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第4話「心には理性の知らない理由がある(ブレーズ・パスカル)」

 その日の午前中、教育棟の第一検査室は、いつもより少しだけ人が多かった。

 月に一度の総合評価日。設計児たちが順番に各検査室を回り、認知・身体・感情の三領域について一斉に測定を受ける日だ。栄司の仕事はその補助で、担当の職員が不在のあいだ記録端末を持って待機することだった。今月はその担当が三部屋に増えていた。理由は聞いていない。ただ、名前のある棟の割に、仕事の内容はいつもと変わらなかった。

 最初の部屋を終えて廊下を移動したとき、前方から白衣の集団が歩いてくるのが見えた。

 その中に、ユナがいた。

 集団の中ほどに、ほかの設計児たちと一緒に並んでいた。揃いの白いシャツ、薄いグレーのズボン。識別票が胸にある。周囲の子どもたちと、外見上の違いはほとんどない。

 だが、栄司の足は廊下の端で一瞬止まった。

 流れ込んできた。

 今日のそれは、これまでと少し質が違った。暗い色でも、引っかかる色でもなかった。もっと薄い。薄いが、広い。霧のように胸の中に広がって、輪郭がない。恐怖というには静かすぎる。でも、その静けさの奥に、何か細いものが走っていた。

 ユナが横を通り過ぎていった。

 こちらを見なかった。前だけを向いて、規則正しい歩幅で歩いていた。その背中が遠ざかっていくのを、栄司はしばらく廊下の端で見ていた。

 午前の検査が終わったのは、昼前だった。

 栄司は三つ目の部屋の記録をまとめ、端末を担当職員に渡した。午後は橘のいる第三観察室に戻る予定になっている。ユナの評価の最終セッションがあると、朝の引き継ぎで聞いていた。

 午後の観察室は、いつもより少し張り詰めた空気があった。

 入室すると、橘がすでにガラスの前に立っていた。隣室にはユナがいる。テーブルの上に今日は何も置かれていなかった。課題用紙もない。ただ、椅子に座ったユナと、向かいに座った別の職員の姿があった。問答形式の評価らしかった。職員が何かを言い、ユナが答える。それを繰り返す。

「相良さん、来ましたね」

 橘が振り返らずに言った。

「はい」

「今日のこれは、言語反応評価です。感情制御型は特にここが重要で、半年に一度やっています」

 栄司は橘の隣に立ち、ガラスの向こうを見た。

 ユナは静かだった。職員の問いに、短く答えている。表情の変化は少ない。声は聞こえないが、その落ち着きぶりは外からでも明らかだった。

「今日の午前の結果も出ました」と橘が続けた。「認知・身体ともに申し分ない。感情値も設計範囲内で安定しています。今のところ、すべての指標が優秀です」

「そうですか」

「久世さんも今日の結果は見るはずです。ユナは今期の中では特に評価が高い」

 栄司は端末を手に持ったまま、ガラスの向こうのユナを見続けた。

 今日の霧のような感触が、まだ胸の中にある。薄い。広い。輪郭がない。それが何なのか、まだうまく言葉にできていなかった。

 評価が終わったのは、午後二時を少し過ぎた頃だった。

 職員がユナを連れて観察室の前を通り過ぎていった。橘は記録の整理のために一度退室した。栄司は端末に入力を続けながら、ドアの外の廊下を気にしていた。

 足音が戻ってくる気配がして、顔を上げた。

 廊下に、ユナが立っていた。

 職員の姿はない。少し先の別の部屋へ入ったのか、廊下には彼女一人だ。観察室のドアが開いたままになっていたのだろう。ユナは入口のところで止まり、室内の栄司を見ていた。

