第3話 バッグの中の猫
昨日の夜から、どうにも気になっていることがある。
そう、さきさんのバッグから一瞬だけ見えた猫耳。
あれは一体なんだったのだろう。
「…………」
「どうした?」
「ん? なんでもない」
大学の昼休み。
校内にあるベンチの向かい側に座っていた大和が、怪訝そうな顔でこちらを見ている。
「さっきからスマホ見ては止まって、何かあったのか?」
「ちょっと考え事」
「珍しいな」
「どういう意味だよ?」
「文字通りに受け取ってもらっていいよ」
まったく失礼なやつだ。
俺は持っていたスマホをかばんにしまった。
別に、猫耳くらいでここまで考える必要はない。
バッグについていた飾りだろう。
最近はああいう大きめなぬいぐるみやキーホルダー、チャームなんかが流行っているんだろ。
普通は。
きっと。
そう。
少し前までなら、そう思って終わりだった。
ただ。
今、俺の家には喋るクマがいる。
俺の中の『普通』という言葉の意味が変化している。
「はぁ……」
「今度はため息?」
「人生って難しいなと思って」
「急だな」
「俺もそう思う」
これ以上考えるのは時間の無駄だ。
どうせ今日もバイトだし、さきさんに会えば分かる。
……いや。
分からないままの方が幸せかもしれない。
*
「たかしー」
「なんだよ」
「腹減った」
「働け」
「今休憩中〜」
「さっきも休憩してなかった?」
「細かいな」
「お前、最近それで全部乗り切ろうとしてるだろ」
夕方。
カラオケ店。
くまどんは今日も店頭で呼び込みをしていた。
どういうわけか店長からの評価も高い。
「ねぇねぇ、たかし君。昨日より客入ってるよ」
休憩室から顔を出した店長が嬉しそうに言う。
「やっぱりマスコットって大事だね。うんうん」
「なんか、俺の立場がどんどんなくなってる気がするんですけど……」
「そんなことないよ! たかし君も頑張ってるよ」
「フォローが雑!」
「たかし、よかったな」
「お前は黙ってろ」
くまどんが得意げに笑う。
腹立つな。
「たかし君」
「はい?」
受付から、さきさんが手招きしていた。
「これお願いしていい?」
「あ、はい」
渡されたのは、空いた部屋の清掃チェック表。
「ありがとうございます」
「いえ」
受け取る。
その時、足元に置いてある昨日と同じバッグが目に入った。
「…………」
「どうかした?」
「え?」
「またバッグ見てるから」
「また?」
「昨日も見てたよね」
見られていたらしい。
「いや、その……」
「何かついてる?」
「そういうわけじゃ」
視線をそらす。
でも、やっぱり気になる。
「猫とか飼ってます?」
「猫?」
「いや、そのバッグの中に」
言ってから思った。
何を聞いているんだ俺は。
「バッグの中に猫入れてバイト来る人いないでしょ」
「そうですよね!」
「普通は」
「…………」
今、『普通は』って言った?
