第2話 くまどん、働く
『続いて、今日の関東地方のお天気です――』
「…………」
テレビから聞こえるお天気お姉さんの声で目を覚ます。
枕の右側にあるはずのスマホを探して手に取る。
午前七時十二分。
もう少し寝られる。
なんと素晴らしいことだろう。大学生にとって二度寝とは、合法的に許された数少ない幸福の一つである。
残された二度寝の時間も、一秒一秒を大切にして生きていきたい。
きっと今の俺は、幸せそうに口元を緩ませていることだろう。
もう一度目を閉じた。
『東京では最高気温が――』
「…………」
ちょっと待て。
テレビなんかつけたっけ? 消し忘れた?
緩んだ口元を引き締めながら思い返す。
帰宅→喋るクマ→ポテチ→卵焼き→居候?
「…………夢か?」
ようやく体を起こす。
テーブルの横に置いてある座椅子を見る。
誰もいない。
「そりゃそうだよな」
冷静に考えてみれば分かる。
バイトから家に帰ったら膝くらいの大きさの垂れ目のクマがテレビを見ていて、なぜか俺の名前を知っていて、そのまま泊めることになって一緒に寝た。
夢でなければ、漫画や小説の中でしか起こらないような話だ。
「ははっ。ここ最近バイト入れすぎて少し疲れてたんだな……」
「何が?」
「えぇぇぇ!?」
台所の方から声がした。
振り返る。
見たことがある茶色いクマ。
冷蔵庫の前で、牛乳パックを両手で抱えながらこちらを見ている。
「朝から元気だな」
「夢じゃない!」
「よかったな」
「いや、よくねーよ」
手に持った牛乳を、もう一口飲む。
「それ、俺の牛乳!」
「いちいちうるさいな。ちょっとくらいいいだろ」
「昨日ポテト食ったよな?」
「食った」
「卵焼きも食ったよな?」
「食った」
「着実に冷蔵庫のものが減ってるんだけど」
くまどんは牛乳を飲みながら首を傾げた。
何回飲むんだよ。
「質量保存の法則だな」
「なんか違う気がする」
一晩だけという話ではなかっただろうか。
俺はベッドから降りる。
「なあ」
「ん?」
「今日どうすんの?」
「朝飯食う」
「その後は?」
「昼飯」
「夕飯は?」
「当然。食べるに決まってる」
くまどんが不機嫌そうにこちらを見る。
「なぜそんなに自信満々?」
まったく困ったものだ。
「昨日、一晩だけって言ったよな?」
「あー、確かに言ったな」
「じゃあ今日出ていくんだよな?」
「え?」
「え?」
「昨日一晩泊まった」
「うん」
「今日も泊まる」
「そんな自動更新システムなの!?」
「こんなにかわいいクマを追い出す気?」
やれやれという顔をするな。
こっちのセリフ、いや、こっちのフェイスか。
朝から疲れる。目覚まし時計よりこいつの方が確実に目は覚める。
「というか」
冷蔵庫を開ける。
牛乳。
残り五分の一。
卵。
一個。
昨日あったポテトチップス。
影も形もない。
「…………」
「どうした、そんな悲しい顔をして」
「お前さ」
「くまどんな」
「本当にここ住むつもり?」
「そう言っただろ」
「よーし。分かった。じゃあ働いて」
くまどんの動きが止まった。
「俺が?」
「他に誰がいるんだよ」
「クマだぞ?」
「昨日『住人』って言ってたよな?」
「ちっ、都合の悪いことだけ覚えてるな」
「それ以外も覚えているわ」
――きっとな。
俺は牛乳を持ち上げた。
「これ」
「牛乳」
卵を指差す。
「これ」
「卵」
ゴミ箱に入っているポテトチップスの空袋。
「これ」
「お菓子」
「全部お金を出して買ってる。あと家賃もな」
「えっ、家賃も取るの?」
「当たり前だろ」
くまどんがその短い腕を組む。
「世知辛いな、人間社会」
「お前、昨日までどうやって生活してたんだよ」
何気なく聞いた。
くまどんが少しだけ黙る。
「まあ、なんとか」
「なんとか?」
「なんとかはなんとか」
「説明する気ないな?」
「そのうち」
「昨日からそればっかりだな」
くまどんは答えず、冷蔵庫をもう一度開けた。
「何探してんの?」
「朝飯」
「話終わってないよ!」
「腹減ってると話進まないだろ」
一理あるか。
*
問題。
体長六十センチほどの喋るクマに、できる仕事は何でしょう。
大学へ向かう電車の中。
俺はスマホの検索欄に文字を打ち込んだ。
『クマ アルバイト』
検索。
害獣駆除の求人や、クマ対策の記事が並んだ。
これはこれで知りたいが、探している内容とは違う。
『着ぐるみ アルバイト』
イベントスタッフ。
テーマパーク。
店頭キャンペーン。
「そういえば」
昨日の薬局の前で、くまどんはティッシュを配っていた。
ということは。
「……あいつ、働いてたじゃん」
朝から真剣に考えた時間を返してほしい。
*
「働けるよ」
「先に言えよ!」
夕方。
大学から帰宅するなり問い詰めると、くまどんは悪びれもせず答えた。
座椅子を倒して寝転がってテレビを見ている。
お前、本当に昨日うちに来たんだよな?
