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第四話 バランス

恭子に会えない休日には相変わらず佐久間の家を訪ねた。

子供の成長は恐ろしく早い。初美さんは立ち上がって走って転ぶことを覚えた。

二人とも「立った拍子に転んでるだけ」と言ったが、僕には走っていると思えた。

「まだ一才半だろ、凄いな」

僕の驚きに、真梨子は「これぐらいで普通よ。なんでいちいち驚くのよ」と呆れ、佐久間は「牛なら生まれて二時間でこれくらいやりよる」と取り合わなかった。

初美さんの事で僕の相手を真面目にしてくれるのは、初美さん本人と恭子だけになった。僕は少し淋しく感じた。


佐久間も真梨子も一向に進展しない僕と恭子の関係を心配していた。

真梨子はその事にまで罪悪感を持っているらしかった。

真梨子が初美さんを寝かしつけに行ってしまうと、早速その話を持ち出してきた。

「なあ、お前らどうなっとんのや?」

「どうって、全部話してるだろ?」

「じゃけん、なんで半年以上も付き合うとって全部話せるくらいのことしかしとらんのや?小学生かお前ら」

「さあ」

「さあ、やない。お前のせいや」

「そうか?」

「そうや。まだ引きずっとんのやろ」

「真梨子は関係ないよ」

「解っとる。あの女のことや」

「なっ…」

「ほら、引っ掛かった。わしが『あの女』言うただけで、えらい怖い顔しよったな。

かまかけただけや。すまん」

「ああ」

「真梨子振ったんも、お前がその人に振られたんが原因やったろ」

「そんなとこだ」

「お前も真梨子もその人のことだけは何も話してくれん。十年以上前のこっちゃろ、何でや?」


一瞬『もう死んでるからだ』と言ってやろうかと思った。

そうすれば佐久間は僕にとって最悪の時期に僕を裏切って真梨子を奪ったと解釈するだろう。

佐久間とはそういう男だ。サディスティックな衝動を感じた。

今までにも、何度も同じような事があった。時折佐久間をずたずたに傷つけてやりたくなる。

一刹那を堪えれば通り過ぎてしまう程度のものだ。

今回も自制できた。初美さんが生まれてからは一度もなかったので忘れかけていた。

少し頭がふらふらした。

「しつこいな」

「すまん。また下らんこと言うてしもうたようや。この通りや」

佐久間は深々と頭を下げた。言い奴なのだ。

陽子さんの事は絶対に話せない。全部を話せば真梨子も陽子さんの死を知ることになる。

真梨子の罪ではないが、待ちきれず僕を切り捨てたことは事実だ。真梨子はまた傷付いてしまう。

あの頃の僕を救ってくれたのは佐久間だが、言ったところで佐久間本人は信じはしない。

慰めとしか受け取らない。状況としては真梨子を手に入れた佐久間だけが得をしたのだから。

せめて二人が納得するくらいに僕が幸福に見えなければ、全てを話す訳にはいかないのだ。


「そんなことよりさ、初美さんの話をしようよ」

「そやな。そうしよ」

途中から真梨子も加わって、初美さんの将来について愉快に語り合った。

大人であるというのは、なかなか便利なものだ。


それから二月ほど後、恭子を佐久間の家に連れていった。

朝からスケートリンクに出掛けた。

恭子は必死に何処かに行こうとしていたが、氷は恭子に冷たかった。氷だけに。

すぐに転んで脚をくじいてしまった。

幸い大した怪我ではなかった。

そのまま別れるのも勿体ないので、恭子を初美さんと真梨子に紹介することにした。

恭子と真梨子はすぐに意気投合した。初美さんは眠ったばかりだった。

すぐに女同士のお喋りが始まり、僕は取り残された。

珈琲だけが僕の友達だった。

「和彦さん、もしかして怒ってます?」

恭子が急に黙り込んだ僕に気を遣って話しかけてきた。

「考え事してるだけでしょ。これがデフォルト。自分が返事をしなくていいときには黙ってるの。慣れないとこっちの胃に穴があくわ」

真梨子の解説は正確で容赦なかった。

「はあ。話には聞いてたんですけど」

「高校の頃なんて、わたしと旦那以外、口がきけることも知らなかったのよ」

「そうなんですか?」

「信じたの?」

「はい」

「あなた可愛い!」

抱きつかれて恭子は悲鳴をあげた。

真梨子は、はしゃぎすぎだ。それが気になった。

多分、僕に気を遣ってくれているのだろう。


初美さんが起きると僕も元気になる。

恭子と一緒に「初美さん可愛い!」を連発した。初美さんは恭子より僕の膝を求めた。

内心嬉しくてしょうがなかった。僕の方が古い馴染みでも、女である恭子には一瞬で逆転される危険を感じていたのだ。僕は恭子にVサインを出した。

