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第17話「私の人生は私のものだ(シモーヌ・ド・ボーヴォワール)」

 移送保留から、二週間が経っていた。

 施設の空気は、少しずつ変わっていた。変わった、というより、何かが動き続けている、という感触だった。委員会の結論が出て、ユナの処遇が当面は維持されることになった。でも、それは終わりではなかった。次の評価は、いつか来る。

 業務は続いていた。記録を打ち、観察補助に入り、報告書を整える。特別なことは何もなかった。

 でも、先週ユナが言ったことは、まだ栄司の中に残っていた。

 運命はまだ決まっていない。だから、今日ここにいる。


 水曜日の午後、久世から端末に通知が届いた。

「少し時間をいただけますか。ユナの件ではなく、別の確認事項です」

 別の確認事項、という言葉が引っかかった。ユナの件ではない、ということは、自分自身のことかもしれなかった。

 終業後、栄司は小会議室に向かった。

 久世はすでに座っていた。今日はファイルを持っていなかった。

「座ってください」

 栄司は座った。

「先日の委員会の結論について、一点だけ伝えておきたいことがあります」

「はい」

「あなたの補足記録と根拠書は、委員会の内部で記録として保管されました。前例のない形式でしたが、無効にはなりませんでした。それは先日も伝えた通りです」

「はい」

「それとは別に」と久世は続けた。「委員会の中で、あなたの記録の形式について議論がありました。感知した内部状態を補足として記録することの是非、という議論です」

「私の記録の信頼性について、ということですか」

「そうです。今後の評価において、同様の記録をどう扱うかという方針が、まだ決まっていません。あなたの記録が採用されたことは事実ですが、それが先例になるかどうかは、まだわかりません」

 栄司は久世を見た。

「今日の話は、私への警告ですか」

「警告ではありません」と久世は静かに言った。「状況の共有です。あなたが今後どう動くかを判断するために、知っておいた方がいいと思いました」

「わかりました」

 久世はしばらく黙っていた。

「相良くん、一つ聞いてもいいですか」

「はい」

「あなたは今、この仕事を続けることに迷いはありますか」

 突然の問いだった。

 栄司は少し間を置いた。

「迷いはありません」

「なぜですか」

「まだ、やれることがあると思うからです」

 久世は少し頷いた。

「そうですか」

 それだけ言って、立ち上がった。

「今日はありがとうございました」

 廊下に出ると、栄司はしばらく歩きながら考えていた。

 迷いはない、と言った。それは本当のことだった。でも、なぜ迷いがないのか、と聞かれると、答えは一つではなかった。

 ユナがまだここにいるから。それが一番大きかった。

 でも、それだけではなかった。自分が自分でいるために、続けている部分もあった。ユナが「私が私でいられるようにしてくれますか」と聞いた。栄司は「できることをやってみます」と答えた。その言葉は、まだ有効だった。


 夕方、ユナの観察補助に入った。

 ユナは窓際に座っていた。今日は外を見ていなかった。手元に何か薄い冊子のようなものを持っていた。栄司が入ると顔を上げた。

「今日も来たんですね」

「うん」

 栄司は椅子を引いて座った。

「それは何ですか」

「記録室にあった本です。久世さんに許可をもらって、少し借りました」

「どんな本ですか」

「哲学の本です。難しくて、ほとんどわかりません。でも、一か所だけ気になる言葉がありました」

「どんな言葉ですか」

 ユナは冊子を少し開いて、そこを見た。

「私の人生は私のものだ、という言葉です」

「どこが気になりましたか」

「私の人生、という部分です。私は人生を持っていますか」

 問いが来た。

「どういう意味で聞いていますか」

「設計されて生まれた私に、私の人生と言えるものがあるかどうか、ということです。先週、相良さんが言いましたよね。運命はまだ決まっていないと。それを聞いてから、ずっと考えていました」

「どんなことを考えていましたか」

 ユナはしばらく窓の外を見た。

「運命がまだ決まっていないなら、私の先のことは、まだ何も決まっていない、ということですよね。でも、私は設計されて生まれました。生まれる前に、役割が決まっていました。それは矛盾しませんか」

 鋭い問いだった。

 栄司は少し考えた。

「矛盾しているようで、していないかもしれない」

「どうしてですか」

「設計されたことは、過去のことです。でも、今日のユナが何を感じて、何を考えて、何を問うかは、設計されていない。今日ユナがその本を借りてきたことも、その言葉が気になったことも、誰かが決めたことじゃない」

「でも、感情制御型として生まれたから、こういう問いを持つようになったとも言えますよね」

「そうかもしれない」と栄司は答えた。「でも、感情制御型として設計されたことと、今日ユナがその問いを持っていることは、別のことだと思う。設計は出発点です。そこからどう動いていくかは、ユナが決めている」

