第1話 くまどん
子どもの頃、俺は、寂しくなるたびにヒーローを描いた。
ヒーローといっても、テレビのヒーローみたいに空を飛ぶわけでもない。
戦隊ヒーローみたいに必殺技があるわけでもない。
世界を救ったことなんて、もちろん一度もない。
丸っこくて、少し目つきの悪いクマ。
*
「学校、行きたくないよ」
誰かに言ったわけではない。
当然、返事もない。
『ごめん、今日も遅くなるね』
母さんから連絡が来ていた。
送信時刻は数分前だった。
公営住宅の一室。
二人で暮らす分にはちょうどいい広さのこの家も、一人になると不思議と広く感じる。
冷蔵庫の唸り声も、時計の秒針が刻む音も、いつもより大きく聞こえた。
俺はリビングのテーブルに、昆虫の絵が表紙のノートを広げた。
学校で何があったのかは、今となってはよく覚えていない。
友達と喧嘩したのかもしれない。
空気を読まずに変なことを言って、笑われたのかもしれない。
ただ、明日、学校に行くのが嫌だったことだけは確かに覚えている。
鉛筆を握る。
丸を描く。
その上に、小さな耳を二つ。
太い胴体。
短い手足。
目は少し垂れさせた。
お世辞にも上手いとは言えない。
でも、俺はそのクマが気に入っていた。
横に吹き出しを描く。
『じゃあ、どうしたい?』
「……どうしたいって」
自分で書いたくせに、答えに困った。
「行きたくない。でも休むのも嫌」
消しゴムで吹き出しの中身を消して、もう一度書く。
『じゃあ行けば?』
「雑!」
思わず声が出た。
誰もいない部屋で、一人で自分の絵にツッコんでいる。
今考えるとなかなか気持ち悪い光景だ。
「もうちょっと励ますとかないの?」
また吹き出しを書き換える。
『行ってダメだったら、その時また考えればいいじゃん』
「……まあ」
それなら、少しくらいはできそうな気がした。
ノートの中のクマを見て、俺は笑った。
「お前、適当だな」
頭の上に、大きく名前を書く。
『くまどん』
その下に、小さく書き足した。
『ぼくのヒーロー』
ノートを閉じた頃には、明日のことが少しだけ怖くなくなっていた。
*
「で、お前はどうすんの?」
「何が?」
「はぁ……何がって、就活に決まってるだろ」
十二年後。
俺は大学の食堂で、三百円の唐揚げ定食を食べていた。
正面に座った大和が、呆れた顔で箸を止める。
「インターンとか行かないの?」
「まだ二年だぞ?」
「もう二年だろ」
「えぇ……同じ二年なのに、言い方一つで急に人生追い詰めてくるじゃん」
隣の大河がスマホから顔を上げて笑った。
「俺は資格取ろうかな。親もうるさいし」
「偉いねえ」
「他人事だな」
「他人だからな」
「たかしは?」
「俺?」
唐揚げを一つ口に入れる。
一応考える。
将来。
仕事。
夢。
目標。
何も浮かばない。
さっき食べた唐揚げの味の方が、まだ鮮明に残っていた。
「普通に就職できればいいかな」
「何系の会社?」
「何系って言われても……普通系?」
「そんな業界ねえよ」
「ないの?」
「初めて聞いたよ、普通業界」
「じゃあ何でもいい系」
大和がため息をついた。
「やりたいこととかないの?」
「ないっていうか……別に、何でもいいかな」
「人生省エネすぎない?」
「省エネを馬鹿にするなよ。現代社会の重要課題だぞ」
「お前の人生の話だよ」
「人生にも省エネモードくらいあっていいだろ」
大河が笑う。
「ほんと、お前って自分のことになると適当だよな」
「そう?」
「この前、俺がゼミ迷ってた時はめちゃくちゃ調べてくれたじゃん」
「あれは大河がずっと『どうしようどうしよう』うるさかったから」
「三時間くらい比較表作ってくれたけど」
