そこに一切の悪意なく
柔らかい、朝の陽ざし。
彼女はそれが大好きだった。
いつだって、始まりはそこからだから。
ふわりとした、重さを感じない毛布をそっと退け、深い弾力のあるベッドから身体を起こす。
再び、その眠りへの誘いを避けるために。
寝具が違うというだけでこうも睡眠は心地よくなるのかと、彼女は深い感銘を受けていた。
立ち上がり、窓に近づいてそっとカーテンの隙間から街並みを見つめる。
見慣れた街。
どことなく工業的なのに、どうにも垢抜けず素朴な景色。
大好きな、故郷。
それがいつもと違って見えるのは、きっと視点が違うからだろう。
高所から見える大好きな街並みは、いつもより少しだけ都会的だった。
控え目なノックの音が響き、扉が開かれる。
「失礼します」
スーツ姿の女性は微笑のまま、ガラガラとカートを引く。
カーテンから外を見るあさひを見つめ、小さく一礼した。
「おはようございます。お食事はいかがですか?」
「おはよう。もちろんいただきます」
「良かった。シェフの苦労が無駄にならずに済みそうです」
「むしろお代わりをして困らせるかもよー?」
「あさひ様の血肉となるのなら、シェフにとって本望。本当に必要なら是非遠慮なくおっしゃってください」
「ありがと。でもまあ……正直言えば食べきれるかもちょっと心配かな」
そう言ってカートの上を見る。
クローシュがかぶさり料理そのものは見えない。
けど、そのクローシュの数が十以上は並んでいる。
一つ一つは少ないだろうが、全部合わせたら結構な量となるだろう。
「その時は遠慮なくお残し下さいませ」
「もったいなくてそんなこと出来ないけどね」
「料理より、貴女のお身体の方が大切で尊いものです。無理をなさらずにお好きなように」
そう言って女性は慈愛のこもった微笑を浮かべ、テーブルに料理を並べる。
その後あさひにエプロンをかけ、クローシュを丁寧に外してから、女性はぺこりと頭を下げ部屋を後にした。
「さて……どうしてこうなったんだろうなぁ」
あさひは小さく呟くものの、とりあえず今は食事に集中しようと両手を合わせた。
あさひの身に何が起きたのか。
もっと言えば、あさひが何をやらかしたのか。
それを端的にまとめると、こうなる。
全国大会予選に参加するため、今のままでは色々な物が足りない。
足りないというか足りなさすぎる。
だから何か手伝いが出来ないものかとうろちょろしていたところ、偶然赤羽の持つ"書類"が見えてしまった。
その書類は、外部協力者として頼み、断られた地元企業について。
どうやら赤羽はもう数社ほど提携企業を増やしたいらしい。
そして、ちらっと見えたその一ページには、偶然あさひの良く知る会社が混じっていた。
『株式会社鷲羽製作所』
何を隠そうこの鷲羽製作所、高校卒業時にあさひを超好待遇で迎え入れるとスカウトしてくれていたところである。
ここなら顔見知りだし、会社としてもイベントごと大好きだから、自分が頼めばきっと協力してくれる。
そう思って後先考えず突撃した結果、何故かこの高層ビルによる至れり尽くせり軟禁生活が始まった。
「……いや、なんでこうなったんだろう」
腕を組み、あさひは考える。
自分の短慮が原因のやらかしなんてのは、まあ割と良くあること。
けれど、流石にこの状況が自分の所為だけじゃないはずだ。
それでも、もし一つだけ、あさひに反省すべき点があるとするならば……。
(せめて――どこに行くかだけARCのみんなに言っておけば良かったなぁ)
心配させているだろうとことを考え、あさひは申し訳なさでいっぱいになる。
だから何とかこの軟禁生活を早く終えたいのだが……。
優しいノックが響き、扉が開かれる。
入って来たのは、老人だった。
背中が曲がり切り、杖を常に片手に持って。
髪も広がった髭もすべて真っ白になり、どこか恰幅が良い。
どことなくサンタを彷彿とさせるのは、外見だけでなく柔和な笑みにもよるだろう。
男の名前は『鷲谷寛』。
鷲羽製作所の創始者の一人であり、そして現、代表取締役会長。
