第六話 たいせつな人
恭子は元気が無かった。
美術館に行く予定だったけど、取りやめて散歩をすることにした。
どこか遠くから気の早いジングルベルが聞こえてきた。
「少し話したいな」
僕が促すと恭子はベンチに座った。
「お話ってなんですか?」
僕はこの二月足らずの間に、思ったことや感じたことを率直に恭子に話した。
やめてほしいと何度も言いそうになったことや、同意した恭子のお父さんを少しだけ逆恨みしたことも、
ドナーが別の人に決まって喜んだことも話した。
恭子は何度も小さく頷いた。俯いたまま泣いていた。
僕が話し終えると何度もしゃくりあげた。
「ほんとは、少し、だけ怖かったんです」
「でも、逃げた、ら誰かが死んじゃうし」
「あなたが、応援するよって、言うから」
「ほんとは、少しだけ、怖かったんです」
恭子は何度もつっかえながら言った。
『少しだけじゃないだろう』
そう思ったけど口には出さなかった。
「逃げてもいいよって言ったら、逃げた?」
恭子はぶんぶんと首を横に振った。
「ドナー登録、取り消してもいいよ」
恭子はまた首を振った。
腕を回してそっと肩を抱いた。恭子はまた泣き始めた。
腕の中で大切な人が泣いているのに幸せな気分だった。
ふと、思い出した。
このベンチは真梨子との最後のデートで座ったのと同じベンチだ。
確かあそこの自販機でコーヒーを買ったんだ。
そう思って目をやったが、紙コップの自販機はなくなって缶だけになっていた。
あの頃、缶コーヒーは百円だった。
『随分経ったもんな、変わるのは当たり前か』そう思った。
十三年前、陽子さんになろうとした女の子とここで別れを選んだ。
同じ場所で今、陽子さんに何一つ似ていない女の子の肩を抱いている。不思議だった。
「お化粧くずれちゃった」
独り言のように恭子が言った。僕にはよく分からなかった。
トイレに化粧を直しに行った。
戻ってきた恭子の手を引いて僕は歩き出した。
慣れていないのだろう。恭子はとても恥ずかしそうだった。
僕も真梨子以外の女の子と手を繋ぐのは初めてだった。
「ちょっと待ってて」
恭子を待たせて、僕は屋台で鯛焼きを三個買ってきた。
「甘い物食べると女の子は落ち着くんだろ」
恭子は頷いた。僕たちは、立ったまま鯛焼きを食べた。
「本当に落ち着きました」
驚いたように言った。 血糖値の上昇による鎮静作用だろう。
理屈はともかく確かに落ち着いたみたいだった。
残りの一個を薦めたが恭子は半分こにするといって聞かなかった。
飲み物無しで一個食べた時点で僕の限界は超えていたけど、僕は恭子の望むとおりにしてあげたかった。
僕たちは手を繋いでまた歩き始めた。
広場に展示されたSL機関車の影に隠れて、初めてのキスを交わした。
恭子の唇は甘かった。
『ごめんなさい。僕はこの人を愛しています。ごめんなさい』
恭子を抱きしめながら僕は陽子さんを呼び続けていた。
「あの、和彦さん」
「何?」
「もしかして泣いてますか?」
「うん。そうかもしれない」
「あの、心配かけて、すみませんでした」
「うん。でもそういう問題じゃないんだ」
「はい」
「君が好きだ」
「はい」
その夜、恭子を抱いた。
自分から望んで女の子と寝たのは初めてだった。
クリスマスに僕らは佐久間の家に集まった。
佐久間はまだ帰っておらず、初美さんは眠っていた。
初美さんがサンタさんからのプレゼントを凄く喜んでいたという話をしていた。
僕は珈琲を片手に本を読みながら、聞くともなしに聞いていた。
「本当?普通、五年生まで信じたりしないでしょ?」
「今思えばそうなんですけどね。父が凄く巧妙だったんです」
「ちなみに私は三年生までかな」
「あんまり変わらないですよ」
何歳までサンタを信じていたかという話題に移ったらしい。
恭子が僕に話を振ってきた。
「和彦さんは何歳まで信じてましたか?」
「信じてたって何を?」
「サンタクロースです」
「だから何?」