「暇だったんだよ」
「まあ、そういうことにしとくわ」
俺は味噌汁を飲んだ。
別に困っているわけじゃない。
大学には通っている。
バイトもしている。
友達もいる。
卒業したら、どこかへ就職する。
その時になったら、その時の自分が考えるだろう。
未来の俺には未来の俺なりの責任がある。
現在の俺まで巻き込まないでほしい。
その時、テーブルの上でスマホが震えた。
母さんからだった。
『部屋整理してるんだけど、昔のノートとかおもちゃ、もう捨てていい?』
写真が一枚。
段ボールが二箱。
昔の教科書。
ノート。
プラスチックのおもちゃ。
子どもの頃の雑多なものがまとめて入っている。
俺は写真を拡大することもなく返信した。
『ok』
送信。
「何?」
「実家の片付け。母親から連絡」
「ふーん。全部捨てるの?」
「置いといても仕方ないだろ」
「思い出とかないの?」
「思い出で収納スペース増えないし」
「夢がねえなあ」
「現実的と言ってくれ」
唐揚げをもう一つ食べる。
夢がなくても、唐揚げはうまい。
現状、それで十分だった。
*
大学のあと、そのままカラオケ店のバイトへ向かった。
駅から店までの間には、昔ながらの小さな商店街がある。
八百屋。
クリーニング屋。
薬局。
店の隙間に、小さな惣菜屋。
もちろん唐揚げも売っている。
新しいスーパーが駅前にできてから客足が減ったらしく、数軒おきにシャッターが下りている。
午後の西日が、古いアーケードの隙間から斜めに差し込んでいた。
その光の中に。
クマがいた。
「……ん?」
二度見した。
薬局の前。
茶色いクマの着ぐるみが立っている。
胸には、
『本日ポイント二倍!』
のボード。
大量のポケットティッシュが入ったカゴを持っている。
よくいる販促キャラクターだ。
ただ、少し小さめ。
大人が入るには無理がある。
「子ども……?」
俺が見ていると、そのクマが顔を上げた。
目が合った。
正確には、着ぐるみだから、目が合った気がした、とでもいうべきだろう。
でも。
なぜか、そう感じた。
一歩。
クマがこちらへ出る。
俺は止まる。
クマも止まる。
「……何?」
当然、返事はない。
俺は首を傾げた。
俺のことを知ってる?
なんとなく、そんな気がした。
顔?
形?
色?
記憶の奥に、指が届きそうで届かない。
「いや……ないない」
クマなんて似たようなデザインはいくらでもある。
俺はそのまま歩き出した。
数歩進んだところで、背後から何か音がした気がした。
振り返る。
クマは、さっきと同じ場所に立っている。
「……気のせいか」
バイトに遅れる。
俺は足早に商店街を抜けた。
*
バイトを終えて帰宅したのは、午後十時を少し回った頃だった。
古い二階建てのアパート。
外廊下の電灯は一つ切れたままで、俺の部屋の前だけ少し暗い。
「疲れた……」
ポケットから鍵を出す。
鍵穴に差し込む。
回す。
ドアを開ける。
玄関は暗かった。
いつもの光景だ。
狭い廊下。
左に小さなキッチン。
奥が六畳ほどのリビング兼寝室。
――なのだが。
テレビの音がする。
「…………ん?」
俺は動きを止めた。
お笑い番組の笑い声。
誰かが派手に転んだらしく、観客の笑い声が響いている。
俺は朝の記憶をたどる。
テレビ。
消した。
絶対消した。
というか朝はニュースをスマホで見たので、そもそもテレビをつけていない。
「……泥棒?」
小声で呟く。
しかし、玄関に知らない靴はない。
ベランダから?
二階だぞ。
登れなくはないか。
いやいや。
落ち着け。
泥棒が侵入して、まずテレビを見る?
そんな余裕ある?
しかもお笑い番組?
