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第3話「人間は自由の刑に処せられている(ジャン=ポール・サルトル)」

 三日後、また観察補助の担当が入った。

 今度は橘ではなく、別の職員がユナを連れてきた。栄司が観察室に入ると、すでにユナは隣室の椅子に座っていた。前回と同じ場所、同じ姿勢。テーブルの上には今日も課題用紙が置かれていた。

 違うのは、課題の内容だった。

 今日の用紙には、絵が印刷されていた。人物、建物、動物、風景。いくつかの場面を描いたイラストが並んでいて、その下に「あなたはどう思いますか」という問いがある。感情反応の評価テストだ、と栄司は見当をつけた。感情制御型の設計児に対して、外部刺激への反応を測る定期的な評価があると聞いていた。

 ユナは用紙を見ていた。

 鉛筆は持っているが、今日もすぐには動かない。

 栄司は記録端末を開き、観察フォームを立ち上げた。表情・姿勢・発話有無・感情反応。前回と同じ四項目。前回と同じように、「落ち着いている」と入力すれば、それで終わる。

 流れ込んできたのは、そのときだった。

 今日のそれは、前の二回と少し違った。暗い色ではなく、もっと鋭いものだった。刺さるような、というよりも、何かが引っかかって止まるような感触。戸惑い、と呼ぶのが近いかもしれない。

 ユナが、絵の一枚を見つめていた。

 どの絵かは遠くてわからない。だが彼女の視線が、一点で止まっていた。

 鉛筆が、動いた。

 ゆっくりと、何かを書いた。また止まる。また見る。また書く。そのリズムが、さっきまでと変わっていた。

 栄司はガラスに少し近づいた。

 見えない。何を書いているのか、距離がある。ただ、ユナの姿勢がわずかに前のめりになっていた。そのほんのわずかな変化が、栄司には大きく見えた。

 評価が終わり、担当職員がユナを連れて出ていった後、橘が観察室に顔を出した。

「お疲れさまです。今日はどうでした」

「特に問題はなかったと思います」

「そうですか」

 橘は端末を受け取り、入力内容を確認した。

「ちょっと聞いていいですか」

 栄司は少し間を置いてから、言った。

「あの子が今日、絵の一枚で止まっていました。どの絵かはわからなかったんですが、他より時間をかけていたように見えました」

 橘は端末から目を上げた。

「時間をかけていた、ですか」

「はい。姿勢も少し変わっていました。前のめりになっていたというか」

「それは記録に入れましたか」

「……入れていません」

 橘は少し考えるような間を置いてから、「次からはそういう細かい変化も書いておいてください」とだけ言った。叱責でも、驚きでもなく、ただ淡々と。

「わかりました」

 橘が出ていった後、栄司は観察室に一人残った。

 言えた、と思った。

 ほんのわずかなことだ。「姿勢が少し変わっていた」という、誰でも言えるような観察を、ただ口に出しただけだ。十七番のシェルで感じたことでも、ユナの目の奥にあるものでもない。証明できない話ではなく、ガラス越しに見た事実の話だ。

 それでも、言えた、と思った。

 二年間「特記事項なし」と書き続けた自分が、今日初めて何かを口にした。その小ささが、逆に栄司の胸に引っかかった。これだけのことが、なぜ今まで言えなかったのか。

 昼休みに、栄司は食堂の隅のテーブルで一人、食事をとった。

 向かいの席に、同期の吉村が座った。工学部出身で、施設の設備管理を担当している。愛想がよく、話しかけてくることが多い。栄司はそれを煩わしいと思ったことはなかったが、自分から話しかけることもなかった。

「相良、最近また観察補助入ってるな」

「そうだな」

「あっちの棟って、独特の空気あるよな。俺、設備の点検で入ることあるんだけど、なんか苦手で」

「苦手、というのは」

「うまく言えないんだけど。あの子たちって、普通の子どもと違う感じがして」

 栄司はトレーの上の味噌汁を一口飲んだ。

「設計されてるから、か」

「そうなのかな。でも設計されてる子なんて今どこにでもいるだろ。うちの施設の子が特に、って感じがするんだよな。なんていうか、空っぽみたいな」

 栄司は何も言わなかった。

「空っぽって言い方は悪かったな。そういう意味じゃなくて」

「わかってる」

 吉村は少し気まずそうに箸を動かした。

「相良はどう思う?あの子たち」

 栄司は少し考えた。

「空っぽじゃないと思う」

「そうか」

「少なくとも、俺が見た子は」

 吉村は「へえ」と言い、それ以上は聞いてこなかった。話題は天気と来週の当直割に移り、昼休みが終わった。

 午後の業務に戻る前に、栄司は培育棟の前を通った。

 用があったわけではない。ただ、足がそちらへ向いた。

 廊下の突き当たりに、十七番のシェルがある。今日も点検は朝に済んでいる。数字は正常だった。モニターは緑だった。

 栄司は扉の前で立ち止まり、中には入らなかった。

 ガラス越しに、薄明かりの中に並ぶシェルの列が見えた。静かだった。音がない。動きがない。それでも何かが、ゆっくりと育っている。

 今日は、何も流れ込んでこなかった。

 ただ、ここに何かがいる、ということだけが、静かに胸の中にあった。

 それで十分だった、と栄司は思った。今日のところは。

 踵を返し、廊下を歩いた。午後の業務が始まる。今日も、やることがある。

 でも、昨日と少しだけ違う自分が、その廊下を歩いていた。

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