先。
充電が少なくなると表示される赤い印。
もう、ずっと見ていない。
この世界へ来てから、一度も触れていない物だった。
「知っていますか?」
サヨが尋ねた。
ミオはサヨの顔を見る。
次に、レンを見る。
二人とも、ミオの返事を待っていた。
「……知っています」
ようやく声が出た。
レンの表情が変わる。
サヨも、小さく息を吐いた。
だが、それだけでは終わらなかった。
「コンビニ」
サヨが言った。
また、記憶が戻る。
明るい照明。
並んだ商品。
飲み物が入った冷たい棚。
温められた弁当の匂い。
夜でも明るかった店内。
「知っています」
今度は、先ほどより早く答えられた。
レンが一歩だけ前へ出ようとした。
農民兵が動く。
レンはすぐに足を止めた。
「近づかないでください」
ミオが言った。
「分かりました」
レンは両手を身体の横へ下ろした。
敵意を見せる様子はない。
「僕たちも知っています」
レンが言う。
「スマホも、コンビニも」
ミオは二人を見た。
「どうして……」
言葉が続かなかった。
サヨが、静かに口を開く。
「日本」
その一言で、周囲の音が遠くなったように感じた。
日本。
ミオは目を見開いた。
この世界へ来てから、誰の口からも聞かなかった言葉。
クロウとは、日本のことを詳しく話したことがない。
二人とも日本から来た。
それだけは分かっていても、あえて過去を話題にすることはなかった。
けれど今、目の前にいる二人がその名前を口にした。
日本。
ミオが、この世界へ来る前にいた場所。
学校へ行ったこと。
店で買い物をしたこと。
スマホを使っていたこと。
当たり前だったものが、途切れ途切れに頭へ戻ってくる。
ミオはしばらく声を出せなかった。
「ミオさんも、日本を覚えていますよね」
サヨが尋ねた。
「……はい」
否定できなかった。
否定する理由もなかった。
「覚えています」
レンの肩から力が抜けた。
「やっぱり」
サヨも安堵したように息を吐く。
「会えてよかったです」
その言葉に、ミオはすぐ返事をできなかった。
「二人も、日本から来たんですか?」
「日本にいた記憶があります」
レンが答えた。
「僕も、サヨも」
「いつから?」
「気づいた時には、この世界にいました」
「私もです」
サヨが続ける。
ミオは二人を見る。
服装は、この世界のものだった。
レンは薬師見習い。
サヨは布職人。
少なくとも、そう名乗っている。
それでも二人は、スマホを知っている。
コンビニも。
日本も。
クロウ以外にもいた。
日本を知っている者が。
「どうして、私が日本を知っていると思ったんですか?」
ミオが尋ねた。
レンとサヨが顔を見合わせる。
「バルトさんから話を聞きました」
レンが答えた。
「エルク拠点のことを」
ミオの身体に、再び力が入る。
やはり、元村長の話はリード村へ伝わっていた。
「それで?」
「クロウという人が、バルトさんたちをNPCと呼んだと聞きました」
レンが言った。
NPC。
ミオには、もう聞き慣れた言葉だった。
クロウは村人をNPCと呼ぶ。
山賊も。
商人も。
それを不思議に思うことは、以前より少なくなっている。
だが、レンの表情は硬かった。
「NPCという言葉を知っているなら、日本の記憶を持っている可能性があると思いました」
「それで、ここへ?」
「はい」
「クロウさんに会うためですか?」
「最初は、そのつもりもありました」
レンが答えた。
「でも、バルトさんからミオさんのことも聞きました」
サヨが続ける。
「レイヴンの内政担当をしている、ミオという人がいると」
ミオは二人を見た。
「私に会いに来たんですか?」
「はい」
サヨは迷わず答えた。
「ミオさんと話したかったんです」
「何を?」
その問いに、二人はすぐには答えなかった。
ミオの警戒が戻る。
