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第18話「知は力なり(フランシス・ベーコン)」

 移送保留から、三週間が経っていた。

 施設の空気は、少しずつ変わっていた。変わった、というより、何かが静かに積み重なっていく、という感触だった。委員会の結論が出て、ユナの処遇が当面は維持されることになった。それから一週間が経ち、また一週間が経った。日常は続いていた。

 業務は続いていた。記録を打ち、観察補助に入り、報告書を整える。特別なことは何もなかった。

 でも、先週ユナが言ったことは、まだ栄司の中に残っていた。

 私の人生は私のものだ。その言葉を、ユナは自分で選んだ。記録室の本棚から自分で見つけて、自分のものにしていった。


 木曜日の朝、久世から端末に通知が届いた。

「今週の観察補助の後、少し時間をいただけますか。ユナの件ではありません」

 ユナの件ではない、という言葉が、少し引っかかった。先日の確認のときも同じ言い方だった。自分自身のことか、あるいは施設全体の何かか。

 その日の午後、ユナの観察補助を終えてから、栄司は小会議室に向かった。

 久世はすでに座っていた。今日はファイルを持っていなかった。

「座ってください」

 栄司は座った。

「少し、情報を共有したいことがあります」と久世は言った。「先日の委員会の件の続きになります」

「はい」

「あなたの補足記録と根拠書について、委員会の中で引き続き議論がありました。前回お伝えした通り、先例になるかどうかはまだ決まっていません。ただ、一つ動きがありました」

 栄司は久世を見た。

「上層部の一部から、感情同期能力を持つ観察者の記録を、評価補助データとして正式に扱う可能性を検討するという話が出ています」

 少し間があった。

「正式に、ということは」

「現在は補足として扱われています。それを評価の一部として組み込むかどうか、という検討です」

「それは、よいことですか」

 久世は少し考えるような間を置いた。

「一概には言えません。能力が制度に取り込まれることで、あなたの記録の信頼性が公式に認められる。それは一つの意味を持ちます。でも同時に、あなたの能力が施設の管理下に置かれることになる」

 栄司は黙っていた。

「今日お伝えしたのは、決定事項ではありません。あなたが知っておいた方がいいと思ったからです」

「わかりました」

 久世は少し間を置いた。

「相良くん、一つ聞いてもいいですか」

「はい」

「あなたは、自分の能力についてどう思っていますか」

 突然の問いだった。

 栄司は少し考えた。

「重さだと思っています。届くことが、いつも楽なわけではない。でも、届くから気づけることがある」

「それは、ユナのことですか」

「ユナのことも含めて、です」

 久世は少し頷いた。

「知は力なり、という言葉を聞いたことがありますか」

「フランシス・ベーコンの言葉ですか」

「そうです」と久世は言った。「知ることが力になる。でも、知ることは同時に、責任を伴う。あなたが届くことで知ることは、力でもあり、重さでもある。それをどう扱うかが、これから問われていくと思います」

