第五話 ドナー候補者選定通知
僕と恭子はデートの帰りには佐久間の家に寄るようになった。
初美さんの寵愛を二人で奪い合って遊ぶ。
勝つのは必ず真梨子が味方に付いた方だ。
恭子と真梨子はすっかり仲の良い友達になってしまった。
僕は恭子に何でも真梨子から聞いていいと言った。
隠したい事は山ほどあるけど構わないと思った。
やがて恭子一人でも佐久間の家に遊びに行くようになった。
育児で家を出られない真梨子のためにもそれは良いことだと思った。
「あなたの時には、私が行ってあげるから」
近頃、真梨子は度々言うそうだ。
僕をせっついているのだろう。
無理もない。恭子に出会ってから一年半が過ぎようとしていた。
僕の携帯電話に恭子からのメールが入った。
「今晩部屋に行って良いでしょうか?話したい事があります」
僕は「待ってる」と返信を入れた。
多分、よほどの事なのだろう。
マンションに帰ると恭子は駐車場で待ちかまえていた。
見るからに嬉しそうな様子だった。子供のように走って僕を出迎えてくれた。
「協会から連絡がありました。適合者が見つかったんです」
協会とは骨髄バンク協会のことだ。
ピンク色の封筒を差し出した。
「わたしが同意したら詳しい検査をするんです」
恐ろしい言葉だった。
僕はそれまでドナーになるということを理解していなかった。
知識として知っているだけだった。
世界中で四万例を越える骨髄移植でドナーの死亡事故は二件しか起きていない。
どちらも麻酔事故によるもので骨髄移植そのものはドナーにとって「確率としては」危険なものではない。そんなことは百も承知だ。
もし選ばれたのが僕なら、せいぜい休暇の心配をするくらいで誇らしい気持ちで協力
するだろう。
しかし、選ばれたのは恭子だ。
無邪気に喜ぶことは出来なかった。
採血ならば採血針を固定して真空採血管を交換するだけだが、骨髄液はそんな簡単には採取できない。
同じ場所に針を固定して採取を続けたら骨髄液が血液で薄まってしまう。骨の中を骨髄穿刺針でまさぐり、かき集めるように骨髄液を採取するのだ。
しかも骨髄穿刺針は硬い骨を突き破るための工具も兼ねている。採血針とは比較にならないくらい太く頑丈に出来ている。
「長い場合は採取後数ヶ月に渡り痛みが残る」と言われれば「そりゃそうだろう」と思えてしまう。
以前はドナーからの骨髄採取には硬膜外麻酔(局部麻酔)が使われていた。
全身麻酔は「人工呼吸器を使い、意識を完全に消失させる大がかりなもの」であり、健康なドナーに対しては「過剰でリスクが高い」と考えられていた。
ドナーの死亡事故をきっかけに全身麻酔に変更された過程を知っている者には確率だけで語られても安心できるものではないのだ。
うつ伏せに転がされた恭子の腰のえくぼに、針が深く繰り返し突き刺される姿を思い浮かべた。
繋がれた何本ものチューブ。ステンレスのトレイにずらりと並べられた大きな注射器、その中には濁ったルビーのように鈍く光を反射しながら恭子の骨髄液が揺れている。ぶらぶら揺れる輸血パックから垂れ下がったチューブの中を、恭子の血液が流れ落ちていくところまで見える気がした。
もし途中で死んでしまったとしても、恭子は眠ったままで気づきもしないのだ。
目が覚めたら半身不随という可能性だってゼロではない。
そうまでして恭子が救おうとしている人は誰だ?