日本を知っている。
それだけで、信用できるわけではない。
クロウはプレイヤーだった。
そして、ミオを助けた。
だが、目の前の二人が同じとは限らない。
「クロウさんは、今ここにいないんですね」
レンが尋ねた。
ミオの目が細くなる。
「今は不在です」
それ以上は答えなかった。
「私がエルク拠点を任されています」
レンは、ミオの反応に気づいたらしい。
「何かするつもりはありません」
「僕たちは武器も持っていません」
「武器がないから安全とは限りません」
ミオは答えた。
以前、倉庫で小刀を向けられた時も、相手は最初から敵として近づいてきたわけではなかった。
二人の表情が少し変わる。
サヨが先に頷いた。
「そうですね」
言い返さなかった。
「警戒されるのは当然だと思います」
ミオは、少しだけ意外に思った。
「でも、私たちはミオさんを傷つけに来たわけではありません」
サヨが続けた。
「話をしたいだけです」
「どうして私と?」
レンが一度、広場の方へ目を向けた。
労働ユニットが作業を続けている。
「バルトさんから、ここで起きたことを聞きました」
その一言で、何を話したいのかが少し分かった。
元村長。
兵士。
労働ユニット。
NPCという言葉。
二人が何を気にしているのか。
「村の人たちのことですか?」
ミオが尋ねた。
レンは頷いた。
「それもあります」
「私たちは、何が起きているのか知りたいんです」
サヨが言った。
「それから、ミオさんがどうしてここにいるのかも」
「私は、ギルド《レイヴン》の内政担当です」
ミオはすぐに答えた。
「エルク拠点と、レイヴン前哨拠点を管理しています」
サヨは否定しなかった。
「はい」
ただ、静かに頷く。
「それも含めて、ミオさんから聞きたいです」
ミオは黙った。
このまま二人を門の外へ出すことはできる。
交易は終わった。
もう拠点内へ置いておく必要はない。
農民兵へ指示すれば、二人を門まで連れていける。
それでも、ミオは二人を見ていた。
スマホ。
コンビニ。
日本。
この世界へ来てから、クロウ以外の誰とも共有できなかった言葉だった。
クロウも、日本について多くを話すことはない。
二人がどこで暮らしていたのか。
どうしてこの世界へ来たのか。
今まで何をしていたのか。
聞きたいことはあった。
同時に、二人が何を言おうとしているのかも気になった。
「ここでは話せません」
ミオが言った。
レンとサヨが顔を上げる。
「場所を変えます」
ミオは農民兵へ向き直った。
「一体は門へ戻ってください」
農民兵一体が門へ向かう。
もう一体には、そのままついてくるよう指示した。
ミオはレンとサヨを見る。
「宿舎の空いている部屋を使います」
「分かりました」
サヨが答えた。
「勝手にほかの場所へ行かないでください」
「行きません」
レンも頷いた。
ミオは二人を連れ、宿舎へ向かった。
途中でも、労働ユニットは作業を続けている。
レンは一度だけ、その姿を見た。
今度は呼びかけなかった。
サヨも何も言わない。
宿舎の一室へ入る。
中には簡単な机と椅子がある。
ミオは農民兵一体を扉の外へ立たせた。
レンとサヨを先に座らせる。
ミオも二人の向かいへ座った。
扉が閉まる。
広場の作業音が、少し遠くなった。
目の前にいる二人は、日本を知っている。
スマホも。
コンビニも。
自分がいた場所の名前も。
クロウ以外にも、日本の記憶を持つ者がいた。
ミオは、二人を見た。
聞きたいことは、いくつもある。
二人がこの世界へ来てから、どこで暮らしていたのか。
どうして今まで会わなかったのか。
そして、どうして自分に会いに来たのか。
「話を聞かせてください」
ミオが言った。
レンとサヨが、静かに頷いた。
日本という言葉を知る三人が、同じ部屋で向かい合った。