「施設が、私の能力を管理したいということですか」

「管理、というより、活用、という言い方をするでしょう。でも、その境界は曖昧です」

 栄司は久世を見た。久世の目は穏やかだった。

「今日の話は、私への警告ですか」

「警告ではありません」と久世は静かに言った。「あなたが今後どう動くかを判断するために、知っておいた方がいいと思いました」

「ありがとうございます」

 久世は立ち上がった。

「今日はありがとうございました」

 廊下に出ると、栄司はしばらく歩きながら考えていた。

 知は力なり。

 届くことが、力として扱われようとしている。それは一つの変化だった。でも、久世が言った通り、力と管理の境界は曖昧だった。

 自分が届くことで知ることは、自分のものだと思っていた。でも、それが制度に取り込まれたとき、それはまだ自分のものでいられるのか。

 先週ユナが言った言葉を思い出した。私の人生は私のものだ。

 ユナが設計されて生まれたことと、今日のユナが何を感じるかは、別のことだと栄司は言った。設計は出発点にすぎない、と。

 自分の能力が制度に組み込まれることと、自分が届くことで感じることは、別のことだろうか。

 まだ答えは出なかった。


 夕方、ユナの観察補助に入った。

 ユナは窓際に座っていた。今日は手元に何も持っていなかった。栄司が入ると顔を上げた。

「今日も来たんですね」

「うん」

 栄司は椅子を引いて座った。

「相良さん、今日は少し顔が違います」

 またユナに見抜かれた。

「そうですか」

「何かありましたか」

「少し、考えることがあって」

「聞いていいですか」

 栄司は少し間を置いた。

「久世さんから、私の能力についての話がありました。施設の制度の中で、どう扱うかという話です」

「相良さんの、届く能力のことですか」

「そうです」

 ユナはしばらく黙っていた。

「それは、よいことですか」

 ユナが同じ問いを返してきた。

「わかりません」と栄司は答えた。「力として認められることと、管理されることは、同じ方向に動くことが多い」

「管理される、というのは、どういうことですか」

「自分が届くことで知ることを、自分だけのものとして持てなくなる、ということかもしれない」

 ユナはしばらく考えていた。

「それは、怖いですか」

「少し怖い」

「どうして」

 栄司は少し間を置いた。

「届くことが、何かのための道具になったとき、それがまだ本物かどうか、わからなくなるから」

 ユナはしばらく窓の外を見ていた。夕方の光が、庭の木を斜めに照らしていた。

「相良さん」

「うん」

「先週、私の人生は私のものだ、という話をしましたよね」

「しました」

「相良さんの能力も、相良さんのものですか」

 問いが来た。

 栄司は少し止まった。

「そう思っていたいです」

「思っていたい、ということは、そうではなくなるかもしれない、ということですか」

「そうかもしれない」

「でも、今日届いたことは、今日のものですよね」

 ユナの言葉が、静かに届いた。

 先週、自分がユナに言ったことだった。起きたことは誰にも奪えない。今日ユナがその本を読んで、その言葉を選んで、問いを持ってきたことは消えない。それはもう起きたことだから。

 ユナが今日、同じことを自分に言った。

「そうですね」

「だったら、今日相良さんが届いたことは、相良さんのものです」

 栄司はしばらく黙っていた。

「ユナに言われるとは思わなかった」

「先週、相良さんが言ったことです」

「覚えていたんですね」

「大切なことだと思ったので」

 その言葉が、胸の中で静かに動いた。

 しばらく沈黙があった。

 ユナは窓の外を見ていた。栄司は端末に記録を打ちながら、今日の久世との話を振り返っていた。

「相良さん」

「うん」

「知は力なり、という言葉を聞いたことがありますか」

 栄司は少し驚いた。

「久世さんが今日、その言葉を使っていました」

「そうなんですか」

「ユナはどこで聞きましたか」

「今日、記録室でまた本を読んでいました。フランシス・ベーコンという人の言葉だと書いてありました」

 栄司は少し止まった。今日、久世から同じ言葉を聞いたばかりだった。

「どこが気になりましたか」

「知ることが力になる、という意味ですよね。でも、私は知ることで、怖くなることがあります」

「どういうことを知って、怖くなりましたか」

 ユナはしばらく考えていた。

「私は設計されて生まれたということを、ずっと知っています。それは最初から知っていました。でも、今は、それが何を意味するのか、もっとよくわかるようになってきた気がします。わかるようになるほど、怖くなります」

