第5話「知ることは苦しむこと(アイスキュロス)」
久世という人物に、栄司が初めてきちんと話しかけられたのは、その翌週のことだった。
廊下ですれ違うことは何度かあった。施設長室の前で書類を持っている姿も見た。白衣ではなく、いつもグレーのスーツを着ている。年齢は四十代の半ば、背が高く、声に静かな重みがある。施設の中では「先生」と呼ばれることも「久世さん」と呼ばれることもあって、どちらが正式な呼称なのか、栄司にはいまだにわからなかった。
声をかけられたのは、培育棟から出てきたところだった。
点検の帰り道、廊下を歩いていると、前から久世が来た。足を止めて、栄司の名前を呼んだ。
「相良くん、少し時間はありますか」
よく通る声だった。
「はい」
隣の小会議室に通された。窓のない部屋で、テーブルと椅子が四脚あるだけだ。久世は上座に座り、栄司に向かいの席を勧めた。
「橘さんから、ユナの観察補助に入っていただいていると聞きました」
「はい、何度か」
「どうご覧になっていますか」
栄司は少し間を置いた。
「優秀だと思います。落ち着いていて、課題への取り組みも丁寧で」
「数字の話はわかっています」
久世は静かに言った。否定ではなく、そこから先の話をしたい、という口調だった。
「数字以外の話を聞いています。直接接したときに、何か感じたことがあれば」
栄司は久世の目を見た。穏やかな目だった。圧力があるわけではない。ただ、待っている目だった。
「特には」
自分の声が、少し平坦に聞こえた。
「そうですか」
久世は一度頷き、テーブルの上に薄いファイルを置いた。
「ユナを次のフェーズに移す予定があります。来月の頭に」
「次のフェーズ、というのは」
「別の施設です。感情制御型の中でも評価の高い個体を、より高度な環境で育てるプログラムがあります。本人の同意は制度上不要で、保護者もいませんから、施設の決定で動きます」
栄司は何も言わなかった。
「相良くんに確認しておきたかったのは、移送前に何か観察上の懸念がないか、ということです。あれば今のうちに記録しておく必要がありますので」
窓のない部屋は静かだった。
栄司は手元を見た。膝の上に端末を置いていない。手ぶらで座っていた。
懸念はない、と言えば終わる。それだけのことだった。
四話でユナが漏らした言葉が、胸の中で小さく動いた。怖い、とわかっている。でも、どこにあるかわからない。
「特に懸念はありません」
久世は一拍おいてから、「わかりました」と言った。
椅子を引いて立ち上がる際、久世の手がファイルの上に一瞬止まった。何かを確認するような動作だったが、すぐにファイルを閉じた。栄司は、その一瞬の間が何を意味するのか、読み取れなかった。
小会議室を出て、廊下を歩きながら、栄司は自分の手のひらを見た。
何かが起きているわけではなかった。鼓動が速いわけでも、汗が出ているわけでもない。ただ、何かがゆっくりと胸の中で沈んでいく感触があった。
懸念はない、と言った。
あの部屋で、それが嘘だとはっきり自覚していた。今まで「特記事項なし」と書くたびに、これは言語化できないものだから記録に値しない、と思っていた。でも今日は違った。言える言葉があった。証明はできないが、言えることがあった。
それを言わなかった。
久世の前で、言わなかった。
来月の頭に、ユナはここからいなくなる。
橘に話したのは、その日の夕方だった。
検査棟の休憩室で、橘が珈琲を飲んでいるところへ栄司が入った。橘は少し驚いた顔をして、「珍しい」と言った。栄司が自分から話しかけにくることは少ないのを、橘は知っていた。
「少し聞いていいですか」
「どうぞ」
栄司は向かいの椅子に腰を下ろして、テーブルの上の自分の手を見た。
「ユナが来月、移送されると聞きました」
橘は珈琲のカップを置いた。
「久世さんから聞いたか」
「はい。今日の午前に」
「そうだな。来月の第一週の予定で動いている」
「あの子は、知っているんですか。自分が移送されることを」
橘は少し間を置いた。
「伝えていない」
「なぜ」
「伝える必要がないからだ。制度上は施設の決定事項で、設計児本人への事前説明の義務はない。それに、ここよりも高度な環境に移るんだ。悪い話じゃない」
栄司は黙っていた。
橘が続けた。
「相良さん、君がユナを気にかけているのはわかってる。観察補助の記録を見ていれば、それくらいはわかる。だが、感情移入と観察は分けて考えたほうがいい」
「感情移入ではないと思っています」
言葉が、思ったより早く出た。
「あの子の内側に何かがあると感じている。数字に出ないが、確かにある。それを、感情移入と呼ぶのは違う気がします」
橘は少し目を細めた。
「その『数字に出ないもの』というのは、どういうことだ」
栄司は橘を見た。
ここだ、と思った。ここで言えば、話は変わるかもしれない。変わらないかもしれない。信じてもらえるかもしれない。おかしな人間だと思われるかもしれない。
「先日、ユナが廊下で、怖い、と言いました」
「廊下で?」
「観察室のドアが開いていて、ユナが一人でいるときに。評価の合間だったと思います」
橘の表情が少し変わった。驚きというより、何かを整理している顔だった。
「それは記録に入れたか」
「入れていません」
「なぜ」
栄司は少し考えた。
「入れるべきではないと思いました。あの言葉は、評価の文脈には入らないと思ったので」
橘は長い沈黙を置いた。
「相良さん」
「はい」
「それは正しい判断だったとは言えない。気づいたことがあれば、評価対象かどうかは君が決めることではない」
「わかっています」
「ただ」と橘は続けた。「教えてくれたことは、聞いておく」
それだけ言って、珈琲のカップを持ち上げた。
栄司は立ち上がり、休憩室を出た。
施設の外に出ると、日が傾いていた。
来月の頭まで、あと三週間ほどある。
栄司は歩きながら、フランクルのことを思い出した。施設に勤め始めた年に手に取った薄い本の中にあった言葉だ。強制収容所の話で、すべてを奪われた状態でも残る自由がある、という話だった。それは、与えられた状況に対していかなる態度をとるかを選ぶ自由だ、と書かれていた。
栄司はその言葉を、美しい、と思った記憶がある。でも他人事だった。自分の話だとは思わなかった。
今は少し違う。
今日の久世との会話で、栄司は沈黙を選んだ。橘との会話では、言葉を選んだ。どちらも「選んだ」という感覚がある。何かに流されたのではなく、自分が判断した。
でも、どちらの判断が正しかったのかは、まだわからない。
久世に言うべきだったのかもしれない。橘に言ったことは遅すぎたのかもしれない。あるいは、橘に言ったことによって、何かが動くかもしれない。動かないかもしれない。
来月の頭が来る。
ユナはここからいなくなる。移送先で何があるのか、栄司には知る方法がない。
歩道の向こうに地下鉄の入口が見えてきたとき、栄司は立ち止まった。
風が少し冷たかった。六月の入り口で、曇っている。
どうするのか、という問いが、今日初めてはっきりした形で胸の中にあった。今まではそういう問いを立てること自体を、ずっと先送りにしてきた。自分には関係ない、立場がない、証明できない、と言い続けることで、問いを持たないようにしてきた。
でも今日、問いが来た。
何もしないことも、何かをすることも、どちらも選択だ。
どちらを選んでも、選んだのは自分になる。
栄司は地下鉄の入口へ向かって歩き出した。答えはまだなかった。でも、問いから目をそらさないでいることは、今日はできた。
それが今日の、自分の選んだ態度だった。




