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第二話 ドナー登録

その日、僕は少しばかり浮かれていた。

骨髄バンクにドナー登録ができたからだ。

小児喘息の病歴があるので申請が断られるのではと心配していたから尚更だった。

検査は一時間以上かかった。正式な登録完了には一週間ほどかかるということだが問題はないだろう。

採血の前に「ご一緒に献血もいかがですか」と薦められて、少しだけ笑ってしまった。

申請の時、ドナー登録者向けのパンフレット『チャンス(CHANCE)』をもらった。

ホテルの二階にあるティーラウンジ。

お酒をたしなまない僕が、こんな気分の時、ちょっとした贅沢を楽しみたい時に訪れるお気に入りの場所で、僕は『チャンス』を読みながら珈琲を飲んでいた。

前もって調べていたことと変わったことは、何も書かれていなかった。

献血センターで受けた説明と同じような内容だった。


背の高い女の子が立ち止まって僕を見ていた。

目が合うと彼女は何か言いかけたが、ぺこりとお辞儀をして歩き去ろうとした。

僕は人の顔を覚えるのが苦手だ。

相手からは友達になったと思われていたのに、翌々日忘れていて怒らせた事もある。

彼女も知り合いかも知れなかった。

「あの、すいません、もしかしてお知り合いですか?」

間抜けな質問だった。

「あっ、はい。多分違うと思います」

間抜けな返事だった。

「それがちょっと気になったんで。すみません」

彼女は僕が持っているパンフレットを指した。

ドナー登録を考えているが、迷っている。良ければ話を聞かせてほしい。そういう事だった。

その頃、骨髄バンクのドナー登録者は十万人を越えたばかりで、身の回りに登録者の知り合いがいないのも無理はなかった。

彼女は僕のテーブルに移り話をすることにした。


骨髄移植は白血病患者だけでなく再生不良性貧血などの患者に対しても根治療法として有効であること。

ドナー登録者が現在の三倍になれば殆ど全ての移植を望む人に適合者が見つかる事などを話した。

彼女はドナー登録の意義については始めから知っていた。


実際に移植が決まった場合、ドナーに対して費用は請求されないが休業補償などの社会的支援は公務員でもないかぎりは、まったく期待できない。

入院期間は通常五日だが一週間を越えることもあり、退院後も長期に渡って採取の跡に痛みが残る場合がある。

全身麻酔が必要なため麻酔事故の危険が伴うこと等を話した。

彼女が心配していたのも麻酔事故だった。日本でもドナーの死亡事故が一件起こっていた。

麻酔事故の発生率は二千件に一件とも言われている。死亡や重度障害に直結する場合もある。

骨髄移植については、安全管理を徹底していると説明されたが安全な全身麻酔などありえない

事などを話した。

移植の準備段階では何回も提供意思確認があり、最終合意後にはレシピエントの生命に関わるため絶対に拒否はできなくなる事も話した。

骨髄移植はレシピエントにとっては文字通り命懸けの行為だ。

移植の約一週間前から行われる前処置(大量化学療法や放射線照射)によって、レシピエントの造血機能と免疫機能はほぼゼロになる。

その状態で移植がとりやめになればレシピエントは自力で血液を作ることができず、数週間以内に重い感染症や出血で命を落とすことになる。

最終同意はまさしく「ポイント・オブ・ノーリターン(引き返せない地点)」である。


「まあ、統計から言えば健康を害する事はないらしいです。でも絶対とは言い切れないし。

雰囲気や勢いで決めたりせず、慎重に考えてからにした方が良いと思いますよ」

僕は、そう話を締めくくった。気が付くと一時間近く話し込んでいた。

「あの……」

彼女は僕を何と呼べば良いのかを仕草で訊ねた。

「木立和彦です。そう言えば自己紹介もしてませんでしたね」

「はい。わたしは三島恭子っていいます。あの、ですね、

木立さんは、どうしてドナーになろうと思ったんですか?」

僕が否定的な話ばかりしたせいだろう。彼女はそう訊ねた。


初対面の相手に心情的な質問をする彼女の無礼に不快はおぼえたが顔には出さなかった。

「友人に子供が生まれたんです。可愛くて、なんか感動しちゃって。

赤ん坊って、なんて言うんですかね、生命そのものって感じがするじゃないですか」

