第8話 最初のファン
最初のファン。
昨日、つむ丸が言ったその言葉が、朝になっても少しだけ頭に残っていた。
「…………」
「何してんの?」
大学の食堂。
向かいに座った大和が、俺の顔を覗き込んでいる。
「考え事」
「最近多くない?」
「そう?」
「前まで何も考えてなかったのに」
「失礼だな」
「褒めてる」
「どこが?」
俺は箸で唐揚げを一つつまむ。
最初のファン。
言葉の意味自体は分かる。
一番最初に応援した人。
それだけなら、別に難しくない。
でも。
つむ丸は、りりが小さい頃に自分で作ったぬいぐるみだ。
そして今はオリジナルとして生きている。
じゃあ。
あいつが言う『最初』って、いつなんだろう。
「……また難しい顔してる」
「最近それもよく言われる」
「やっぱ考え事じゃん」
「まあね」
「珍しい」
「二回言うな」
俺は味噌汁を飲んだ。
気になるなら聞けばいい。
昨日もそう思った。
くまどんのことは、なぜか聞けなかったけど。
つむ丸なら。
多分、聞けば全部喋る。
あいつなら、むしろ聞かなくても喋る気がする。
*
「俺が最初に決まってるだろ!」
案の定。
その日の夕方。
カラオケ店の休憩スペースで聞いた瞬間、つむ丸は胸を張った。
「いや、だからその『最初』がいつなのか聞いてる」
「最初は最初だ!」
「説明になってない」
「たかしは細かいな!」
「お前まで言うな」
昨日から完全に定着しつつある。
俺の横では、くまどんがポテトを食べている。
「で?」
くまどんがつむ丸を見る。
「いつなんだよ」
「クマまで聞くのか?」
「別に」
「気になるんだろ?」
「別に」
「気になってる顔だな」
「この顔しかないんだよ!」
つむ丸が勝ち誇ったように、にやりと笑う。
「知りたいか?」
「そこまでではない」
「教えてやろう!」
「聞けよ、人の話」
りりは少し離れた椅子に座っていた。
今日は練習前らしい。
スマホを見ながら、二匹のやり取りを聞いている。
「りり」
つむ丸が呼ぶ。
「なに?」
「話していい?」
「何を?」
「昔のこと」
「好きにすれば」
止めないんだ。
「じゃあ話す!」
つむ丸がテーブルの上に立った。
「りりがまだ小さい頃――」
「ちょっと待って」
「なんだ!」
「お前、そんな前からもう動いてたの?」
「…………」
止まった。
「そこ重要だろ」
「細かいな!」
「重要だって!」
りりが小さく笑った。
「その頃はまだ動いてないよ」
「やっぱり」
「でも俺はいた!」
「ぬいぐるみとして?」
「そうだ!」
つむ丸は当然のように答えた。
「だから最初なんだ!」
「……どういうこと?」
俺が聞く。
りりがスマホの画面を消した。
「昔ね……施設にいた頃の話」
俺は思わずりりを見る。
「施設?」
「児童養護施設」
「…………」
りりは特に気にした様子もなく言った。
「子どもの頃、そこで暮らしてたの」
「そうだったんだ」
「うん」
それ以上、俺は聞かなかった。
聞けば答えるのかもしれない。
でも。
今聞く話ではない気がした。
りりが続ける。
「そこに、編み物が得意な職員さんがいたの」
*
最初に覚えたのは、鎖編みだった。
「……できない」
小さな手の中で、毛糸がぐちゃぐちゃになっている。
「もう一回やってみよっか」
隣に座った女性が笑う。
「ここに針を入れて」
「ここ?」
「そうそう」
「……こう?」
「うん。上手」
「上手じゃない」
「最初から上手な人なんていないよ」
「いるかも」
「じゃあ、その人はすごいね」
「…………」
それ以上言い返せなくて。
りりはまた毛糸を見る。
当時。
歌うこと以外に、特別好きなことはなかった。
歌は好きだった。
誰かに聞かせるわけでもない。
ただ。
音楽が流れていると、つい口ずさんだ。