「何が怖いですか」

「わかることで、選ばなければならないことが増えるから、だと思います」

 先週の話が戻ってきた。自由の刑、という言葉を、ユナはまだ持ち続けていた。

「知ることで、選ばなければならない重さが増す、ということですか」

「そう思います。知らなければ、怖くなかったかもしれないことが、知ることで怖くなる」

「でも、知ることをやめられますか」

 ユナはしばらく黙っていた。

「やめられないと思います」

「なぜですか」

「知りたいから、だと思います。怖くても、知りたい。それが私です」

 その言葉が、静かに届いた。

 設計されて生まれた存在が、怖くても知りたい、と言う。感情揺れ最小化という仕様書の言葉から、これほど遠い場所にある言葉だった。でも、それが本物だった。

「相良さん」

「うん」

「知は力なり、という言葉は、怖さも含んでいますか」

 問いが来た。

 栄司は少し考えた。

「含んでいると思う。知ることで力を持つ。でも、力を持つことは、それを使う責任を持つことでもある。その責任が、重さになることもある」

「怖さと力は、同じところから来ていますか」

「そうかもしれない」

「だったら、怖いということは、力があるということですか」

 栄司は少し止まった。

「そういう言い方もできると思う」

「私が怖いのは、私に力があるからですか」

「ユナが知ることをやめられない、と言った。それは力だと思う。怖くても知りたい、という力」

 ユナはしばらく窓の外を見ていた。

「相良さん」

「うん」

「今日、久世さんも知は力なり、という言葉を使ったんですよね」

「そうです」

「相良さんに向けて、ですか」

「そうです」

「どういう意味で使いましたか」

 栄司は少し間を置いた。

「私が届くことで知ることが、力として扱われるかもしれない、という話の中で使いました」

「それは、相良さんの力が、施設の力になるかもしれない、ということですか」

 鋭い問いだった。

「そういうことになるかもしれません」

「相良さんはそれを、どう思いますか」

 また問いが来た。

 栄司はしばらく考えた。

「まだ、わかっていません。ただ、久世さんが今日それを教えてくれたのは、私が知っておいた方がいいと思ったからだと思う。知ることで、自分で選べるように」

「知ることで、選べるようになる」

「そう思う」

「それが、知は力なり、ということですか」

「一つの意味として、そうだと思う」

 ユナはしばらく黙っていた。それから、少し顔を上げた。

「相良さん」

「うん」

「私も、知ることで選べるようになりたいです」

「今日もなっていると思う」

「どうして」

「怖くても知りたい、と言えた。それはユナが選んだことだから」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さんは、私が選ぶことを肯定してくれますね」

「本当のことを言っているつもりです」

「先週も同じことを言いましたね」

「同じことが本当だから」

 ユナは少し笑った。先週と同じ、静かな笑いだった。

 しばらく沈黙があった。

 栄司は端末に記録を打ちながら、ユナを見ていた。ユナは窓の外を見ていた。今日の光は穏やかだった。

「相良さん」

「うん」

「先週、私は自分の人生を持っていると思っていい、と言いました。今日は、怖くても知りたいということが力だと言いました。どちらも、私が私でいられる、ということですか」

「そうだと思う」

「設計されていても、ということですか」

「設計は出発点です。そこからどう動いていくかは、ユナが決めている。先週も言いました」

「覚えています」

 ユナはしばらく考えていた。

「相良さん」

「うん」

「知ることは、怖いけれど、やめられない。それが私だと言いました。でも、知ることで傷つくこともありますか」

 問いが少し変わった。

「あると思う」

「知らなければよかった、と思うことがありますか」

「ある」

「どんなときですか」

 栄司は少し間を置いた。

「届いたことが、どうにもできないことだったとき」

「届いたのに、どうにもできない、ということですか」

「そういうことがある」

「それは、辛いですか」

「辛い」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さん、私のことで、届いたのにどうにもできないことがありますか」

 問いが来た。

 栄司は少し止まった。

「あります」

「どんなことですか」

「次の評価がいつか来ること。その結果がどうなるかは、私には決められない。でも、それがユナにとって何を意味するかは、届いている」

 ユナはしばらく黙っていた。

「それでも、今日ここにいてくれますか」

「います」

「来週も」

「います」

 ユナは少し息を吐いた。大きくではなく、静かに。

「ありがとうございます」


 帰り道、栄司は今日のことを振り返っていた。

 久世が知は力なり、という言葉を使った。ユナも今日、同じ言葉を本棚で見つけていた。

 偶然かもしれなかった。でも、同じ日に、二人から同じ言葉が届いた。

 久世は、知ることが力になると同時に、管理の対象になり得ると言った。ユナは、知ることが怖いけれどやめられない、と言った。

 どちらも本物だった。そして、どちらも知は力なりという言葉の、別の側面だった。

 知ることは力だ。でも、知ることは重さでもある。知ることは怖さを生む。でも、怖さは力の証でもある。

 ユナが今日、怖くても知りたい、と言った。その言葉が、胸の中に残っていた。

 設計されて生まれた存在が、怖くても知りたい、と言う。それは設計の外側から来ている言葉だった。設計された特性が、その言葉を生んだかもしれない。でも、今日ユナがその言葉を選んだのは、ユナだった。

 電車に乗った。窓の外に夜の街が流れていった。

 自分の能力が制度に取り込まれるかもしれない。それは一つの変化だった。でも、今日届いたことは、今日のものだ。ユナが言った通り。起きたことは誰にも奪えない。

 自分がそれを言って、ユナがそれを覚えていて、今日自分に返してきた。

 それもまた、今日起きたことだった。

 次の評価は、いつか来る。それまでの間、ユナはここにいる。知りたいと思い続ける。怖くても、やめない。

 それがユナだった。

 設計は出発点にすぎない。そこからどう動くかは、ユナが決めている。今日のユナが、また証明していた。

 窓の外に夜の街が流れ続けていた。

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