第9話 りりのライブ
日曜日。
午後四時。
駅前の雑居ビルを見上げて、俺は少し後悔していた。
「……ここですか?」
「ここ」
隣にいたさきさんが答える。
「本当に?」
「本当に」
「地下アイドルって、本当に地下でやるんですね」
「そこ?」
ビルの入口。
階段の横に、小さな看板が立っている。
『LIVE EVENT
OPEN 16:30
START 17:00』
その下に何組かの名前。
真ん中あたり。
『りり』
あった。
「ちゃんと名前あるんだな」
俺が言うと。
「そりゃあるよ」
さきさんが笑った。
「出演者なんだから」
「そうなんですけど」
カラオケ店で見る名前と、こういう場所に書かれている名前。
同じなのに。
少しだけ違って見えた。
「お前ら遅い!」
声がして、振り返る。
「お前ら何時だと思ってる!」
つむ丸。
そして、その後ろに。
「まだ開場前だろ」
くまどん。
「なんでお前ら先にいるんだよ」
「つむ丸が早く行くってうるさかった」
「当然だ!」
つむ丸が胸を張る。
「今日はりりのライブだからな!」
「お前、出演者じゃないだろ」
「ファンだ!」
「知ってるよ」
昨日から何度聞いたか分からない。
「りりは?」
さきさんが聞く。
「中!」
つむ丸がビルの入口を指差す。
「さっきまで一緒にいた! 今は準備してる!」
「お前は外にいていいの?」
「俺は応援の準備だ!」
「何するんだよ」
「気持ちを整える!」
「精神論多いな、お前」
くまどんが呆れている。
「クマには分からん!」
「くまどんな」
「今日はどうでもいい!」
「よくない」
この二匹。
もう完全にいつものやり取りになっている。
「たかし君」
さきさんが俺を見る。
「ライブハウス初めて?」
「はい」
「じゃあ、ちょっとびっくりするかも」
「何がですか?」
「音」
「音?」
さきさんは、にこっと笑いながら階段を下りていった。
「入れば分かるよ」
*
なるほど。
「…………」
うるさい。
いや。
うるさい、だけじゃない。
音が大きい。
とにかく大きい。
身体に来る。
胸。
腹。
足元。
全部が振動している。
「すごい」
思わず声が出た。
「だろ!」
なぜかつむ丸が得意げだ。
「お前のライブじゃないだろ」
「りりのライブだ!」
「それは知ってる」
会場は思っていたより狭かった。
ステージ。
その前に観客。
多分、百人も入らない。
もっと少ないかもしれない。
壁は黒。
照明も暗い。
天井も低い。
でも。
人はそこそこいる。
「結構いるんですね」
俺が言うと。
「今日は何組も出るからね」
さきさんが答える。
「全部りりちゃん目当てってわけじゃないよ」
「そうなんだ」
正直。
少し安心した。
りり一人の客だと思っていたら、なんとなく聞きづらかった。
「りりは?」
「あと三組くらい」
「結構後なんですね」
「うん」
会場の端。
くまどんは壁際に立っている。
「平気?」
「何が?」
「音」
「まあ」
「耳とかないの?」
「あるよ」
「どこ?」
「そこ気になる?」
くまどんが自分の頭を指差す。
「耳あるだろ」
「いや、そうじゃなくて」
「細かいな」
「最近みんなそれ言うな」
その時。
つむ丸が俺の横を通り過ぎた。
「どこ行くの?」
「前!」
「前?」
「最前列!」
「本当に行くんだ」
「当然!」
小さな身体で人の間を抜けていく。
というか。
普通に危ない。
「大丈夫なんですか?」
俺がさきさんに聞く。
「いつもあんな感じ」
「止めないんですね」
「止めても行くから」
「なるほど」
強い。
つむ丸が。
それとも、止めるのを諦めたさきさんが。
どっちが強いのかは分からない。
*
一組。
二組。
三組。
ステージが終わるたびに、客が少し入れ替わる。
前に行く人。
後ろに下がる人。
外に出る人。
「結構忙しいな」
「何が?」
くまどんが聞く。
「客」
「そう?」