ドナーとレシピエントの間は公正平等の名の下に、一回のみの手紙の往復を除いて隔絶されている。しかもその手紙は匿名検閲付が条件だ。
自分が誰のためにリスクを取ろうとしているのか全く判らないようにしてある。
小さな子供かも知れない。多くの人に愛されている良い人かも知れない。
でも人を殺すことや騙すことを喜ぶ悪人かも知れないのだ。
「自発的善意に基づく」聞こえはいいがいかがわしい話だ。
骨髄バンクのシステムは根本的に間違っていると思った。
「そうか、やったね、おめでとう。すごい確率だね」
なんとか答えることができた。
そのあと恭子は興奮して歩きながらも話し続けた。
僕は取り繕った善人の返事をするのに精一杯だった。
恭子が帰った後も僕は揺れ続けた。
事故など滅多にあるものではない。
人の命が懸かっているのだから恭子の意思を尊重して応援してやるべきだと思った。
他人の命なんかどうでもいい。事故がなくても恭子が傷つけられるのは嫌だと思った。
最終同意まではいつでも提供意志は撤回出来るのだから、今は応援しておこう。
結局は先送りが僕の結論だった。
翌日恭子から同意書を送ったと連絡を受けた。
同意書には親族の承諾も必要だ。僕は恭子のお父さんが反対してくれるのではないかと
こっそり期待していたのに裏切られた思いだった。
暫くして恭子から検査に行ってきたと言われた。
二ヶ月位で結果が出ると恭子は言った。
「患者さんは死にかけているかも知れないのに悠長な話だよ」
僕は答えた。内心では土下座してでもやめてほしかったが、僕は気持ちを隠す事に
慣れすぎていた。
一月ほどして恭子から電話があった。
翌日はデートの約束だったから、その話だろうと思った。
「ドナー、他の人に決まったそうです……」
「そうか、残念だったね」
僕は電話を切ったあと、その場に座り込んで笑った。
理想的な結果だった。患者さんは助かり、恭子はドナーにならずに済んだ。
嬉しかった。僕はエゴイストだ。
直後に佐久間が訪ねてきた。一月以上顔を出さないので、心配になって来てみたらしい。
玄関で僕を一目見るなり、さも呆れたようにため息をついた。
「お前、また飯食ってないやろ。支度し、今日はうちで晩飯や」
佐久間の家で夕飯を食べさせてもらった。クリームシチューだった。
「離乳食だから食欲なくても食べられるよね」
真梨子から見れば僕は初美さんなみに子供なのかも知れない。
僕の話を聞くと二人とも腹を抱えて笑った。
「そんなに嫌なら『やめてくれ』って言えば良かったのに」
「せや、どうせキョウちゃん、お前の言うなりやろ」
「和彦さんもそう思います?でしたらそうします」
真梨子が恭子の口真似をした。妙に上手なのが癪に障る。
「僕は君の意見を尊重したいんだけどな。解る?」
佐久間は僕の真似をしているつもり らしかった。
初美さんも訳も分からず僕を笑った。
「もう済んだことだ。忘れてくれ」
「はい。そうですよね、わたし、忘れました」
真梨子はしつこかった。
「そうだね。そういう考え方もあるね」
佐久間もしつこい。
止める気はなさそうだった。僕が本気で不機嫌になってくると、真梨子は珈琲を
淹れるのを口実に台所に逃げてしまった。
「確かお前もドナーやったよな?」
「ドナー登録者ね。そうだよ」
「お前に声が掛かったらどうするん?もうやめるんか?」
「喜んで引き受けるよ。人の命が懸かってるのに、嫌だとか怖いとか言えないだろ」
「お前、無茶苦茶言うてるで。自分で気付いとるか?」
「解ってるよ。無茶苦茶だな」
真梨子が珈琲を差し出した。僕は頷いて受け取った。
「和彦の気持ち解るけどな」
「うん」
「一応憶えといてね。和彦がもしドナーに選ばれたら恭子さん、きっと同じくらい
心配すると思うよ」
僕もそう思った。
健康上の問題以外での同意不成立理由は親族の反対が一番多い。
思えば当然のことだ。珈琲の薫りが胸に染みた。
「まあ無事ですんで良かったやんか?泣きそうな顔しよってからに……。
せや、真梨子、デジカメ持って来、 キョウちゃんに後で見せよな。……ぬわっ」
真梨子につねられて佐久間が悲鳴を上げた。初美さんは何故か喜んで拍手をした。
佐久間がいる限り僕の人生は、けしてシリアスにはならないと思った。
次回第六話「たいせつな人」
本日20時30分頃更新です
##本作は1999年(平成12年)から2002年(平成14年)を舞台としています。
作中における骨髄ドナーの入院期間や採取後の痛み、またドナー休暇等の社会的支援に関する描写は、当時の制度や一般的状況に基づいています。
現在では、末梢血幹細胞採取(PBSC)の普及により入院期間が短縮されるケースが増えたほか、多くの自治体や企業で「ドナー休暇制度」や「助成金制度」が新設されるなど、ドナーを取り巻く環境は大きく改善されています。
もし本作をきっかけにドナー登録に関心を持たれた方がいらっしゃいましたら、ぜひ「日本骨髄バンク」の公式サイト等で、最新の正確な情報をご確認いただけますと幸いです。




