狂い続ける男
炎が、迫ってくる。
じわじわと、追い詰めるように、部屋中に広がりながら。
煙が充満していき、目に鋭い痛みが走り呼吸が苦しくなっていく。
避難訓練の記憶さえ、恐怖で薄れ何も出来ない。
終わる。終わった。
小さな世界が、今一つ終わりを迎えた。
絶望に染まる中、縋るような声が届く。
『頼む』
そう告げるのは、我らが主。
下半身の潰れた、残り時間の短い男。
初めてだった。
男として、託されたのは。
だから彼は、その願いに従って――。
崩れる建物を、外から見る。
救急車と消防車に囲まれ、ボロボロになりながらも、最後までその光景を目に焼き付けるように。
最後には……まるで最初から何もなかったかのように、崩壊した。
それが、運命であったかのように。
自分たちに見送られながら――悪魔の教室は、壊れて、消えた。
不快感と恐怖から、男は目を覚ます。
嫌な汗を掻いたからだろうか、尋常じゃない倦怠感がまとわりついている。
とはいえ、そんなのいつものことだが。
男は身体を起こし、部屋の中を見渡す。
そこで初めて、ここが出張先のホテルであったことを思い出した。
壁にかけられた時計を確認する。
まだ、夜中の三時だった。
時計が狂ってないか確認するため、カーテンを開き外を見る。
煌めく星々のような街並み、広大な夜を支配する摩天楼。
美しい、眠らぬ夜景が広がっていた。
ガラス越しに反射し、死んだ魚みたいな目をする男が視界に映る。
なんだこの醜い男は。
あまりにも酷い顔で、つい笑ってしまう。
そうすると、映る男もまた自虐的な笑みを浮かべた。
……そうだ。
笑え。
お前は死ななかった。
見苦しくも大切なものたちの血肉を啜ってまで生き延びたんだ。
だから笑え。
その責務を果たすその日まで。
「笑え。笑え――狂磁郎。お前は狂磁郎。悪魔の教室の正統後継者。あの地獄を乗り越え、世界を混沌に陥れる狂気だ」
そう、西島恭司郎は呟く。
それはまるで、自分を信じ込ませる作業のようだった。
ノックの音が響き、キョウジはタオルで顔の汗を拭く。
顔色と体調を整えたあと、一つ深呼吸をして、そっと扉を開く。
そこに居たのは、小森莉央だった。
「む、こんな時間にどうした? 寝なければ駄目だろうに」
莉央は消え入りそうな声で呟いた。
「……寝れない」
キョウジは静かに瞳を閉じる。
「……そうか」
叱ることも尋ねることもせず、キョウジは彼女を部屋に迎え入れる。
莉央はとことこと歩き、テーブルにつく。
キョウジはその間にホットミルクを電子レンジで用意し、彼女の前に出した。
ちょっと良い牛乳を使った、砂糖の入っていないホットミルク。
彼女にとっては、いつもの味。
『虫歯になったらいけないから砂糖は駄目だ』
小さい頃そう言われた時と、まったく同じ味。
こんな県外なのに、牛乳のメーカーから温度まで完璧に同じもの。
だから彼女にとってこれは、日常そのものだった。
彼女がゆっくりと熱いミルクを飲む間、キョウジは何も言わず隣に座り時間を潰す。
尋ねることもしない。
慰めるなんてことも。
それは思いやりがないからではない。
これが、彼らの時間であった。
言葉で癒せるほど、彼らに刻まれた傷は軽くない。
だから、ただ黙って耐えるしかなかった。
「……もう、大丈夫」
飲み終わってから、莉央は呟いた。
「何がだ?」
「私のこと、面倒見なくても。もう、大学生。大人」
キョウジは苦虫を嚙み潰したような表情となりながら、コップを片付ける。
「もう、一人でも大丈夫。だから、自分の人生を――」
「それ以上、言うな」
ぽつりと、キョウジは呟く。
「……俺は、俺の選んだ道を生きている。誰に言われるでもなく、自由にだ」
「でも――貴方は――」
「はっ! そういう偉そうな言葉は『夜に寂しくて寝れないよーえーんえーん!』なんて言わなくなってから言うが良い! おこちゃまめ!」
いつものふざけた口調になって、莉央は少しだけむっとした後、静かに立ち上がる。
「別に、一人でも大丈夫だもん」
「そうかそうか。――少し遅めに起こしてやる。ゆっくり眠ると良い。おやすみ」
「……ん。おやすみ。西島さん」
そう言って、莉央は隣の自分の部屋に戻っていく。
彼女が去ったのを確認してから、キョウジはソファに腰を下ろし、外の世界に目を向ける。
目覚めが悪かったからだろう。
どうにも眠る気が起きない。
「……人のこと言えないな。これは」
苦笑しながら、もう少しだけ、何もしない時間を作る。
やるべき仕事はある。
だが、今仕事に手を出せば、雑になってしまいそうだった。