「ずっと同じ人が見るわけじゃないんだな」
「推しだけ見る人もいるんじゃない?」
「詳しいじゃん」
「なんとなく」
「ほんとかよ」
その時。
ステージの照明が落ちた。
会場が少し暗くなる。
ざわざわしていた声が、小さくなった。
スタッフらしき人が何かを調整している。
そして。
イントロ。
「次?」
俺が聞く。
さきさんが頷いた。
「うん」
ステージ横から。
りりが出てきた。
「…………」
一瞬。
誰だろうと思った。
それくらい。
カラオケ店で見るりりとは違った。
髪。
服。
メイク。
表情。
全部。
いつもの黒いキャップもない。
パーカーでもない。
ライトに照らされる衣装。
「全然、違う」
俺が呟く。
「でしょ?」
さきさんが少し嬉しそうに言う。
りりがマイクを握る。
「こんばんは」
客席から声が返る。
「りりです」
いつもの短い言葉。
でも。
声が違って聞こえる。
「今日は来てくれてありがとうございます」
少しだけ笑う。
客席の前。
その中に。
「りりー!」
一番うるさい声があった。
「…………」
つむ丸。
人間の客の足元。
小さな身体で。
両手を上げている。
「りりならいけるー!」
「まだ歌ってない」
ステージ上から、りりが即座に返した。
客席が少し笑う。
「早い」
「応援だ!」
「知ってる」
また笑いが起きる。
「……いつもこれ?」
俺が聞く。
「大体」
さきさんが答える。
「強いな、つむ丸」
「でしょ?」
イントロが始まる。
りりが前を向く。
そして。
歌い始めた。
*
上手い。
前にもそう思った。
カラオケ店で聞いた時も。
でも。
今は少し違う。
音。
照明。
観客。
ステージ。
全部が加わっている。
それだけじゃない。
りり自身も違う。
普段は必要なことしか喋らない。
笑うことも多くない。
なのに。
ステージでは。
ちゃんと前を見ている。
ちゃんと客席を見ている。
声を届けようとしている。
『見てもらわないと意味ないし』
あの時の言葉を思い出す。
そうか。
こういうことか。
見てもらう。
聞いてもらう。
そのために。
あいつは毎週。
何時間もカラオケで歌っている。
「…………」
ふと。
客席を見る。
人数は多くない。
りりを目当てに来たらしい人。
後ろで見ている人。
次の出演者を待っているだけかもしれない人。
全員がりりを見ているわけじゃない。
当然だ。
でも。
前の方。
一匹だけ。
ずっとりりしか見ていない。
「りりー!」
つむ丸。
「いけるぞー!」
曲の途中。
多分、声は届いている。
りりが一瞬だけ。
そっちを見た。
笑った。
「…………」
最初のファン。
昨日聞いた言葉を思い出す。
昔。
誰もいない遊戯室。
小さな椅子の上に座って。
一人だけで。
りりの歌を聞いていた、ぬいぐるみ。
今は。
人がいる。
ステージがある。
照明がある。
拍手もある。
それでも。
一番近くにいるのは。
あの頃と同じだった。
*
三曲。
短いトーク。
最後の曲。
思っていたより。
あっという間だった。
「今日はありがとうございました!」
りりが頭を下げる。
拍手。
声。
ステージを降りる。
照明が切り替わる。
「終わった」
俺が言う。
「うん」
さきさんが拍手をしながら答える。
「どうだった?」
「え?」
「初ライブ」
「…………」
少し考える。
「思ってたより」
「うん」
「ちゃんとしてました」
「何その感想」
「いや」
自分でも失礼だと思う。
「もっとこう……」
「地下っぽい?」
「それ言い方大丈夫ですか?」
「たかし君が言おうとしたんでしょ」
「言ってないです」
「顔に出てた」
「最近それもよく言われる」
さきさんが笑う。
「でも」
俺はステージを見る。
次の出演者の準備が始まっている。
「すごかったです」
「でしょ?」
また。
少し嬉しそうな顔。
「だからなんでさきさんが得意げなんですか」
「ファンだからじゃない?」