廊下。
部屋。
風呂。
誰もいない遊戯室。
「何作りたい?」
職員が聞いた。
「別に」
「じゃあマフラー?」
「いらない」
「帽子?」
「いらない」
「手袋?」
「難しそう」
「じゃあ、ぬいぐるみは?」
りりが顔を上げる。
「ぬいぐるみ?」
「そう」
職員が編み物の本を見せた。
クマ。
猫。
犬。
ウサギ。
色んな動物が並んでいる。
りりは、その中の一つを指差した。
「これ」
「ウサギ?」
「うん」
「じゃあ作ってみよっか」
「できる?」
「一緒にやればね」
「…………」
「どうする?」
少しだけ考えて。
「やる」
そこから。
何日もかかった。
途中で何度も間違えた。
何度もほどいて、そしてまた編んだ。
左右の耳の長さが変わった。
目を付ける位置もずれた。
腕も片方が少し長くなった。
「……変」
出来上がったウサギを見て、りりは言った。
「そう?」
職員が首を傾げる。
「耳違う」
「うん」
「目もずれてる」
「うん」
「腕も」
「うん」
「失敗?」
りりが聞く。
職員は少し考えて。
「りりちゃんが作ったんでしょ?」
「うん」
「じゃあ、これでいいんじゃない?」
「…………」
「同じのはもう作れないよ」
りりはウサギを見る。
不格好。
店で売っているぬいぐるみとは形が全然違う。
それでも。
「……じゃあ、いい」
少しだけ。
好きになった。
「名前つける?」
「名前?」
「せっかくだから」
「…………」
りりは参考にしていた編み物の本を見る。
糸。
編む。
紡ぐ。
「つむ」
「つむ?」
「つむ丸」
「丸?」
「丸いから」
「分かりやすいね」
「ダメ?」
「いい名前だと思うよ」
そうして。
つむ丸は生まれた。
*
「で?」
俺が聞く。
「それが最初のファンとどうつながるんだ?」
「ここからだ!」
つむ丸が待ってましたと言わんばかりに身を乗り出す。
「まだ続くの?」
「むしろここからが本編だ!」
「お前の中ではな」
くまどんがポテトを食べる。
りりが続けた。
「その頃、よく歌ってたの」
「アイドルになりたかった?」
「その頃から」
「へえ」
「でも、人前ではあんまり歌えなかった」
「なんで?」
「…………」
りりが少しだけ視線を逸らす。
「下手って言われるの、嫌だったから」
「…………」
「今でも嫌だけど」
「それはみんなそうじゃない?」
りりは小さく笑った。
「だから、一人の時に歌ってた」
*
夜。
消灯前。
誰もいない遊戯室。
りりは小さな椅子に、つむ丸を座らせた。
「ちゃんと聞いてて」
返事はない。
「途中で寝ないでね」
もちろん。
返事はない。
スマホもない。
音源もない。
ただ。
覚えている歌を、一人で歌った。
小さな声。
途中で歌詞を間違える。
音も外す。
それでも。
最後まで歌う。
つむ丸に、ちゃんと聞いてもらうために。
「…………」
歌い終わった。
誰もいない部屋。
拍手もない。
りりは椅子に座ったつむ丸を見る。
「どうだった?」
当然。
返事はない。
「…………」
少しだけ考えて。
つむ丸を持ち上げる。
口元へ近づける。
そして。
声を少し低くした。
『すごかったぞ!』
「ほんと?」
『ほんとだ!』
「でも途中間違えた」
『大丈夫だ!』
「音も外した」
『大丈夫!』
「……ほんとに?」
しばらく。
りりは黙った。
それから。
自分で作ったウサギを、少しだけ強く抱きしめる。
もう一度。
つむ丸の声を作った。
『りりならいける!』
「…………」
『絶対いける!』
「そっか」
自分で言って。
自分で答えた。
変なの。
そう思った。
でも。
少しだけ嬉しかった。
「じゃあ、もう一回歌う」
りりは立ち上がった。
つむ丸を椅子に戻す。
「ちゃんと聞いててね」
