第七話 手紙
二月十三日は恭子のお母さんの命日だ。一緒に墓参りに行く約束をしていた。
翌日はバレンタインデー。僕も恭子も有給休暇を取っていた。
毎年、命日の墓参りには、恭子とお父さんは時間をずらして行くらしい。
僕には何となく恭子のお父さんの気持ちが解った。
死者にしか話せない事は色々あるのだ。
陽子さんの故郷で過ごした日々の事を思い出していた。
僕は数日おきに陽子さんのお墓に出掛けた。
掃除をして手を合わせて徒然に思いついたことを話しかけていた。
たまに陽子さんのお母さんと出くわす事もあった。
僕は度々、陽子さんの実家に赴いていたが、ただの一度もお墓で何を話していたかは、訊かれなかったし語らなかった。
死者との対話とは、そう言った物だと思う。
僕はすぐに北陸にとんぼ返りになったため、約束は果たせなかった。
恭子は残念がったが聞き分けは良かった。
待ち続ける辛さは知っている。「待ってて欲しい」とは言えなかった。
でも恭子は笑顔で 送り出してくれた。
僕は「さよなら」を呑み込んで「いってきます」と応えた。
半年の期間は、一月後には八ヶ月に延長された。
その二週間後には十ヶ月になった。
人脈に無頓着だったツケがきたようだった。
本社の居心地がいいとは思わない。
北陸の居心地が悪いわけでもない。
だからといって納得できるわけではないのだ。
僕の不遇を喜んでいる連中が利益を得ていることが気に食わなかった。
ようするに僕は寂しいのだろう。
能登は美しい処だった。
大雑把で馴れ馴れしい土地柄は癇に障ったが、風景は悪くなかった。
三月になると仕事も落ち着き、休日が取れるようになった。
僕は兼六園に桜を見に行ったり、小松に飛行機を眺めに出掛けた。
避雷針のやたらに多い町並みも印象的だった。
小さな神社や社が多く、道祖神にも味わいのある物が多かった。
相変わらず電話の苦手な僕は、恭子に手紙を書くようになった。
手紙は僕のマンションに「木立和彦方三島恭子様」宛で出した。
期待通り恭子はとても喜んでくれた。受け取る度に、電話かメールを返し、数日遅れで短い手紙をくれた。
「字が汚くて恥ずかしい」と電話でこぼしていたが、彼女の文字は女らしくて僕には十分好ましかった。
マンションの側に画材屋を見つけた。
僕はそこで中目のスケッチブックと四十八色の色鉛筆を買った。
「筆洗わなくていいから楽」
いつか陽子さんが言ったのを思い出した。
描くこと自体数年ぶりだし、初めての画材だから最初は手間取ったけれど、色鉛筆は僕に向いていたようだ。
なんと言っても、筆を洗わなくていいから楽だった。
恭子への手紙はスケッチブックの切り取ったページになった。
最初は古い社を描いた。無人だけど掃除が行き届いていて厳粛な雰囲気が気持ちよかった。裏面に簡単な地図と社の由来を書いた。
恭子の喜びようは凄かった。興奮して電話を掛けてきて「ありがとう」を繰り返した。あんまり喜んでくれたので僕は恥ずかしくなって、途中で用事がある振りをして切ってしまった。
数日して恭子からの手紙が来た。
「うるさくして、ごめんなさい。でも、本当に嬉しかったんです」
そう結ばれていた。
僕は返事を書く代わりに新しい手紙を送った。
タンポポの花を描いた。一般に見かけるのは殆どが西洋タンポポだ。
能登では古来の日本タンポポを見つけることがあった。
花を大きく描きその横に在来種と帰化種の見分け方の解説を図入りで書いた。
恭子への手紙を描くために、僕は雨の降らない休日はほとんど外に出掛けた。
その度に美しいものに出会えた。自分が今までの人生で、どれほど多くの美しいものを見逃しながら生きてきたのかを思い知った。
一緒にいたときよりも恭子が大切な存在になっている事に気付いた。
九通目の手紙を投函した日、恭子からメールが来た。
「真梨子さんに手紙を見せて欲しいと言われています。見せても良いですか?」
「君にあげた手紙です、君が決めていいんだよ」と返信した。
その夜、真梨子から電話があった。
「恭子さんばっかりずるい」と、言われた。
「今年も栗の甘露煮、あげたのに」と、言われた。
別にずるいとは思わなかったが、僕は何故か謝っていた。
一面のれんげ畑を見つけた。
僕は車を止めて、立ち尽くした。その景色に見惚れていた。
追憶に捕まりそうだった。
子供の頃は僕の故郷でも、春にはれんげ草で一杯だった。
陽子さんと初めて話した日。彼女の自転車を直してあげたときも、辺りはれんげ草でいっぱいだった。
僕は何も言えず逃げるように走り去った。
振り返った時、陽子さんの黒い服とグリーンの自転車が、一面のれんげ畑に揺れながら遠ざかってゆくのが見えた。
たぶん、そのとき、僕は陽子さんに恋をしたのだ。
追憶に捕まってしまった。不思議と涙は出なかった。
甘やかな痛みに僕の胸は満たされた。
僕はこの風景に逢いたかった。
夕暮れまで僕は動けなかった。
部屋に帰ったあと、その記憶の中の風景を描いた。
先を丁寧に尖らせた色鉛筆で一本一本れんげ草を、画用紙に植え付けた。
描いては削り、削ってはまた描いた。赤系色の鉛筆は全て親指くらいの長さにまでちびてしまった。
紙の目を辿るように青と黄色で空を重ねた時は、もう朝になっていた。
出勤まで二時間は眠れそうだった。