「はい」

「だから、僕も何かしたいって思って。別にドナー登録でなくても良かったんですけど、

他に何も思いつかなくて。こういうの解ります?」

「はい。解ります」

彼女は笑顔で答えた。ああ、可愛いなと思った。

僕が時計に目をやると、彼女は慌てたように言った。

「すみません。長々引き留めてしまって」

伝票を取ろうとすると、彼女はさっと手で押さえた。

「お話聞かせてもらったんで」

「気を遣わなくても良いですよ。僕も楽しかったから」

「でも」

「また縁があったらお願いします」

僕は辞退して伝票を取った。彼女はぺこりと頭を下げた。

レジを済ませた時、彼女がもう一度声を掛けた。

「木立さん、ありがとうございました」

僕は会釈で応えた。

店を出たあと、歩きながら振り返ると、彼女は友達らしい女の子達に囲まれて下を向いていた。

少し離れた席にいたのだろう。僕は気付いていなかった。

女の子の一人が僕に手を振った。何か誤解されたらしい。

僕は早足で歩き去った。


その夜は佐久間の家に泊まった。

翌日は二人とも休みだったので、佐久間の車でマンション探しに付き合ってもらう約束だった。

「女のことやろ?」

突然、佐久間が言い出した。

「何が?」

「今、女の事考えとったろ?わしにはお見通しや」

「違うよ」

「いいや。違わん。お前は女の事を考えとった。正直に言い?」

「そうだよ」

佐久間は満面の笑みを浮かべた。

「吐け」

「今日偶然会って一時間くらい話した。それだけだ」

「初対面で一時間?お前相手に凄い子やなー」

「話してたのはほとんど僕。お喋りな奴って思われただろうな」

「お前がかぁ?」

「うん」

佐久間はニタニタと嫌らしい笑いを浮かべていた。

「どんな子や?」

「背の高い子だったな。僕と同じくらいあった」

「でかっ。すまん、で?」

「年はちょっと下くらい。終わりだ」

「いーや。終わりやない。夜は長いんや。すっきり吐いてもらわんとな」

佐久間の追求は厳しかった。結局全てを白状させられた。

聞き終えた佐久間は不機嫌だった。

「免疫がどうたら麻酔事故がどうたらと、小難しい理屈並べて話しとっただけ言うんじゃな?」

「うん。楽しかった」

「キョウちゃんの事は名前以外なんも聞かんかった言うんじゃな。電話も家も会社もなーんも?」

「そうだよ」

「なーにが『縁があったら』じゃ。こん街にどんだけ人がおる思うとんじゃ?」

「前回の国勢調査だと110万8千888人だよ。たぶんね」

「おまっ」

「二十代後半の女性に限れば五万人もいないんじゃないかな」

「ようはぎょうさんおるゆうとんのや。縁なんかあるかい」

「僕もそう思うよ」

「なーにが『僕もそう思うよ』や。アホ」

実際にはもっと再会の確率は高いと考えていた。

彼女が持っていたクリアケースの中にシャープの金融電卓が入っており、会社名っぽい文字がテプラで貼られていた。

会社名までは見えなかったが末尾の文字で「産」とあったので「物産」「水産」「不動産」のいずれかであろう。

利子計算の多い不動産会社の可能性が高いと思っていた。

末尾が「ホーム」や「企画」ではなく「不動産」となっている業者は、昨日のエリアに何件くらいあるだろう?

探し出すのは難しくないし、それこそ明日再会できても不思議ではない。

もっともそんなことを説明したらストーカー呼ばわりされそうだし、何より彼女を探し出そうとか言い出しそうだから絶対に言わない。

本作は1999年(平成12年)から2002年(平成14年)を舞台としています。

作中における骨髄ドナーの入院期間や採取後の痛み、またドナー休暇等の社会的支援に関する描写は、当時の制度や一般的状況に基づいています。

現在では、末梢血幹細胞採取(PBSC)の普及により入院期間が短縮されるケースが増えたほか、多くの自治体や企業で「ドナー休暇制度」や「助成金制度」が新設されるなど、ドナーを取り巻く環境は大きく改善されています。

もし本作をきっかけにドナー登録に関心を持たれた方がいらっしゃいましたら、ぜひ「日本骨髄バンク」の公式サイト等で、最新の正確な情報をご確認いただけますと幸いです。

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