そして。
もう一度。
最初から歌った。
*
「……というわけだ!」
現在。
つむ丸が両手を広げた。
「俺がりりの最初のファンだ!」
「いや」
俺は思わず言う。
「それ、りり本人じゃない?」
「違う!」
「声出してたのりりだろ?」
「違う! 俺だ!」
「お前その時喋れないじゃん」
「魂だ!」
「急に精神論!」
くまどんが笑う。
「本人が自分で応援してただけじゃん」
「クマは黙れ!」
「くまどんな」
「今そこ重要じゃない!」
りりが二匹を見ている。
「でも」
俺はりりを見る。
「覚えてるんだ」
「何を?」
「その時のこと」
「うん」
「結構昔だろ?」
「覚えてる」
返事は早かった。
「つむ丸のことは、ずっと持ってたから」
「…………」
つむ丸が少しだけ静かになる。
「施設を出る時も?」
「持ってた」
「引っ越した時も?」
「持ってた」
「アイドル始めた時も?」
「持ってた」
「…………」
俺はつむ丸を見る。
片方だけ長い耳。
高さの違う目。
少し長さの違う腕。
ずっと。
そのまま。
「じゃあ」
俺は聞いた。
「オリジナルになったのはいつ?」
「アイドル始めてから」
りりが答える。
「ある日、家帰ったら喋ってた」
「その辺はくまどんと似てるな」
「一緒にするな!」
「何でだよ」
つむ丸が胸を張る。
「俺はずっと前からいたんだからな!」
「ぬいぐるみとしてな」
「ファンとしてだ!」
「はいはい」
「信じてないだろ!」
でも。
さっきまでとは少し違って聞こえた。
最初のファン。
生きて動いて。
喋って。
応援するようになるより前から。
りりの中には。
つむ丸という応援役がいた。
「りりならいける」
俺が何気なく口にする。
りりがこちらを見る。
「何?」
「いや」
昔。
りり自身が、自分に言っていた言葉。
今は。
つむ丸が言っている。
「なんか、変な感じだな」
「何が?」
「自分で自分に言ってた言葉を、今は本当にこいつが言ってるんだろ?」
りりが少し考える。
「そうかも」
「どう思う?」
「別に」
「別に?」
「慣れたから」
そう言って。
りりはつむ丸を見る。
「でも」
少しだけ。
笑った。
「最初に喋った時は、嬉しかった」
「…………」
つむ丸が固まる。
「なに?」
「いや」
「なんで黙るの?」
「別に!」
「声でかい」
「うるさい!」
くまどんが横から笑う。
「照れてんじゃん」
「照れてない!」
「顔に出てるぞ」
「俺の顔で分かるのか!?」
「最近なんとなく」
「それ俺のセリフだろ!」
また騒がしくなる。
俺は少し笑った。
「そういえば」
さきさんが受付から顔を出す。
「りりちゃん、次のライブいつだっけ?」
「今度の日曜」
「今度?」
俺が聞く。
「ライブあるの?」
「うん」
「来る?」
りりが言った。
「俺?」
「みんな」
さきさんがすぐ答える。
「私は行くよ」
「俺も!」
つむ丸が手を上げる。
「お前は当然だろ」
「最前列だ!」
「邪魔にならない?」
「応援だ!」
「答えになってない」
くまどんが俺を見る。
「行けば?」
「お前は?」
「行く」
「じゃあ最初からそう言えよ」
俺は少し考える。
日曜日。
特に予定はない。
というか。
予定なんて、ほとんどない。
「……じゃあ行く」
「ほんと?」
りりが聞く。
「うん」
つむ丸が俺を指差す。
「よし!」
「何が?」
「ファン一人追加!」
「まだファンとは言ってない」
「ライブ見たらなる!」
「自信すごいな」
「当然!」
そして。
いつものように。
胸を張る。
「りりならいける!」
「はいはい」
りりが答える。
面倒そうで。
でも。
少しだけ嬉しそうだった。
今度の日曜日。
俺は初めて。
地下アイドルのライブを見に行くことになった。