泥棒にも好きな芸人くらいいるだろうけど。
「いや、配慮してる場合じゃない」
傘立てからビニール傘を一本抜く。
透明。
六百円。
頼りなさがすごい。
「武器として弱すぎる……」
でも何もないよりはいい。
靴を脱がずに、静かに廊下を進む。
床が一度だけ、ミシ、と鳴った。
俺は止まった。
テレビの音は続いている。
リビングの扉まで近づく。
わずかに開いている隙間から、中を覗いた。
テレビの青白い光が、薄暗い部屋を照らしている。
ローテーブル。
脱ぎっぱなしのパーカー。
昨日飲んだペットボトル。
食べかけの菓子袋。
見慣れた散らかった部屋。
その中央。
俺の座椅子に。
何かが座っている。
茶色い頭。
丸い耳。
太い体。
片手には、昨日コンビニで買ったポテトチップス。
袋に手を突っ込んでいる。
昼間見たクマ。
ただし。
小さい。
ものすごく小さい。
膝くらいしかない。
「…………」
俺は瞬きをした。
クマがテレビを見る。
俺がクマを見る。
テレビの芸人が叫ぶ。
クマが、
「ははっ」
と笑った。
「…………笑った?」
俺の声に反応して、クマが振り返る。
目が合う。
「お」
片手を上げる。
「遅かったな」
俺はその場で固まった。
「…………」
「?」
「え」
「ん?」
「えぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!?」
自分でも驚くほどの声が出た。
「うるさっ」
「しゃ、しゃ、喋ったぁぁぁ!?」
「喋るだろ」
「喋らないよ! クマは普通喋らないから!」
「えっ、そうなの?」
「そうなの!? じゃないよ!」
俺は反射的に扉を閉めた。
廊下に戻る。
息を整える。
「待て待て待て待て」
何だ今の。
疲れている。
そうだ。
疲れているだけだ。
大学。
バイト。
睡眠不足。
そういうものが積み重なって、ついに小動物が喋る幻覚を見るところまで来た。
「寝よう」
今日は寝よう。
明日、病院について調べよう。
念のため、もう一度だけ確認する。
扉を開ける。
「おかえり」
「いるぅぅぅぅ!」
「何回やんの、それ」
「なんで普通にくつろいでるんだよ!」
「テレビ面白いよ」
「そういう問題じゃない!」
俺はリビングへ踏み込んだ。
改めて見る。
体長六十センチくらい。
茶色い毛。
丸い耳。
少し垂れた目。
腹の辺りは薄いベージュ。
ぬいぐるみのようにも見える。
でも、胸がわずかに上下している。
ポテトチップスを噛む音もする。
「……誰?」
一瞬。
クマの動きが止まった。
ほんの一瞬だけ。
けれど、すぐにいつもの表情へ戻る。
「くまどん」
「いや、名前じゃなくて!」
「じゃあ何?」
「何者かを聞いてるの!」
「くまどん」
「そこループするの!?」
「たかし、声でかいよ」
「なんで俺の名前知ってんのぉぉ!?」
思わず一歩下がる。
くまどんはポテトチップスを食べる。
「郵便物」
「…………」
テーブルを見る。
確かに大学から届いた封筒が置いてある。
「……ああ」
「納得した?」
「いや、侵入して他人の郵便物見るなよ!」
「細かいなあ」
「細かくない! 犯罪の話してるから!」
俺はくまどんの周囲を一周した。
「何してんの?」
「確認」
「何の?」
「後ろ向いて」
「なんで?」
「いいから」
くまどんが渋々背を向ける。
俺は背中の毛をかき分けた。
「ちょ、何してんの」
「ファスナー……ないな」
「ないよ」
「首?」
「ない」
「頭外れる?」
「外れたら怖いだろ」
「今の時点で十分怖いよ!」
胴体。
背中。
腰。
どこにも着ぐるみらしい継ぎ目はない。
「じゃあロボット?」
「違う」
「AI搭載ぬいぐるみ?」
「違う」
「じゃあクマ?」
「くまどん」
「それは名前だってさっきから言ってるだろ!」
俺は頭を抱えた。
駄目だ。
会話が成立しているようで、全然成立していない。
「とにかく」
俺はくまどんを指差した。
「なんで俺の家にいるの?」
「今日からここ住むから」
「……………………はい?」