自分の部屋くらいくつろいでるじゃん。
「まあ、聞かれなかったし」
「朝からずっと仕事の話してたよね?」
「『働いたことある?』とは聞かれてない」
「屁理屈!」
「細かいな、モテないぞ」
「余計なお世話!」
俺はテレビの前に立つ。
「昨日の薬局、あれ仕事だったんだろ?」
「そうだよ」
「何してたの?」
「ティッシュ配ってた」
「それは見た」
「子どもに手振ったり」
「それも見た」
「写真撮ったり」
「それは知らない」
「結構人気だった」
「自分で言う?」
くまどんが脇に置いていた小さなスマホを取った。
「ちょっと待って」
「何?」
「スマホ持ってんの?」
「持ってるよ」
「なんで?」
「必要だから」
「どうやって手に入れたんだよ」
「そりゃ方法はいろいろあるだろ」
「……」
「やばい方法じゃないよ」
「家に不法侵入しているやつが言ってもな」
「家に住むのはいいだろ」
「住み続けたら合法になるみたいな法律はないぞ。少なくとも日本には」
話を遮って、くまどんがスマホの画面を見せてくる。
SNS。
昨日、薬局の前で撮影された写真だった。
小学生くらいの子どもが二人。
その間にくまどん。
両手を頭の横に上げている。
「何このポーズ」
「クマポーズ。可愛いだろ」
「聞いたことないよ」
「今考えた」
投稿には、
『駅前の薬局に変なクマいた』
と書かれている。
いいね。
百十三。
「結構反応あるな」
「だろ?」
くまどんが少しだけ胸を張った。
「嬉しいの?」
「悪くない」
軽い返事。
くまどんはすぐ画面を閉じた。
昨日からこいつは、どうでもよさそうなことはよく喋るくせに、肝心なことになると急に話さなくなる。
「薬局でまた働けば?」
「今日は仕事ないって」
「他の場所はないのか?」
「たかしのバイト先とか」
「なんでそうなる」
「カラオケだろ?」
「……なんで知ってる」
くまどんが部屋の隅を指差した。
バイトの制服が入ったバッグ。
「ロゴ書いてある」
「確かに……」
「俺も行く」
「いやいや」
「働かなきゃいけないんだろ?」
「連れていけるわけないだろ」
「店長に聞けばいいじゃん」
「何て言うんだよ?」
『昨日家に帰ったら喋るクマがいたので、今日から雇ってもらえませんか』
ダメに決まっている。
俺までやばいやつ認定される。
「絶対無理」
「やってみないと分かんないだろ」
「世の中そんな簡単じゃ――」
*
「いいよ」
「いいんですか!?」
簡単だった。
店長は俺の横に立つくまどんを上から下まで見た。
「ちょうど呼び込み欲しかったんだよね。ほら、最近お客さん減ってきたでしょ」
「いや、店長」
「ん?」
「疑問とかないんですか?」
「何の?」
「喋ってますよ、このクマ」
「くまどんな。どうも」
くまどんが頭を下げる。
店長も頭を下げた。
「どうも」
「いいんだ!」
「最近の着ぐるみってすごいね」
「着ぐるみじゃないらしいです!」
くまどんが俺を見る。
「らしいって何だよ」
「俺も知らないから!」
店長は腕を組んだ。
「まあ、お客さん来れば何でもいいよ」
「経営、厳しいのかな。なんか心配になってきた……」
そんな俺の心配をよそに、話は進んだ。
仕事内容。
店頭でチラシ配り。
呼び込み。
お客さんに頼まれたら写真撮影。
時給。
千三百八十円。
「ちょっと待ってください」
「何?」
「俺より五十円高いんですけど」
「だって目立つじゃん」
「俺も結構目立ちますよ?」
「どこが?」
「…………」
隣を見る。
茶色いクマ。
身長六十センチ。
喋る。
「負けた気がする」
「才能だな」
くまどんが得意げに言った。
「何の才能だよ」
「クマ」
負けたよ。
*
一時間後。
俺は認めざるを得なかった。
こいつ、向いている。
「いらっしゃーい」
くまどんが店の前でチラシを配る。
「わぁー、クマちゃんだ!」
小さな女の子が近寄る。
「クマじゃなくて、くまどん」
「喋った!」
「喋るよ」
「かわいい!」
「だろ?」
「自分で言うなよ」
店内から見ていた俺は小さく呟いた。
写真。
また写真。
通りかかった女子高生。
子ども連れ。
大学生。
気づけば、くまどんの周りに小さな人だかりまでできている。
「すご……」
「たかし君の知り合い?」
横から声をかけられた。
バイト先の先輩、さきさんだった。
俺とは別の大学に通う、大学三年生だ。
肩くらいまでの髪を後ろでまとめ、受付カウンター横のパソコンを操作していた。
「知り合いっていうか……」
「友達?」
「それも違うような」
「じゃあ何?」
「昨日、家にいました」
「…………」
「自分でも意味分からないです」