「ですからサンタクロースです。何歳までサンタを信じてたかって話しです」
「……っぱり」
「はい?」
「……やっぱり、嘘なの、か?サンタって、やっぱり嘘なんだ」
恭子から目をそらし俯きながら、なるべく小さな声でいった。
「そうだよな、ちょっと考えれば解るのに……」
「え、え、え、え、え、え、え?」
「……やっぱり嘘なんだ」
恭子は狼狽していた。真梨子は吹き出すのを堪えている。
「嘘か……、そうだよな、嘘……」
「え、え、あの、わたし、あの、ごめんなさい」
真梨子が堪えきれず笑い出した。
「な、恭子って可愛いだろ?」
真梨子と僕はピースを出し合った。
恭子も笑ったが目は涙ぐんでいた。
本当に可愛いと思った。
年が明けてすぐ北陸への四週間の出張が決まった。
今までは出張の度に佐久間に観葉植物の世話を頼んでいたが、これを機会に恭子に鍵を渡した。
「ちゃんとやります。任せて下さい!」
鉢植え一つの事なのに恭子には気合いが入っていた。
もっとも鉢植えが一つになったのは最近の事だ。
佐久間は留守番の目的を忘れてインターネットで遊んでいただけだった。
僕が戻ったときには、部屋は別世界になっていた。自分の部屋が散らかっている有様を初めて見た。
「残ったビールはやるけん。勘弁してくれ」
少しだけ恩着せがましく言って佐久間が帰った後、僕は怒りに震えながら三時間以上かけて部屋を片付けた。
佐久間は常時接続が目当てで毎日来ていたらしいが、バルコニーは省みられることがなかった。ポインセチアは全滅していた。
真梨子にも陽子さんにも関係なく、初めて佐久間を憎いと思った。
無事だったのは屋内のステレオペルマムだけだった。
これは恭子と付き合う切っ掛けになった物でもあったので、恭子も無事を喜んでくれた。
「鍵は返さなくても良いよ」
恭子は文字通り飛び上がって喜んだ。僕も嬉しかった。
「あのですね、ひとつお願いがあるんですけど…」
「うん」
「もし、電話が掛かってきたら、出てもいいですか?」
僕には恭子がそんな事をなぜ、わざわざ訊ねたのか解らなかった。
恭子は毎日寄ってくれると言っていた。
実際仕事帰りの一時間と休日の一日中、僕の部屋にいたらしい。
四日目に電話を掛けてみると
「はい。木立です」
喜びに溢れるような声で恭子が出た。
恭子は僕の名字で電話に出たかったらしい。気の利かない僕にもようやく解った。
それ以来、恭子の居そうな時間に仕事が終わると、僕は自分の部屋に
電話を掛けるようになった。
相手が恭子でも電話では上手く話せない。もどかしかった。
膝を抱えて電話を待つ恭子の横顔を想像した。
胸が締め付けられる思いだった。
僕は「週に二回だけ水をやってくれれば良いんだよ」と、離れる前に教えた事を繰り返した。
恭子は「電話を待つのが楽しい」と答えた。本気らしかった。
鳴らない電話を待ち続ける苦しさしか僕は知らない。
恭子には特別な力がある。
小さな日常の中から、煙草の先の火のように微かな炎を掻き立て、心を明るませる術を知っている。
——そんな恭子が少しだけ妬ましかった。
出張を終えた僕を、恭子は僕の部屋で迎えてくれた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
ただそれだけで、報われた思いだった。
帰るという言葉の意味を初めて知った気がした。
恭子は向こうでの話を聞きたがった。
環境が変われば発見があり、それは楽しく語り合うテーマになると
信じているらしい。僕は仕事以外に目を向けなかった事を後悔した。
「次に行く機会があれば、ちゃんと見てくるよ。君に話してあげられるようにね」
そう約束した。
意外にというか非情にも、すぐにその機会は訪れた。
僕は向こうで頑張りすぎたらしい。プロジェクトの立案だけでなく立ち上げにも責任を持つようにと会社から命令をうけた。
今度は半年という長期の出向だった。
次回、第七話「手紙」
明日11時30分頃更新です