「ここ住む」
「えぇぇぇぇぇ!?」
「またそれ?」
「またじゃないよ! 今度は別件で驚いてるんだよ!」
「別に一匹くらい増えても変わらないだろ」
「変わるよ! 一人暮らしに喋るクマ一匹増えたら生活激変だよ!」
「俺そんな場所取らないし」
「スペースの問題じゃない!」
くまどんは部屋を見回した。
「でもこの部屋、余ってるじゃん」
「六畳しかない!」
「俺、小さいし」
「自己申告で居住権獲得しようとすんな!」
「じゃあ家賃払えばいい?」
「そういう現実的な条件提示やめて! こっちが折れそうになる!」
くまどんが首を傾げる。
「追い出す? こんなに可愛いクマを? マジかよ」
「…………」
答えようとして。
俺は少しだけ言葉に詰まった。
さっきまで好き勝手にポテトを食べていたのに。
その時だけ。
くまどんの声が、少しだけ小さく聞こえた。
「……今日は」
ため息をつく。
「今日はもう遅いから」
「うん」
「一晩だけだからな」
「……そっか」
くまどんが笑った。
さっきまでの図々しい笑い方とは、少し違った。
ほんの少しだけ。
「何?」
「いや」
「何だよ」
「別に」
「気になる言い方すんなよ」
「気にしなきゃいいじゃん」
「そういう問題じゃないだろ」
くまどんはもう興味を失ったみたいに、テーブルの上のポテトチップスへ手を伸ばした。
「腹減った」
「ポテト食ってただろ!」
「これはお菓子」
「俺のお菓子!」
「なんか作れる?」
「なんで俺が作る前提なの!?」
「住人だし」
「今日来たばっかりの居候に住人面された!」
くまどんが冷蔵庫を開ける。
「卵と水しかないじゃん」
「一人暮らしの大学生の冷蔵庫に夢見るな」
「なんか甘いのないの?」
「ないよ」
「そっか」
くまどんは冷蔵庫を閉めた。
それから一瞬だけ、俺を見る。
「……何?」
「いや」
「何だよ」
「別に」
「またそれ?」
くまどんは何も言わず、テーブルへ戻る。
なんだったんだ。
そう思ったけれど、聞くほどのことでもない。
「卵焼き作れる?」
「なんで結局、夕飯作る流れになってるんだよ!」
結局。
俺は卵焼きを作った。
*
日付が変わる頃。
俺はベッドに入り、くまどんには座椅子を貸した。
部屋の電気を消す。
カーテンの隙間から、向かいのマンションの明かりが薄く差し込んでいる。
静かになった部屋で、今日起きたことを考える。
喋るクマ。
勝手に家へ入るクマ。
俺のポテトを食べるクマ。
図々しく住もうとするクマ。
なのに。
不思議と。
怖くはなかった。
むしろ。
変な言い方だけど。
ずっと前からここにいたような。
そんな感じがする。
「……疲れてるな、俺」
「そうかもな」
「起きてたのかよ」
「今寝るところ」
暗闇の向こう。
くまどんの姿は見えない。
少し迷ってから、俺は聞く。
「なあ」
「ん?」
「お前さ」
「何?」
「……いや」
言いかけてやめた。
何を聞こうとしたのか、自分でもよく分からなかった。
商店街で目が合った時。
部屋で、くまどんがふいにこっちを見る時。
そのたびに感じた、妙な引っかかり。
全部、気のせいかもしれない。
「何だよ」
「何でもない」
「変なの」
「お前に言われたくない」
「それはそうかも」
「認めるんだ」
少しだけ笑う。
「じゃ、おやすみ」
「ああ。おやすみ」
目を閉じる。
今日一日だけで、人生の理解不能ランキングがかなり更新された。
一位。
喋るクマ。
二位。
そのクマが勝手に住み始めた。
三位。
俺はそいつに夕飯を作った。
どう考えてもおかしい。
なのに。
眠気は意外と早くやってきた。
*
たかしの寝息が聞こえ始める。
くまどんは座椅子の上で目を開けた。
テレビも消えた暗い部屋。
ベッドで眠る青年を見る。
しばらく。
ただ見ていた。
何かを言おうとしたように、口がわずかに動く。
けれど。
結局、何も言わなかった。
くまどんは背もたれに体を預ける。
「……おやすみ」
小さな声だった。
返事はない。
その夜。
二人は同じ部屋で眠った。