さきさんは窓の外を見る。
くまどんが子どもとハイタッチしている。
「かわいいね」
「そこなんですか?」
「何が?」
「いや、あれ」
俺は声を少し落とす。
「喋ってるんですよ」
「うん」
「うん?」
「喋ってるね」
「驚かないんですか?」
「驚いたよ」
「全然そう見えませんけど」
「そう?」
首を傾げる。
その反応の方が不思議だった。
「普通、もっとこう……」
「えぇぇぇ!? とか?」
「それ昨日の俺です」
「たかし君、言いそう」
「実際言いました」
さきさんが笑う。
「まあ、いるよね。そういう子」
「…………はい?」
「何でもない」
「いや今、絶対何か言いましたよね?」
「言ったかな」
「『そういう子いる』って」
「気のせいじゃない?」
「雑に誤魔化さないでください」
その時。
入口の自動ドアが開いた。
「休憩」
くまどんが戻ってくる。
「勝手に決めるなよ」
「店長がいいって」
「店長ぉ……」
「俺、働いてるな」
「まあ、それは認める」
「客も呼んでる」
「認める」
「じゃあ今日から正式に住める?」
「そこは別!」
さきさんがくすっと笑った。
「仲いいね」
「どこがですか」
「さっきからずっと喋ってる」
「こいつがうるさいだけです」
「たかしも十分うるさいよ」
「お前に言われたくない」
「ほら」
「ほら、じゃないです」
くまどんがカウンターの上の水を飲む。
「写真もいっぱい撮られた」
「よかったね」
さきさんが言う。
「今日は二十枚くらい」
「数えてるの?」
俺とさきさんの声が重なった。
「普通数えるだろ」
「普通じゃない」
「普通じゃないね」
「二人で言うなよ」
くまどんはスマホを出す。
「あ」
「何?」
「もう上がってる」
SNSの投稿。
『駅前のカラオケに喋るクマいる』
短い動画。
再生回数は五百少し。
「へえ」
さきさんが覗き込む。
「人気出そう」
「だろ?」
くまどんが即答した。
「自分で言うんだ」
「事実だからな」
俺は画面を見る。
くまどんは少し嬉しそうだった。
ただ。
昨日の薬局の時と同じ。
単純に褒められて喜んでいるだけにも見えるのに、数字を見る時だけ、ほんの少し目が変わる。
「そんな気になる?」
「何が?」
「再生数」
「別に」
「じゃあ閉じろよ」
「今見てる途中」
「気にしてるじゃん」
「細かいなあ」
「またそれかよ」
くまどんはスマホをポケットにしまった。
「仕事戻る」
「真面目だな」
「働かないと家賃取られるから」
「払えよ」
「世知辛い」
そのまま店の外へ戻っていく。
すぐに子どもの声が聞こえた。
「くまどーん!」
「おー!」
「馴染みすぎだろ……」
「楽しそうだね」
さきさんが言った。
「くまどんがですか?」
「たかし君が」
「俺ですか?」
「うん。いつもよりよく喋ってる」
「…………」
言われてみれば。
確かに。
大学に行って、アルバイトに行って、そして家に帰って寝るだけ。
昨日までは、それで一日が終わっていた。
別に不満はなかった。
でも。
少なくとも今日は、昨日までよりずっと騒がしい。
「まあ、疲れますけどね」
「そっか」
「本当に」
「でも嫌そうじゃない」
「…………」
俺は答えず、窓の外を見る。
くまどんが女子高生三人に囲まれている。
得意げにクマポーズ。
「調子乗ってんな」
思わず笑った。
その時、視界の端で何かが動いた。
「ん?」
受付カウンターの下。
さきさんのバッグ。
その隙間から、白っぽい何かが、一瞬だけ覗いた。
三角形。
耳。
猫?
「さきさん」
「何?」
「そのバッグ」
「バッグ?」
さきさんが足元を見る。
俺も見る。
何もない。
「どうかした?」
「……いや」
見間違い?
疲れている?
昨日から喋るクマを見ているせいで、ついに普通のバッグにまで生き物が見えるようになった可能性がある。
これ以上増えたら困る。
俺は見なかったことにすることにした。
「……」
店の外から、くまどんの楽しそうな声がする。
「たかしー!」
「なんだよ!」
「写真撮って!」
「仕事しろ!」
「これも仕事だよ!」
くまどんがスマホを振っている。
「はぁ……」
仕方なく外へ出る。
「早くしろ」
「はいはい」
「ちゃんとかわいく、盛れるように撮れよ」
「注文多いな」
「人気商売だから」
「いつからそんなキャラになったんだよ」
スマホを構える。
画面の中。
両手を上げて得意げに笑う、小さなクマ。
昨日まで。
こんなものは俺の日常にはいなかった。
「撮るぞ」
「おう」
シャッターを切る。
どうやら。
俺の静かだった日常には、少しずつ変なものが増え始めているらしい。




