表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/8

第一話 帰郷

「ゆうすげびとの席 ——約束」の続編となります。

この作品を気に入っていただけたら、ぜひそちらにも目を通していただけたら幸いです。

1日2回更新。最終話(8話完結)まで連続して投稿します。

故郷の空港に降り立った僕は、真っ先に友人佐久間夫妻の家に向かった。

九ヶ月ぶりの再会を果たすためだ。

彼らに子供が産まれる直前、僕は仕事の都合で日本を離れた。

僕と喜びを分かち合うつもりでいた彼らは当然落胆した。

佐久間は手紙を送ってよこした。写真も入っていない簡潔で乱暴な文面の手紙だった。

「無事に生まれた。真梨子も元気だ。娘を見たきゃ会いに来い。名前もその時教えてやる」

そのくせ、電話を掛けると「お前がおらんとつまらん」と繰り返した。

僕も彼らに会いたかった。


真梨子は母の顔になっていた。

もちろん二十九才になったばかりの彼女は十分に若々しく、栗色の髪も、愛らしい顔立ちもほっそりとした体型も以前と変わるところはなかった。

腕に赤ちゃんを抱いて僕を迎えてくれた彼女は、生来の美しさに気品まで備えていた。

「みんな首を長くして待ってたのよ。わたしもあの人も、この子も」

そう言って腕に抱いた赤ちゃんを見せてくれた。

間近で赤ちゃんというものを見たのは初めてだった。

それは、あまりにも不思議な存在だった。手も指も爪も歯もみんな小さくて、当たり前ではあるのだけど、それでいて、ちゃんと人間だった。僕は感動していた。

「抱いてみて」

なんて小さいのだろう。軽いのだろう。僕は怖かった。

おっかなびっくりな僕の様子に真梨子は笑いを堪えていた。

「娘の初美です。落とさないでよ」

真梨子に似ていた。佐久間にも似ていた。

怯えたような戸惑ったような表情で僕を見ていた。


「はじめまして、初美さん。僕は『こだちかずひこ』っていいます。

君のお父さんとお母さんの友達です。

君とも友達になりたいんだ。よろしく」

僕はいたって真面目に自己紹介したのに真梨子は噴き出した。ころころと笑った。

つられたのか初美さんもにっこりと笑った。

なんて可愛いのだろうと思った。僕も微笑まずにはいられなかった。

「初美を気に入ってくれたみたいね。ありがとう」

「気に入るも何も、赤ちゃんがこんなに可愛いなんて知らなかった。驚いたよ」

「うちの子は特別よ。世界中探してもこんなに可愛い赤ちゃんはいません」

真梨子は誇らしそうに言い切った。

「そうか、初美さんが特別なのか……」

僕は納得してしまった。

「なんで、さん付けなの?」

真梨子はまだ笑っていた。

「いや、初対面だし、ちゃんと人間だし……」

自分でも何を言ってるのか、よく解らなかった。とにかく感動していた。

真梨子はころころと笑い続けた。初美さんも僕の腕の中ではしゃいでいた。

初美さんは僕にすぐなついた。

僕は腕に抱いたままであやし続けたが、幾らも経たないうちに眠ってしまった。


真梨子と一緒に珈琲を飲むのは一年半振りだった。

真梨子は妊娠を知ると一切の刺激物や薬を避けるようになっていた。

彼女は頭痛持ちなので 雨の日には特に辛そうにしていた。

会う度にお腹の大きくなっていく真梨子を、ちょっとだけ憂鬱な複雑な気分で眺めていたのを

思い出していた。


離れていた間に真梨子はますます綺麗になった。

もしも、あの時もっと違った考え方をしていれば、そんなことを思った。

「どうかした?」

「うん。ちょっと考えてた」

「十年前、ううん、もう十一年だね?」

「真梨子には解るんだ」

「わたしも同じこと考えてたから」

「ねえ」

「何?」

「真梨子とキスしたい」

「いいよ」

目を閉じた真梨子の唇に、そっと唇を押し当てた。

真梨子との初めての、そして最後のキスを交わした。

あの夕暮れに彼女を拒んだのは僕だ。

随分遠くまで来てしまった。そう思った。

もう真梨子は僕のものにはならない。やるせなかった。


定時で仕事を切り上げて帰ってきた佐久間は、僕の方が気恥ずかしくなるくらい歓迎してくれた。

めでたい日にはすき焼き。佐久間には妙な哲学がある。肉を好まない僕のために、焼き豆腐と椎茸がやたらにたくさん入ったすき焼きを真梨子は作ってくれた。