「うわっ、やなやつ」真梨子が佐久間の口真似で言った。

「おいで、初美」

母親には勝てなかった。僕の栄光は一瞬で崩れた。


ちやほやされすぎて初美さんはすぐにまた眠ってしまった。

情が移った恭子はベビーベッドから離れようとしなかった。

真梨子は珈琲のお代わりを淹れてくれた。

「可愛い人ね、恭子さん。あなたが好きになったの解る気がする」

「そうなの?」

「白くて、大きくて、ゆっくり動く」

「なにそれ?」

「目が優しくて、大きな犬みたい」

「そうだね。僕のタイプだ」

真梨子はひとしきり笑ったあと真顔になった。

「ねえ、訊いていい?」

「うん」

「もう、寝た?」

「露骨な質問だね。いいえ。手も握ってません」

「やっぱりね。好きだって言ってあげた?って貴方が言うわけないか…」

「うん」

「言ってあげなよ。男から言うものよ」

「そうなの?わかった。参考にするよ」

「ばか。しっかし、大きいね、恭子さん。びっくりしちゃった」

「本人には言わないようにね」

「言わないよ。当たり前でしょ」

「ああ、そうだ。僕の身長ちょっとだけサバ読んでるから。覚えといて」

「はいはい。あなたの方がちょっとだけ背が高いんでしょ」

「そういうこと」


くたびれたのか恭子が戻ってきた。

初美さんの寝顔を同じ姿勢で見続けていたのだろう。痛そうに首を押さえていた。

僕にも経験があった。

「お邪魔でした?」

「君のこと話してたんだ」

「わたしのこと?」

「スケートの話だよ」

「どんな風に転んだか聞いちゃった」

「うん。立ってるだけでぷるぷる震えてたとか」

「もう、何でそんなこと話すかなあ」

「可愛いと思ったからね。生まれたての子鹿みたいで」

真梨子が吹き出した。少し遅れて恭子も笑った。


佐久間が帰る時間に併せて、真梨子はすき焼きを作ってくれた。

例によって、椎茸と焼き豆腐がやたらと多いすき焼きだった。

「やっと連れて来たんか」と佐久間は大喜びだった。

佐久間が加わると話はまたスケートに戻った。

次は皆で行こうと真梨子が言ったが、恭子はスケートだけは勘弁してほしいと答えた。


帰りの車中、恭子は妙に沈んでいた。

「真梨子さんて綺麗ですね」

恭子が本当は何を訊きたいのかは解っていた。

いずれは話さなければいけない事だった。

「僕と付き合ってたんだ、高校の頃」

「はい」

「佐久間はそれよりずっと前から真梨子が好きだった」

「はい」

「真梨子は僕を好きになってくれた。

でも僕にはほかに大切な人がいて、真梨子を選んであげられなかった 。

その人がいなくなってしまったとき、真梨子を振った。

そしたら、佐久間とつきあい始めた」

「はい」

「その後、僕も真梨子が好きだったことに気付いた。間が悪いね」

「今もですか?」

「どうだろう。ちょっと違うような気がするな。佐久間とは友達だし、真梨子もなんだ。

 今更真梨子を欲しいとは思わないし、二人はお似合いだと思ってる」

「はい」

「気になる?」

「はい」

「そうだろうね」

「後悔してますか?」

「何を?」

「真梨子さんを振ったことです」

「昔はね。ちょっと早まったかなって思ったこともある。今は後悔してないよ」

「はい」

「今は後悔してない。これでよかったと思ってる」

「はい」


こんな大雑把な説明だけで納得できるわけはない。

でも恭子は微笑んでくれた。話してよかったと思った。


真梨子の妊娠が分かったばかりの頃、酔った佐久間が漏らした事があった。

「あいつな、たまにお前を重ねて俺に抱かれとる。

終わった後で泣きよることもある。こんなに幸せでお前に申し訳ない言うてなきよる。

そんで、こんなこと言ってごめんなさい言うて、また泣くんじゃ」

佐久間が何故そんな話を僕にしたのか、理由は解る気がする。

佐久間も僕を傷つけたくなるのだろう。

真梨子がまだ僕を愛しているのではない。佐久間も真梨子本人もそれを解っている。

真梨子は僕を振りきったことを認めたくないのだろう。


僕たちの三角関係は優しい物であるけれど歪んでいる。

十三年の時間を掛けて歪んだままでバランスが成り立ってしまった。

奪ったこと、待たなかったこと、選ばなかったこと。

互いに罪悪感で縛り合っている。

僕たちは何処にも行けない。

ただ時間が解決してくれるのを待っている。

恭子はまだ気付いていない。

次回第五話「ドナー候補者選定通知」

明日11時30分頃更新です

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