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第1話「存在は本質に先立つ(ジャン=ポール・サルトル)」

午前六時四十分。国立育成機構・第七培育棟の廊下は、まだ朝の気配を持っていなかった。


 蛍光灯の白い光だけが、いつも通り変わらない。窓のない廊下では季節もわからない。春でも冬でも、この白さは変わらなかった。赴任した最初の頃、栄司はそれを清潔だと思った。今は何も思わない。慣れるというのは、そういうことだと知っている。


 相良栄司は点検用のタブレットを脇に抱え、棟の奥へと歩いた。靴底がリノリウムの床を踏むたびに、かすかな音が反響する。誰もいない。早朝のこの時間、培育棟に人が来ることはほとんどない。夜間の自動管理システムが問題なく動いていれば、人間が立ち入る理由がないからだ。それが栄司にとっての、唯一の救いだった。


 第七培育棟には、現在二十四基の人工子宮が稼働している。


 正式名称は「体外発育支援システム・第三世代」。施設内では略して〈シェル〉と呼ばれていた。高さ一メートル六十センチほどの楕円形のユニットが、等間隔に二列で並んでいる。外殻は半透明の強化樹脂で、内部には白濁した培養液が満たされていた。その中に、まだ生まれていない命が浮かんでいる。


 栄司の仕事は、毎朝それらの状態を確認することだった。

 温度。圧力。栄養供給。ホルモン値。モニターに表示される数字を順番に読み取り、正常値の範囲内であれば端末に「異常なし」と記録する。それだけだ。異常があれば担当医師へ転送する。それもシステムがほとんど自動でやってくれる。栄司の仕事は、結局のところ、数字を目で見ることだった。


 一番から順に確認していく。

 どのシェルも、今日もすべて正常だった。

 十七番のシェルの前で、栄司は足を止めた。

 別に、何かが起きていたわけではない。数字はすべて正常だった。温度:三七・一度。圧力:安定。栄養供給:正常。成長経過:週齢相当値の範囲内。モニターはいつも通り、緑のランプを灯している。


 それでも、栄司は動けなかった。

 胸の奥に、何かが流れ込んでいた。

 言葉にするのが難しい感覚だった。痛みではない。音でもない。強いて言えば、色だろうか。暗い、冷たい色が、胸の中心あたりにじわりと広がってくる感じ。水に墨を一滴落としたときのように、ゆっくりと。


 こわい。


 そう聞こえた気がした。いや、聞こえたというのも正確ではない。鼓膜が拾ったわけではない。ただ、確かにそこにあった。言葉というよりも、感触に近い何かが、胸の中に生まれた。

 栄司は自分のことを、特別な人間だとは思っていない。子どもの頃から人の気持ちが読めすぎると言われてきたが、それは単なる観察力の話だと思っていた。表情を読む、声の調子を聞く、文脈を拾う。人よりそれが得意なだけで、超感覚的な話ではないと。


 施設に勤めて二年、似たような感覚を覚えることは何度かあった。特定のシェルの前で足が止まる。理由はない。でも毎回「気のせいだ」と処理してきた。人工子宮の中の胎児が感情を持つはずがない。意識と呼べるものが芽生えるのは、生後しばらく経ってからのことだと、上司の久世もそう言っていた。まだ生まれてもいない。モニターに出ていない。だから、存在しない。


 でも今日は、やけにはっきりしていた。

 栄司はシェルのガラス面に、そっと手を当てた。

 ひんやりとした硬い感触。掌の熱が、少しだけ移っていく。中は薄く白濁した液体で満たされていて、内部はほとんど見えない。それでも、何かがそこにいることはわかる。育っている。生きている。


 こわい。


 また、来た。

 今度はさっきよりも少しだけ、鮮明だった。恐怖というよりも、もっと根本的な何か。暗闇にいる感覚。出口が見えない感覚。自分がここにいる理由を、まだ知らない感覚。

 栄司は手を離し、タブレットに目を落とした。モニターの数字は変わっていない。異常なし。全項目、正常値。

 彼は少しの間、入力欄を見つめた。


 「異常なし」と入力して、次のシェルへ進む。それが正しい手順だった。

 栄司はそうした。

 点検をすべて終えて廊下に出ると、奥の教育棟のほうから、かすかな足音が聞こえた。


 早い。まだ七時前だというのに、教育棟に人がいる。

 設計児たちの起床は七時半、朝の整列は八時と決まっている。この時間に教育棟に子どもがいるのは、規定外だった。栄司は特に理由もなく、その方向へ歩いた。報告すべき逸脱なのか確認する、とでも言い訳しながら。本当のところは、ただ気になっただけだった。


 教育棟のガラス張りの壁越しに、小さな人影が見えた。

 部屋の隅、東側の窓際に、一人の少女が立っている。年齢は十歳前後だろうか。細い体に、施設支給の白いシャツと薄いグレーのズボン。胸には識別票が貼られていた。遠くて読めない。


 少女は窓の外を見ていた。

 外には何もない。施設の外壁と、その向こうの空だけだ。まだ朝が薄く、空は白みかけている。雲がある。ただそれだけの景色を、少女はじっと見ていた。

 何かを探しているように、栄司には見えた。あるいは、ただ佇んでいるだけかもしれない。だが、その背中が発していた何かが、栄司の足を廊下に縫い止めた。

 自分でも気づかないうちに、ガラスの前で立ち止まっていた。

 少女がこちらを向いた。

 気配を感じたのか、それとも反射的にか。栄司と、少女の目が合った。

 逃げるでも、微笑むでも、怯えるでもなく、ただまっすぐに栄司を見ていた。


 感情制御型に分類されているはずの子どもたちは、表情の波が少ないとされている。それは栄司も知っていた。過剰な感情反応が他者との協働を妨げないよう、そのように設計されているのだと、研修で習った。


 でも、この少女の目は。

 暗い色をしていた。冷たい色。十歳の子どもが持つには、重すぎる何かを含んでいた。だがそれは虚ろではなかった。消えていない、確かな何かが、その奥でまだ灯っていた。

 少女は先に視線を外し、また窓の外に顔を向けた。

 栄司はしばらくその場に立っていたが、やがて踵を返した。業務時間が始まる。今日も、やることがある。廊下を歩きながら、ふと、少女の胸の識別票のことを考えた。


 近くで見れば、名前が書いてあるはずだ。名前というか、識別名。この施設では、設計児は番号と識別名で管理される。本人が選んだものではなく、設計の特性に基づいて割り当てられる。感情制御型には感情の揺れを最小化する設計が施されていると聞く。それならば、なぜあの目に、あんなものが宿っていたのか。

 あの子は、何という名前なのだろう。

 栄司は、なぜ自分がそんなことを気にしているのか、よくわからなかった。気にすることが仕事の範囲を超えているのはわかっていた。でも、十七番のシェルから流れ込んできた、あの冷たい色と、少女の目の奥にあったものが、どこかひどく似ていると思った。

 存在は、本質に先立つ。

 大学の授業で習った言葉が、なぜか今頃、頭の中に浮かんだ。生まれてから、その人間は何者になるかを決めていく。あらかじめ設計されているのではなく。

 でも、ここの子どもたちは。

 生まれる前から、何者かを決められている。

 午前の業務が始まる直前、栄司は端末で本日の担当割を確認した。

 午後の欄に、一行追加されていた。

 「感情制御型個体・定期観察補助 担当:相良」

 識別番号の横に、識別名が括弧で記されていた。

 (ユナ)

初めて書き始めました。

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ちなみにR15は念のためです。

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