 栄司は何も言わなかった。

 ユナも何も言わなかった。

 廊下の蛍光灯の光の中で、ユナはただ栄司を見ていた。午前中に廊下で横を通り過ぎたときと同じ目だった。暗い色。冷たい色。でも消えていない。

 ユナが、口を開いた。

「怖い」

 それだけだった。

 声は小さかった。聞こえるか聞こえないかの音量で、でも確かに発音された言葉だった。誰かに訴えているというよりも、ただそこにある事実を口に出したような言い方だった。

 栄司は椅子に座ったまま、ユナを見た。

「何が」

 ユナは少し間を置いた。

「わからない」

 また間があった。

「怖いのに、数字は全部ふつうで。橘先生も全部ふつうって言ってて。だから怖いのが、どこにあるのかわからない」

 栄司はゆっくりと端末を置いた。

「数字に出なくても、怖いことはあると思う」

 ユナは何も言わなかった。でも、視線が少しだけ変わった気がした。

「俺には聞こえてた」

 言ってから、栄司は少しだけ後悔した。こんなことを言うべきではなかったかもしれない。証明できない。裏付けがない。でも、言ってしまった。

 ユナは目をそらさなかった。

「聞こえてた、って」

「説明が難しいんだけど。今日の午前中、廊下で横を通ったときに。なんというか、そういう色がわかった」

 ユナはしばらく沈黙した。

 廊下の奥から足音が近づいてくる音がして、ユナはそちらに目をやった。職員が戻ってくる。ユナはもう一度栄司を見てから、入口から離れた。

 足音が来て、「ユナ、こっちで待っててと言ったでしょう」という声がした。ユナの「すみません」という声が返り、それきり廊下は静かになった。

 栄司は端末をもう一度手に取り、入力欄を開いた。

 今日の特記事項の欄が空白のままだった。

 施設を出たのは夕方の六時を過ぎていた。

 空は薄くオレンジで、まだ完全には暮れていなかった。栄司は歩きながら、ユナの言葉を繰り返した。

 怖いのに、数字は全部ふつうで。

 おかしなことを言う子だ、と思った。おかしい、というのは批判ではない。ただ、設計された子どもがそういう言葉を持っているとは思っていなかった。感情制御型は感情の波を抑えるよう設計されている。数字はそれを証明している。でも、数字に出ない何かが彼女の内側にあって、それを彼女自身が感じている。

 数字が正しくて、ユナが間違っているわけではない。

 ユナが感じていることが本当で、数字がそれを拾えていないだけだ。

 心には、理性の知らない理由がある。

 パスカルの言葉だったと思う。大学の授業で一度だけ出てきた。理性では説明できない何かが、人の心を動かす。理屈ではなく、感じてしまうということの話だった。

 栄司はその言葉を、これまで自分自身のことだと思ってきた。感じるが証明できない。言語化できない。だから黙っていた。

 でも今日、ユナが使っていた言葉は、栄司のそれと同じ構造をしていた。

 怖い、とわかっている。でも、どこにあるかわからない。

 感じているのに、理由がない。いや、理由はある。ただ数字にならない。

 地下鉄の入口の前で、栄司は立ち止まった。

 今日、特記事項の欄に何も書かなかった。橘には言わなかった。久世にも言わない。ユナが廊下で言った言葉を、自分の胸の中だけに留めた。

 前回の自分と、今回の自分が、どう違うのか、うまく説明できなかった。三話では「言えた」と思った。今日は言わなかった。でも、前回の沈黙とは何かが違う気がした。

 今日の沈黙は、怖かったからではない。

 ユナが漏らした言葉を、橘の評価項目の中に放り込みたくなかっただけだ。あの言葉は記録になるべきではない、という感覚があった。根拠はない。でも、そう思った。

 それが正しいかどうかは、まだわからない。

 ただ、今日初めて、自分が何かを判断したという感じがあった。

 黙ることを、選んだ、のではなく。これは記録にしない、と、自分で決めた。

 その違いが、今日の歩道の上に小さくあった。

 電車に乗り、窓の外の暗くなりかけた街を見ながら、栄司はユナの顔を思い出した。怖い、と言った後の、あの表情の変化。何かが少しだけ緩んだように見えた。

 聞こえていた、と言ったことが、正しかったのかどうかはわからない。

 でも、間違いではなかった、と思う。

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