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第16話「運命は性格である(ヘラクレイトス)」

 移送保留が決まってから、一週間が経っていた。


 施設の空気は、変わっていないようで、少し変わっていた。変わった、というより、何かが動き始めた、という感触だった。委員会の判断が出て、ユナの処遇が当面は維持されることになった。それがこの施設の日常にとって、どれほどの重みを持つのか、栄司にはまだよくわからなかった。

 業務は続いていた。記録を打ち、観察補助に入り、報告書を整える。特別なことは何もなかった。でも、先週あったことは、確かにあった。

 ユナが言った。私が人間だから、泣けたんですね。

 その言葉は、栄司の中にまだ残っていた。


 火曜日の朝、久世から端末に通知が届いた。

「今週中に一度、教育棟へ同行をお願いできますか。観察記録の精度向上を目的とした研修の一環です」

 教育棟、という言葉が、少し引っかかった。

 栄司がこれまで立ち入ったことのない棟だった。育成補助に入る職員は限られていて、栄司の担当は観察補助だった。教育棟には、設計児たちが類型ごとに分けられて、それぞれの課程を受けていた。ユナの棟とは別の場所だった。


 木曜日の午後、久世と一緒に教育棟へ向かった。

 廊下を歩きながら、久世が説明した。

「設計児たちの教育は、生まれる前に設定された特性に応じて分類されます。高知能型、身体強化型、感情制御型、それぞれ異なるプログラムを受けます」

「異なる、というのはどういうことですか」

「高知能型は主に論理・分析系の課題が中心です。身体強化型は体力・反応の訓練と、それに応じた学習環境。感情制御型は……」久世は少し間を置いた。「社会統合型の役割を想定していますから、感情認識と対人対応が中心になります」

「それは、ユナの課程もそうですか」

「そうです」

 栄司は少し考えた。

「感情を制御するための教育、ということですか。それとも、感情を持つ存在として育てるための教育ですか」

 久世は歩きながら、少しの間黙っていた。

「仕様書の目標は感情揺れ最小化です。教育の設計もそれに沿っています」

「でも」

「でも、という先は、まだ言えません」と久世は静かに言った。「今日は見てください。それだけで構いません」


 教育棟の廊下には、いくつかの観察窓がついていた。扉に小さな強化ガラスの窓があり、中の様子を外から確認できる構造になっていた。

 最初に通ったのは高知能型の課程室だった。

 栄司が窓から見ると、十代前半とおぼしき設計児が三名、端末の前に座っていた。それぞれが別々の課題をこなしている。一人は数式を解いていた。一人は何かの論文らしき文章を読んでいた。もう一人は担当者の問いに口頭で答えていた。

 届いていた。

 三人それぞれから、異なる感触が届いた。数式を解いている子から届くものは、集中と、その集中の裏にある静かな充足感だった。論文を読んでいる子は、興味と、時折混じる何かへの疑問だった。問いに答えている子は、正答を導き出したあとの短い満足が届いた。

 それは、人が感じるものと、同じ手触りだった。

「相良くん」

 久世に呼ばれて、栄司は窓から離れた。

「先に進みましょう」

 次の課程室は身体強化型だった。

 三名の設計児が、体力訓練のプログラムをこなしていた。反復動作、持久力の計測、反応速度のテスト。担当者がタイムを計りながら記録していた。

 外から見ると、彼らはよく似た動きをしていた。でも、届くものは違った。一人の子からは、疲労と、疲労の中にある何か。言葉にするなら、越えたい、という感触だった。別の子は、疲れているようで何も届かなかった。三人目の子は、今この瞬間だけに集中している、という、他のことが何も混じらない静かさだった。

 それもまた、人間的な感触だった。

 栄司は、窓の外に立ちながら、少し奇妙な感覚を持った。

 彼らは設計された特性を持って生まれ、その特性に合わせた教育を受けている。高知能型は知性を磨く。身体強化型は体を鍛える。感情制御型は感情を整える。生まれる前に方向が決まっていて、その後の人生も、そこから形づくられていく。

