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第2話「語りえぬものについては沈黙しなければならない(ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン)」

 午後の担当割には「観察補助」と書いてあった。

 栄司がその意味を正確に理解したのは、教育棟の第三観察室に通されてからのことだった。部屋の中央には事務用の長机が一脚、その向かいに小さな椅子が一脚。壁には一方向から見える強化ガラスの窓が取り付けられていて、隣室の様子を観察できるようになっている。

 記録端末を手渡した若い職員は、「感情制御型の定期評価です。先生が戻るまで様子を見ておいてください」とだけ言い残して、足早に出ていった。

 隣の部屋に、今朝の少女がいた。

 ユナ、と識別票に書かれているのが、ガラス越しにやっと読み取れた。彼女は椅子に座り、テーブルの上の課題用紙に視線を落としている。鉛筆を持っているが、動いていない。

 栄司は観察室の椅子を引き、腰を下ろした。端末を膝に置き、記録フォームを開く。観察項目は定型で、表情・姿勢・発話有無・感情反応の四項目だ。

 ユナは静かだった。

 課題用紙を前にしたまま、ほとんど動かない。感情制御型の設計児は概してそうだ、と栄司は研修で習っていた。内部処理は行われているが、外への発露が少ない。その安定が、この設計の意図するところでもある。

 だから、「落ち着いている」と記録するのが正しかった。

 栄司は端末のフォームに目を向けたまま、しかし何も入力しなかった。

 今朝の十七番シェルと同じだった。数字は正常でも、何かが流れ込んでくる。あの冷たい色が、またじわりと胸の中で広がり始めていた。

 恐怖ではない。今度は違う。もっと静かな何かだ。

 諦め、と呼ぶには早い。希望がなくなった、というよりも、希望があるという発想そのものが最初からなかった、というような。そういう色だった。

 栄司はガラス越しにユナを見た。

 彼女はまだ鉛筆を動かしていない。課題用紙を見ているのか、その向こうを見ているのか、遠くからではわからない。ただ、今朝と同じ目をしていると思った。暗い色。冷たい色。でも消えていない。

 担当医師が戻ってきたのは、それから三十分後のことだった。

 医師の名前は橘といった。四十代、白衣の似合う静かな人物で、栄司とは月に二、三度顔を合わせる程度の関係だった。

 橘は観察室に入るなり端末をひょいと受け取り、栄司の入力内容を確認した。

「特記事項なしですね」

「はい」

「了解です。今日もそんな感じでした。あの子は記録しやすくて助かります」

 橘はそう言ってから、ガラスの向こうのユナに目をやった。彼女は評価担当者が戻ったことに気づいたのか、ようやく鉛筆を動かし始めていた。

「優秀な個体ですよ。感情値の波がきれいに抑えられていて、設計通り。久世さんも高く評価してます」

「そうですか」

「相良さんも今後、ここに入ることがあるかもしれません。引き続きよろしく」

 橘はそれだけ言って、端末を持ったまま隣室へ向かった。

 栄司は観察室に一人残された。

 ガラスの向こうで、橘がユナに声をかけていた。ユナは顔を上げ、橘の言葉に頷いた。表情の変化は少ない。感情制御型だから、と言われればそれまでだ。だがさっきまで、あの子の中に何かがあった。栄司にはまだ、その残熱みたいなものが感じられていた。

 記録フォームの画面に、「特記事項なし」と確定入力した文字が表示されていた。

 栄司は端末を閉じ、立ち上がった。

 退勤は午後六時だった。

 施設の正門を出ると、夕暮れの外気が顔に当たった。五月の終わりで、空はまだ明るい。地下鉄の入口へ続く歩道を、栄司は一人で歩いた。

 帰り道の習慣がある。音楽は聴かない。イヤホンを耳に入れると、施設の中でも外でも、あの感覚が強くなる気がするからだ。音を遮断すると、代わりに何か別のものが入ってきやすくなる。だから栄司は、帰り道はただ歩く。街の音を聞きながら。