「認めた」
「ちょっとだけね」
俺も少し笑った。
その時。
「どうだった!」
つむ丸が走ってきた。
正確には。
走っているつもりなのだと思う。
小さい。
遅い。
「遅」
「うるさい!」
「で?」
つむ丸が俺を指差す。
「どうだった!」
「何が?」
「ライブ!」
「聞かなくても分かるだろ」
「聞きたいんだ!」
俺は少し考える。
「よかったよ」
「それだけ?」
「上手かった」
「それだけ?」
「頑張ってた」
「それだけか!?」
「何を言わせたいんだよ」
つむ丸が腕を組む。
「ファンになったか?」
「…………」
「どうなんだ!」
「うるさいな」
でも。
昨日の俺なら。
多分。
『まだ分からない』
とか。
『一回見ただけだし』
とか。
そう答えた気がする。
今日は。
「まあ」
俺は言う。
「また見てもいいかな」
「…………」
つむ丸が止まった。
「お?」
「何だよ」
「ファンだな!」
「違う」
「ファンだ!」
「違うって」
「ファン一人追加!」
「勝手に決めるな!」
つむ丸が飛び跳ねる。
「りりー!」
会場の奥へ叫ぶ。
「ファン増えたぞー!」
「やめろ!」
恥ずかしい。
普通に。
かなり。
「声大きい」
後ろから声がした。
振り返る。
りり。
ステージ衣装のまま。
額に少し汗。
「お疲れ」
俺が言う。
「うん」
「よかったよ」
「ほんと?」
「うん」
りりが俺を見る。
「どこが?」
「え」
「どこがよかった?」
「そこ聞く?」
「聞く」
困った。
歌。
声。
衣装。
ステージ。
色々ある。
でも。
「楽しそうだった」
「…………」
りりが少しだけ目を丸くした。
「歌ってる時」
俺は続ける。
「普段より」
「普段より?」
「いや、それ以上は言わない」
「何それ」
「怒られそうだから」
「怒らないけど」
「信用できない」
りりが少し笑う。
「楽しかったよ」
「そっか」
「うん」
つむ丸が割って入る。
「だから言っただろ!」
「何を?」
「りりならいけるって!」
「今日成功したくらいで全部いけることになるの?」
「なる!」
「雑だな」
りりがつむ丸を見る。
「でも」
「ん?」
「ありがと」
「…………」
つむ丸が固まる。
「何?」
「いや!」
「また?」
「なんでもない!」
「照れてる」
「照れてない!」
その横で。
くまどんが少し離れたところから笑っていた。
*
ライブハウスを出る。
外はもう暗かった。
耳の奥に。
まだ少しだけ音が残っている。
「疲れた」
俺が言う。
「見てただけだろ」
くまどんが言う。
「音で疲れた」
「弱いな」
「初めてなんだから仕方ないだろ」
少し前。
りりとさきさん。
その間。
つむ丸が歩いている。
「次もいける!」
「まだ終わったばっかり」
「次のライブだ!」
「早い」
「今日より客増える!」
「分かんない」
「増える!」
「なんで?」
「俺がそう思ってるから!」
「またそれ」
りりが笑う。
俺はその後ろを歩きながら。
昨日の遊戯室を思い出していた。
一人。
一匹。
誰もいない部屋。
そこから。
今は。
ステージがあって。
客がいて。
拍手があって。
少しずつ。
増えている。
多分。
夢って。
突然叶うものじゃない。
こうやって。
少しずつ。
見てくれる人が増えていくものなのかもしれない。
「たかし!」
つむ丸が振り返る。
「次も来いよ!」
「予定が合えば」
「絶対来い!」
「圧強いな」
「ファンなんだから!」
「まだ認めてない」
「もう遅い!」
りりが振り返る。
「来る?」
「…………」
また。
聞かれた。
いつもなら。
別に。
どっちでも。
そう答える。
でも。
「行くよ」
今回は。
少しだけ早く答えた。
「ほんと?」
「うん」
「よし!」
つむ丸が両手を上げる。
りりも。
ほんの少しだけ笑った。
その日。
俺は初めて。
誰かの夢の続きを、もう少し見てみたいと思った。