 それは、運命と呼んでいいものなのかもしれなかった。

 でも、課程室の中の彼らから届くものは、運命に従っている人間の感触ではなかった。ただ、今ここにいる人間の感触だった。

 廊下を歩きながら、栄司は久世に聞いた。

「彼らは、自分が設計されたことを知っていますか」

「知っています。出生時から教育の中で伝えられます」

「どう受け取っていますか」

「個人差があります。受け入れている子もいますし、疑問を持つ子もいます」

「疑問を持つことは、許容されていますか」

 久世は少し止まった。

「教育の観点からは、自己理解の一環として扱われます。否定はしません。ただ、その疑問がどこへ向かうかによって、対応が異なります」

「欠陥として扱われる場合がある、ということですか」

「評価によっては、そう分類されることもあります」

 正直な答えだった。

 栄司は歩きながら、ユナのことを思った。ユナも設計されていることを知っている。感情があることが私だから私なのか、という問いを持った。その問いが、評価の対象になった。そして今、移送保留という形で、当面はここにいることができている。

 問いを持つことが欠陥と見なされる可能性がある世界で、ユナは問いを持ち続けている。

 最後に通ったのは、栄司が担当していない感情制御型の課程室だった。

 窓から見ると、二名の設計児がいた。ユナよりも少し年下に見えた。七歳か八歳ほどだろうか。担当者が何かを話していて、二人はそれぞれ端末に向かっていた。

 届いた。

 一人の子から、静かな緊張が届いた。正しく答えなければ、という緊張だった。担当者の顔を時々うかがいながら、端末に入力していた。その緊張の裏に、もう一つ別のものが混じっていた。何かを確かめたい、という感触だった。

 もう一人の子からは、ほとんど何も届かなかった。端末に向かって、均等なペースで作業をこなしていた。感情揺れ最小化という目標が、すでにある程度実現されているように見えた。

 ただ、何も届かない子の方が、適切な状態だということになるのだろう、と栄司は思った。

 施設の仕様書では、感情揺れ最小化が目標だ。届かない子の方が、目標に近い。届く子の方が、評価でより多くの懸念が記録されるかもしれない。

 それが、正しいのかどうか。

 まだわからなかった。でも、今日窓の外から見た子たちが、それぞれ本物のものを持っていたことは、確かだった。


 帰り道、久世が言った。

「今日見てもらったことで、何か感じたことはありますか」

 栄司は少し考えた。

「全員、何かを感じていました。届く量は違いましたが、届かない子はいませんでした」

「そうですね」

「設計された特性によって、届くものの質が違います。でも、あるという意味では同じでした」

「相良くん」

「はい」

「今日の研修の目的を、あなたはどう受け取りましたか」

 栄司は少し止まった。

「ユナだけを見ていると、見えないものがある、ということですか」

「一つはそうです」と久世は言った。「もう一つは、設計児全体への理解が、観察精度に影響するということです。ユナが感情制御型として持っている特性は、他の類型とどう異なるのかを知ることで、記録の解釈が変わってきます」