食事の後、僕と佐久間は居間でビールを飲んだ。

「すまんの。付き合うてもろて」

「いいよ。別に飲めないって訳じゃないから」

「なんか話したいことでもありそうやな?」

「うん」

「なんや?」

「さっき真梨子とキスした」

「なんや、そんな事かいな」

「怒らないのか?」

「どういう意味かは解っとるつもりや」

「うん。さよならのキスだ」

「気障なやっちゃ。いちいち言うな、アホ」

「そうだね。僕はアホだ」

「アホはお互い様や」

僕と佐久間はグラスを併せた。カチンと湿った音がした。


「なあ、紳士協定はどうする?」

「どういう意味や?」

「もういらないだろ」

「そやな。そのままにしとこ」

「なんで?」

「なんちゅうか、わしが真梨子を泣かさんための、脅しやのうてなんや?」

「戒め」

「そや。戒めや。真梨子泣かしたら取られるで、っちゅう戒めになるやろ」

「なるのか?僕は泣かせてばっかりだったよ」

「ガキじゃったけんしょうがないわ。今は違うやろ」

「そうか?」

「そうや」


確かに僕は子供だった。

頑なに約束にしがみつくことでしか、陽子さんの思い出を守れないと信じていた。

約束の本質を取り違えたまま、真梨子を傷つけ、僕自身を追いつめた。

後悔はしていないけれど、淋しさは消せない。


心の中にその人の居場所を空けておいてあげること。

それが約束だと思う。

僕の心の中には陽子さんのための場所があって、いつも帰りを待っている。

陽子さんの故郷で過ごした四年間に僕はそれを知った。

死者からの電話を待つことに意味はあるけれど、死者を思うだけで人生を埋めることはできない。

折り合いがついてしまうのが人の心なのだと思う。

淋しさにも慣れてしまうように、僕は少しだけ上手に陽子さんの電話を待てるようになった。

実家でも、陽子さんの故郷の僕のアパートでも、ボストンでも、僕はいつも待ち続けていた。

今この瞬間でも、僕は電話を待っている。


「なあ和彦」

「何?」

「もし初美が二十歳になっても、お前が独身だったら嫁にやるよ」

「そうか。それは楽しみだな」

いつの間にか真梨子が初美さんを寝かしつけて戻ってきていた。

佐久間のおでこをピシっと弾いた。

「あ痛っ」

「この人にそんな冗談言っちゃだめよ。年の差なんて、まったく気にしない人なんだから」

真梨子は笑っていた。手にコーヒーカップを持っていた。

「和彦にはこっちの方がいいでしょ?」

僕の手からグラスを取りあげて、カップを代わりに渡してくれた。

「そうか、真梨子は僕と初美さんの結婚には反対か」

「わたしが妬くから駄目よ」

僕も、やっと笑うことができた。


長期の出張のため、僕は実家に荷物を預け以前に住んでいた部屋を引き払っていた。

母から不在中に届いた大量の郵便物を受け取った。

学生の頃に家庭教師として教えていた二人の生徒に関する手紙を見つけた。

結婚式の招待状と、葬式の通知だった。

どちらも半年以上前の日付だった。

僕はまずお悔やみと不在を詫びる手紙を書き、その後お祝いの手紙を書いた。

二通の手紙は、同じポストに重ねて投函した。

なぜか初美さんに無性に会いたくなった。


「お前、また来とるんかい」

そう言いつつも佐久間は嬉しそうだった。

実際僕は足繁く佐久間の家に通うようになった。

「別にお前に用はないよ。風呂にでも入ってきたら?」

佐久間はわざと大袈裟に溜息をついて、風呂を浴びに行った。

僕は膝で初美さんをあやしながら佐久間が出てくるのを待っていた。

真梨子が珈琲とビールを載せた盆を持ってきた。

「それにしても和彦がこんなに子供好きとは思わなかったな」

「そうだね。僕も知らなかった」

「ねえ、結婚しないの?」

「そうだね。したほうがいいかな?」

「うん」

「でも僕が欲しいのは子供なんだよな。嫁さんは無理にいらない」

「物事には順序があるのよ」

「君は保守的になったね。子供を産んだことが影響してるのかな?」

「ばか」

真梨子は僕から初美さんを取り上げてしまった。膝に抱いたままで熱い珈琲を飲むわけにはいかないからだ。

僕は少しだけ淋しくなった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