「私が決めている、というのは、どういうことですか」

「今日、その本を読もうと思ったのは誰ですか」

「私です」

「その言葉が気になったのは誰ですか」

「私です」

「それが、ユナが決めている、ということです」

 ユナはしばらく黙っていた。

「相良さん」

「うん」

「私の人生は私のものだ、という言葉は、設計されて生まれた私にも当てはまりますか」

 また問いが来た。

 栄司は少し間を置いた。

「当てはまると思う」

「どうして」

「その言葉の意味は、生まれ方についてではないと思うから。何者として生まれたかではなく、今日をどう生きるか、ということだと思う」

「今日をどう生きるか」

「今日、ユナがその本を読んで、その言葉が気になって、私に聞いた。それがユナの今日の人生だと思う」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さんは、私の人生を肯定してくれますね」

「肯定というより、本当のことを言っているつもりです」

「本当のこと、というのは」

「ユナが今日感じていることは、本物だということです。本物のことが起きている。それがユナの人生だということ」

 ユナは少し間を置いた。

「先週、相良さんは、運命はまだ決まっていないと言いました。今日は、私の人生は私のものだと言いました。どちらも、私が自分で何かを決められるということですよね」

「そうです」

「でも、次の評価が来たら、また結果が出ます。その結果によっては、私が決められることは何もなくなるかもしれない」

 栄司は黙っていた。

「相良さんは、それでも私の人生は私のものだと言えますか」

 問いの重さが、いつもより大きかった。

 栄司は少し考えた。

「言えます」

「どうして」

「どんな結果が出ても、今日ユナがその本を読んで、その言葉を選んで、私に問いを持ってきたことは、消えない。それはもう起きたことだから。起きたことは、誰にも奪えない」

 ユナはしばらく冊子を見ていた。

「奪えない、ということは、私のものだということですか」

「そうだと思う」

「わかりました」

 ユナは冊子を閉じた。それから、少し考えるような顔をした。

「相良さん」

「うん」

「私は、自分の人生を持っていると思っていいですか」

「思っていいと思う」

「それは、相良さんが言うから信じていいですか」

「それよりも、ユナ自身がそう感じているから信じていいと思う」

「私が、そう感じていますか」

「今日、その本を借りてきた。その言葉が気になった。私に聞いた。それはユナが感じていることから来ていると思う」

 ユナはしばらく窓の外を見ていた。夕方の光が、庭の木を照らしていた。移送保留になってから二週間が経っていた。ユナはまだここにいた。

「相良さん」

「うん」

「その言葉を書いた人は、怒って書きましたか。それとも静かに書きましたか」

 栄司は少し考えた。

「わかりません。でも、その言葉を生きた人だったと思う。怒りかもしれないし、静かな確信かもしれない。でも、本物だったと思う」

「本物だった」

「そう思う」

「私が今日感じていることも、本物ですか」

「本物だと思う」

 ユナはそれを聞いて、少し息を吐いた。大きくではなく、静かに。

「ありがとうございます」

 しばらく沈黙があった。

 栄司は端末に記録を打ちながら、ユナを見ていた。ユナは窓の外を見ていた。今日の光は穏やかだった。

「相良さん」

「うん」

「先週の教育棟の話を聞いて、考えていたことがあります」

「どんなことですか」

「他の設計児たちも、それぞれ何かを感じているということでしたよね」

「そうです」

「彼らも、自分の人生を持っていますか」

 栄司は少し止まった。

「そう思う」

「役割の外に出ることはできなくても、ということですか」

「そうかもしれない」

「それは、十分ですか」

 また鋭い問いだった。

 栄司は黙っていた。

「十分かどうか、私には決められない。でも、役割の中でも、本物のことは起きる。今日のユナのように」

「今日の私のように」

「そう」

 ユナはしばらく考えていた。それから、少し顔を上げた。

「相良さんは、私に優しいですね」

「本当のことを言っているつもりです」

「本当のことを言うことが、優しさじゃないですか」

 栄司は少し止まった。

「そうかもしれない」

「だったら、優しいと言っていいですか」

「好きに言っていいと思う」

 ユナは少し笑った。先週と同じ、静かな笑いだった。


 帰り道、栄司は今日のことを振り返っていた。

 ユナが「私の人生は私のものだ」という言葉を持ってきた。その言葉を、ユナは自分で選んだ。記録室にある本の中から、自分で見つけた。

 設計されて生まれた存在が、自分の言葉を選ぶ。

 それは、設計を越えた何かだった。

 久世が言った言葉を、栄司は今日改めて思い出した。ユナが設計通りでないとしたら、それはユナ自身の運命をユナが作っているということになります。

 ユナは今日、自分の人生を持っていると思っていいか、と聞いた。栄司は思っていいと答えた。でも、本当はもっと単純なことだった。ユナはすでに持っていた。今日の問いがその証だった。

 電車に乗った。窓の外に夜の街が流れていった。

 次の評価は、いつか来る。それまでの間、ユナはここにいる。問いを持ち続ける。本物のことが起きる。

 それがユナの人生だった。

 設計されたことは出発点にすぎない。そこからどう動くかは、ユナが決めている。今日のユナが証明していた。

 起きたことは、誰にも奪えない。

 その言葉が、今度は自分の中に残っていた。

 窓の外に夜の街が流れ続けていた。

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