スケッチブックを閉じた。僕は満たされて夢も見ずに眠った。
「こんなにも長くあの風景を忘れていたのは何故だ」
眠りに落ちる瞬間、そう考えた。
陽子さんに出会うまでと出会ってからの時間が、二十数年かかって
漸く繋がったような気がした。
目覚めてすぐ、僕はスケッチブックを開いて絵を確かめた。
一面のれんげ草に囲まれて立ち尽くした一日も、懐かしい風景を描き続けた夜も、全ては夢の中の出来事のように思えたからだ。
僕はゆっくりと画用紙に描かれた風景を目で辿った。
暖かい絵だと思った。自分の絵ではないみたいだった。
恭子に見せたかった。
恭子と話したかった。
恭子に逢いたかった。
「君に話してあげるために
美しい風景を探しにゆきます。
君の隣で君を想いぼくの心はやわらかくなる
遠く離れて君を想いぼくの心はゆたかになる」
裏に走り書きした。
気恥ずかしい言葉だと我ながら思った。でも正直な気持ちだった。
きっと恭子は喜んでくれるだろうと思った。
恭子から短い返事が来た。速達だった。
「あなたからの手紙はわたしの大切な宝物です」
ただそれだけだった。
恭子からの手紙は僕の大切な宝物だ。
夏に恭子が遊びに来た。
一泊だけの短い滞在だった。
僕たちは獅子吼高原でゴンドラに乗り、パラグライダーが鳶のように空を旋ってゆくのを眺めながら話しをした。
恭子は薄いアルバムを持ってきてくれた。初美さんの最近の写真だった。
佐久間と真梨子が僕に会いたがっていると伝えられた。
恭子の膝で少しだけ眠った。おでこに掌をあててくれた。
真梨子から何か聞いたのかなと思った。
夕暮れ前、恭子をれんげを眺めた場所に連れて行った。
まだ花もついていない田圃はただ青々として美しかった。
あぜ道を手をつないで歩いた。
恭子の水色のワンピースが一足毎にひらひら揺れた。
「次にこの場所に来たとき、今日の恭子を思い出すのだろう」
そう思った。
恭子と肌を併せた後は、必ず寂寥と罪悪感に襲われる。
でも、僕はもうそれを恐れてはいない。
痛みも悲しみも陽子さんが残してくれたものだ。捨てられる筈がない。
僕には大切なものだ。
『僕はこの人を愛しています。ごめんなさい』
恭子の寝顔は安らかだった。
夜半から雨が降った。
雨音で目が覚めた僕は、そっとベッドから抜け出して眠る恭子にタオルケットをかけ直した。
聞こえるのはエアコンの低い唸りと雨音だけだった。
まるで恭子と僕を残して世界が死に絶えたみたいで非常に良い心持ちだった。
「僕の相手をするのは色々大変だと思う……でも、ずっと傍にいてほしい」
眠っている恭子になら素直に言えた。
「ずっと傍にいますよ。絶対。だから捨てないでくださいね」
「ごめん。起こしちゃった?起きてたのかな」
「わたしは眠っているのでこれは寝言です。でも、もっと安心して眠りつづけるために抱きしめてくれていいですよ」
ベッドに戻って、恭子を羽交い締めにした
「不安にさせてごめんね」
「あの、寝言なんであやまらないでください」
「捨てるなんてありえないよ。僕はヒグマみたいに執着が激しいんだ」
「ヒグマって執着がはげしいの?」
「そうだよ。一度自分の物だと思ったら離さない。
弁当の入ったリュックサックをヒグマに取られた登山者がリュックとカメラを取り返して逃げたら何日も追いかけられた話もある」
そういって頭を甘噛みすると恭子は「こわいですね」とくすくす笑った
そのまま眠るために目をつむった。恭子はもう寝息を立てていた。
僕は三毛別ヒグマ事件を思い出していたけど、話すことを自制できた自分をこっそり誉めていた。
翌朝、恭子は僕を仕事に送り出したあと、部屋の掃除と夕食の支度をして帰った。
恭子は聞き分けが良すぎて少し淋しかった。恭子が渋れば、僕は仕事を休むつもりだった。
僕も聞き分けが良すぎるのかも知れない。
秋に金沢で陽子さんのお母さんと偶然再会した。
学生時代、僕は陽子さんの実家には何度もお邪魔した事があるが、陽子さんの話は殆どしたことはない。
卒業して地元に帰るとき、彼女はアルバムの写真をくれようとしたが僕は辞退した。僕の立場はあくまで「近所の子供」だった。
料亭で昼食をご馳走になり二時間ほど話しをして別れた。
「ついでの時にでもまた遊びにいらっしゃい」彼女は言った。
彼女は陽子さんを理解しようとして理解できなくて苦しんでいた。
僕の母と同じだった。
その夜、実家に電話を掛けた。
母と一度でも争ったことがある訳ではないが、何故か和解したような気分になった。
初雪が降った日、僕は能登を離れ地元に戻った。
最終日には支社のスタッフが総出で見送りに出てくれた。小さな花束を貰った。
「こちらに来られることがあれば必ず寄って下さい」
と、現地の上役から言われた。追従ではないみたいだった。
「北陸の規模が拡大すれば嫌でもまた飛ばされて来るかも知れません」
そう応えると笑いだけでなく少しだけ歓声があがった。
他人から好かれるというのも悪くないものだと思った。
恭子と出会って僕は変わったのだろう。
高速道路を西にたどりながら、僕は恭子に送った二十三通の手紙のことを思った。
訪ね歩いた能登の風景を思い、陽子さんと恭子を思い、佐久間と真梨子を思い、初美さんを思った。
次回、最終話「ポイント・オブ・ノーリターン」
本日20時30分頃更新です