「ユナから届くものが、設計による感触なのか、設計を超えた何かなのか、という問いですか」

「そこまでは言いません」と久世は静かに言った。「ただ、あなたの記録は、その問いを無視していない。それが今回の研修の理由の一つです」

 栄司は久世を見た。久世は前を向いていた。

「久世さんは、ユナが感情制御型として設計されたことが、ユナの運命だと思いますか」

 久世は少しの間、答えなかった。

「ヘラクレイトスの言葉を知っていますか」

「運命は性格である、という言葉ですか」

「そうです。性格が運命を決める、という解釈もできますし、その人の性格そのものが運命だ、という解釈もできます」

「ユナの場合はどちらですか」

「私には決められません」と久世は言った。「ただ、ユナの性格が設計通りでないとしたら、それはユナ自身の運命を、ユナが作っているということになります」

 その言葉は、静かに届いた。


 夕方、ユナの観察補助に入った。

 ユナは窓際に座って外を見ていた。栄司が入ると振り返り、「今日も来たんですね」と言った。

「うん」

「相良さん、今日はどこか行きましたか。いつもと少し顔が違います」

 栄司は少し驚いた。

「教育棟に行ってきた」

「教育棟、というのは」

「他の設計児たちが教育を受けている棟です」

 ユナはしばらく黙っていた。

「見ましたか。他の子たちを」

「窓から少し」

「どうでしたか」

 栄司は少し考えた。

「みんな、何かを感じていた」

「届きましたか」

「届きました」

 ユナは少し間を置いてから、また窓の外に目を向けた。

「私も、そこで教育を受けていたんですよね」

「そうです」

「私のことは、他の誰かの窓から見えていたかもしれないですね」

「そうかもしれない」

 ユナはしばらく黙っていた。

「相良さん」

「うん」

「設計されて生まれた、ということは、運命が最初から決まっている、ということですか」

 問いが来た。

 栄司は少し間を置いた。

「どうしてそれを聞くんですか」

「先週、私は泣きました。私が人間だから泣けたと、相良さんは言いました。でも、泣けるように設計されていたから泣けた、という言い方もできますよね。どちらが本当のことですか」

 また鋭い問いだった。

「両方本当のことかもしれない」と栄司は答えた。「設計されていることと、人間であることは、矛盾していない」

「どうして」

「運命は性格である、という言葉を聞いたことがありますか」

「ありません」

「ヘラクレイトスという人の言葉です。その人の性格が、その人の運命を作るという意味です。ユナが設計された特性を持っているとしても、ユナがそれをどう使うかは、ユナ自身が決めている」

「設計されているのに、自分で決められるんですか」

「今日、ユナに聞きたいと思ったことを、ユナは自分で選んで聞いた。それは誰かに決められたことじゃない」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さんも設計されていますか」

「いいえ。でも、生まれた場所や環境が、人を形づくります。それは設計と似ているかもしれない」

「似ているだけで、違いますか」

「違う部分もあるし、似ている部分もある」

「どちらが正しいかわかりますか」

「わからない」

 ユナはしばらく考えていた。

「相良さんは、私の運命は何だと思いますか」

「まだ決まっていない」と栄司は言った。「決まっていないから、今日ここにいる」

 ユナは少し頷いた。

「今日ここにいる、ということが、運命の一部ですか」

「そう思う」

 窓の外で、夕方の光が庭の木を照らしていた。移送保留になって一週間が経っていた。ユナはまだここにいた。

「相良さん」

「うん」

「先週、私は人間だから泣けたと言われました。今日、運命はまだ決まっていないと言われました。どちらが正しいですか」

「両方正しいと思う」

 ユナはしばらく窓の外を見ていた。それから、少しだけ息を吐いた。

「わかりました」

 それだけ言って、また外を見た。

 何かがわかった、というよりも、そのわからなさを自分の中に置いた、という様子だった。

 帰り道、栄司は今日のことを振り返っていた。

 教育棟で見た設計児たちが、届いていた。高知能型も、身体強化型も、感情制御型も。設計された特性は違っていた。でも、何かを感じているという意味では同じだった。

 運命は性格である。

 設計によって性格が決まり、性格によって運命が決まるなら、設計が運命を決めることになる。でも、ユナが今日聞いた問いは、設計されていなかった。ユナが自分で持って、自分で言葉にした。

 それは、ユナが自分の性格を作っている、ということだった。

 設計によって与えられた特性と、ユナ自身が問いを持つことで生まれる性格と、どちらが本当のユナなのか。おそらく、両方が本当のユナだった。そして、その両方が今日のユナを作っていた。

 電車に乗った。窓の外に夜の街が流れていった。

 設計された命が、設計を越えていく。それを欠陥と呼ぶ人もいる。それを発達と呼ぶ人もいる。栄司は後者だと書いた。委員会はその記録を採用して、移送を保留にした。

 次の評価は、いつか来る。その結果がどうなるかは、まだわからない。でも今日、ユナは問いを持った。その問いは、設計されていなかった。

 窓の外に夜の街が流れ続けていた。

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