「さきさん」
「何?」
「今、含みありました?」
「気のせいじゃないかな?」
「昨日もそれ言ってましたよね」
「そうだっけ」
「絶対覚えてるでしょ」
さきさんがくすっと笑う。
やっぱり何か隠している。
その時、足元に置いてあるバッグがもぞっと動いた。
「…………」
「…………」
俺とさきさんの視線が同時に下へ向く。
もう一度。
もぞ。
「動きましたよね」
「動いたね」
「何が入ってるんですか?」
「色々」
「色々の動きじゃない!」
その時、バッグの隙間から白い何かがゆっくりと顔を出した。
三角形の耳。
白い毛。
丸い顔。
半分閉じた眠そうな目。
「…………」
猫。
いや。
猫っぽい。
昨日の俺なら、ここで叫んでいたと思う。
でも今日は。
「……まただ。また増えた」
「何が?」
白い猫が喋った。
「喋るやつが」
「ああ」
猫はそれだけ言って、バッグからゆっくり這い出してくる。
大きさは、くまどんより一回り小さいくらい。
五十センチもないだろう。
白い身体。
丸い耳……ではなく、ちゃんと三角の猫耳。
尻尾もある。
でも動きが猫というより、人間みたいだった。
バッグから降りると、床に座る。
「……こんにちは」
とりあえず挨拶した。
「こんにちは」
返ってきた。
普通だ。
いや、全然普通じゃない。
「たかし君」
「なんでしょう」
「驚かないね」
「最近、同じようなことがあって、耐性つきました」
「適応が早いことはいいことだよ」
「自分でも怖いです」
白い猫が俺をじっと見る。
「誰?」
「たかし君」
「ふーん」
「興味薄っ」
猫はそのまま視線を外した。
そして。
「ここ寒い」
「第一声それ?」
「あったかいところ、ない?」
「店内だからね」
「外行く」
「待って」
さきさんが、ひなたの背中のあたりを軽くつまむ。
「今出たらまたお客さん集まっちゃうよ」
「別にいいけど」
「私は困る」
「じゃあここにいる」
「切り替え早いな」
猫はカウンター横の椅子によじ登ると、丸くなった。
「寝る」
「自由すぎない?」
その時。
自動ドアが開いた。
「戻ったぞー」
店頭からくまどんが戻ってくる。
「あ」
白い猫が片目だけ開ける。
「よっ」
くまどんが言った。
「ん」
「挨拶短っ!」
思わず声が出た。
「知り合いなの?」
「まあな」
「まあね」
「何その温度差」
くまどんが白い猫の隣まで歩いていく。
「相変わらず寝てんの?」
「眠いから」
「いつもじゃん」
「いつも眠いから」
俺は二匹を見る。
茶色いクマ。
白い猫。
喋っている。
というか、普通に会話してる。
「お前ら、そういうの普通なの?」
「そういうの?」
「喋るとか。歩くとか。働くとか」
「俺は普通」
「わたしも普通」
「俺だけがおかしいみたいに言うな」
くまどんが笑った。
「やっと気づいた?」
「何にだよ」
「世の中、案外広いってこと」
「なんかお前が言うと腹立つな」
「褒め言葉?」
「違う」
猫はもう目を閉じている。
「というか」
俺はさきさんを見る。
「この子、さきさんの?」
「この子?」
「飼ってるっていうか……なんて言えばいいんだろ」
「飼われてないよ」
猫が目を閉じたまま言う。
「聞こえてるの?」
「聞こえてる」
「寝てないじゃん」
「半分寝てる」
「わたしは、ひなた」
「ひなた?」
「そう」
猫――ひなたが、ようやく目を開く。
「日向が好きだから」
「そのままなんだ」
「分かりやすくていいでしょ」
さきさんが言う。
「まあ、それは」
俺はひなたを見る。
白い猫。
眠そう。
人間みたいに喋る。
そしてさきさんは、その存在を当然のように受け入れている。
「…………」
さすがに聞くしかない。
「さきさん」
「なに?」
「ひなたって、何なんですか?」
「猫」
「いや……そういう意味じゃなくて」
「じゃあ何?」
「昨日からずっと思ってたんですけど」
くまどんを見る。
ひなたを見る。
もう一度、さきさんを見る。
「そもそも、お前ら何なんだよ」
「俺まで聞くの?」
くまどんは、やれやれという顔でため息をついた。
「お前が一番説明必要だからな」
「そう?」
「喋るクマが家に住み着いて、働いて、スマホ持ってるんだぞ」
「普通じゃん」
「その普通を俺にも分かるように説明してくれ」
くまどんが少し考える。
そして、さきさんを見る。
「言っていい?」
「いいんじゃない?」
「何その確認」
ひなたが欠伸をする。
「長くなる?」
「多分」
「じゃあ寝る」
「お前も関係者だろ!」
さきさんが小さく笑った。
「じゃあ、休憩入ったら話そうか」
「お願いします」
ようやく。
昨日からずっと疑問だったことを聞ける。
くまどんは何者なのか。
ひなたは何なのか。
どうして、こいつらは当たり前みたいにここにいるのか。
ただ。
この時の俺はまだ知らなかった。
その答えを聞いたところで、
疑問が減るどころか、むしろ増えることになるなんて。