つまり、この軟禁の実行犯ということである。
「おはようあさひちゃん。良く眠れたかい?」
にこにこと、ほがらかに。
あさひも満面の笑みで頷いた。
「うん。おはよう! 寛のじっちゃん!」
「ほっほ。元気があってよかよか」
うんうんと、老人は嬉しそうに何度も頷く。
軟禁の実行犯であるのは確かである。
けれどそれ以上に、彼らの付き合いは長い。
それこそ、老人にとってあさひたち天羽家は皆身内に等しいくらいには。
だからだろう。
あさひは、軟禁そのものには一切危機感を抱いていない。
けれど同時に、この状況が不味いことも正しく認識している。
ARCに残された時間は、そう長くないからだ。
それに、老人がこのような所業を行った理由も気になる。
思った以上に、この状況は複雑なことになっている。
そんな予感をあさひは感じつつあった。
孫と子供のように、二人はニコニコしている。
けれど、お互い牽制し合っているのも事実だった。
お互いに、何か言いたいことがあって、そして大切な言い分がある。
だから後は、どっちから口を開くかを決めるだけ。
そして、沈黙に耐え切れなかったあさひが先に根負けした。
「じっちゃん。私は通報するつもりはないけどさ、大丈夫なの? もうそういうことから手は切ってるんでしょ?」
とりあえず今一番気になることを、あさひは尋ねた。
大昔、あさひが生まれるよりずっと昔、鷲谷寛という人物は反社会的勢力と繋がりがあったという。
けれどそれは本当にずっと昔の話。
今はクリーンな企業となっているからそんな繋がりはないはずだし、例え繋がりがあったところで、流石に拉致をもみ消すほどの権力はない。
だから、警察的に大丈夫なのか、この気の良いじっちゃんが捕まらないのか、それが今一番の心配だった。
そんなあさひの不安を聞き、老人は困った顔で笑った。
「この状況でも、ワシの心配かぁ。良い子なのは嬉しいけど、良い子すぎてじっちゃん心配じゃわい」
「本当に大丈夫?」
「ああ。大丈夫じゃよ。あさひちゃんのことでは、《《絶対に》》捕まらん」
「そか。それは安心したよ」
「けどな……例え捕まるとしても、ワシは今と同じことをしておったと思とるよ?」
「へっ?」
老人は少し間を置いて、ぽつりと呟いた。
「あさひちゃん。……危ないことは、もうやめておくれ」
縋るような、寂しい声色。
それだけで、あさひは老人の企みが、裏側が完全に透けて見えた。
状況が複雑なのは間違いないだろう。
だが、この拉致軟禁そのものには、一切複雑な事情はない。
ただ、この老人"鷲谷寛"は知っているだけ。
あさひがどれほど、幼少の頃から入退院をくり返し、そして何度死の境を彷徨ったかを。
そして、そんなあさひが今どんな無茶をしているのかを。
彼女を実の孫同然に思っているからこそ、老人は己が捕まる程度のことなど、もはやリスクとさえ捉えていない。
「うちじゃダメだったのかい? 大好きを、裏方から支えるというのは。あさひちゃんのために新設の部署まで用意する企画があったんだよ?」
「じっちゃん……」
「どうしても乗りたいなら、テストパイロットということでうちでやっていこうよ。まだ製造技術はないけど、うちの技術力ならすぐ出来るよ。ね、あさひちゃん。だから――大学を止めて、うちに……」
あさひは静かに、首を振った。
「……そう、じゃよね。あさひちゃんはそういう子だものね。頭ではわかってるんじゃよ。あさひちゃんが楽しんでることも、後悔がないことも」
老人は静かに立ち上がり、扉の前に。
「これでも、本当はあさひちゃんの"大好き"を応援したいんじゃ。けど……駄目なんじゃよ。あさひちゃんがもし、もしもワシより先に逝ったらと……そう考えるだけで、ワシは怖くてしょうがないんじゃ。堪忍な、堪忍な……」
まるで念仏でも唱えるよう繰り返しながら、老人は部屋を退出した。
あさひの中に、どよっとした感情が渦巻く。
それが悪意でなく、純然たる愛だからこそ、あさひは押しのけることが出来なかった。