 歩道の脇に、大きなポスターが貼られていた。

 三ヶ月ほど前から増えている、政府広報のシリーズだ。「未来を、一緒に作る。」というキャッチコピーの下に、白衣の研究者と子どもの笑顔が並んでいる。栄司はその前を何十回も通ってきたが、今日初めてちゃんと見た気がした。

 ポスターの子どもは、施設の設計児に見えた。施設支給ではない衣服を着ているが、どこかが似ていた。完璧に整えられたような笑顔の作り方が。

 次の壁に、別の掲示があった。

 手書きに見えるが、印刷物だった。「出産は自由だ」という文字の上に、赤いスプレーで太い線が引かれていた。誰かが消したのか、あるいは消されたものを撮影して、そのまま印刷したのか。栄司には判断がつかなかった。

 「出産は自由だ」。

 今の社会では、そのスローガンは二つの意味で読まれる。産む自由と、産まない自由。どちらを主張するかによって、その言葉を歓迎する人と憎む人が入れ替わる。栄司はそのどちらにも属していない、と思ってきた。どちらの側に引っ張られることもなく、ただ施設の中で数字を読んでいる人間として。

 今日までは。

 地下鉄の入口の手前で、栄司は立ち止まった。

 十七番のシェルの感触が、また掌に戻ってきた。ひんやりとした樹脂の表面。その向こうにあった、暗い色の感覚。そしてユナの目。ガラス越しに見た、動かない鉛筆。

 報告しなかった。

 橘に「特記事項なし」と記録した。久世には今日も何も言わなかった。施設での二年間、一度も言わなかった。感じるたびに「気のせいだ」と処理して、端末に「異常なし」と入力し続けた。

 なぜそうしたのか。

 信じてもらえないからだ、と思っていた。数字に出ていないことを、言葉で訴えるのは難しい。証拠がない。証明できない。だから黙っていた。それが理由だ。

 そうだろうか、と栄司は思った。

 本当は、信じてもらえないのが怖かったのではなく。信じてもらえたとして、その後に何が起きるかが、もっと怖かったのではないか。施設の仕組みが揺らぐことが。自分の立場が変わることが。今まで「異常なし」と言い続けた自分の、二年分の記録が、嘘になることが。

 語りえぬものについては、沈黙しなければならない。

 哲学の授業で習ったヴィトゲンシュタインの言葉は、本来そういう意味ではなかったはずだ。言語の限界について、証明できないことについての、認識論の話だったはずだ。

 でも栄司は今日まで、その言葉を別の意味で使ってきた気がした。

 言えないのではなく、言わないことを選んでいた。沈黙は能力の限界ではなく、自分の判断だった。

 地下鉄の入口から、帰宅する人々の流れが出てくる。スーツ姿、私服、老人、若者。それぞれの夜へ向かっていく人々の中に、栄司は混じった。

 ホームへ下りる階段の途中で、ふとユナのことを考えた。

 今頃、夕食の時間だろうか。設計児たちの食事は栄養管理されており、時間も決まっている。食べた後は自由時間が少しあって、就寝は二十一時だと聞いている。自由時間に何をするかは、ある程度本人の裁量らしいが、施設から出ることはできない。

 窓の外に何があるか、知っているのだろうか。

 今朝、あの子が見ていた白みかけた空の向こうに、何があるか。

 電車が来た。栄司は乗り込み、吊り革を掴んだ。

 車内は混んでいた。誰もが疲れた顔をしていた。窓の外は暗くなり始めていて、トンネルに入ると自分の顔が反射して見えた。

 平凡な顔だ、と栄司は思った。怒りも、決意も、何も表れていない。ただ帰る男の顔。

 その顔を見ながら、今日もまた沈黙を選んだ自分について、電車が次の駅に着くまでの間だけ、考えた。

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