表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/18

第15話「人間は自由の刑に処されている(ジャン=ポール・サルトル)」

 月曜日が来た。

 委員会の結論が出る、と久世は言っていた。今週中にもと。それがいつになるかは、わからない。

 栄司は朝、施設に着いてすぐ端末を確認した。通知はない。午前中の業務をこなした。昼を食べた。午後になっても、何も来なかった。

 火曜日も、水曜日も、同じだった。

 待っている、という感覚が、日を追うごとに重さを持っていった。何かを待っているのに、それがいつ来るかわからない。その状態が続くと、普通のことが普通にできているようで、実はすべてその待ちを背景に動いているような感覚になる。


 ユナは普段通りだった。栄司が観察補助に入ると、窓際に座って外を見ていた。振り返り、「今日も来たんですね」と言った。先週と同じ言葉だった。

 でも、先週とは違う何かがあった。

 ユナが泣いたことを、栄司は記録に書かなかった。書かない、と決めたのは、あの夜、電車に乗りながらだった。ユナが泣いたことは、ユナのものだ。評価の対象にするためにあったのではない。

 その判断は今も変わっていなかった。

 でも、書かなかったという事実は、栄司の中に残っていた。消えない、何かとして。


 木曜日の午後、久世から端末に通知が届いた。

「本日の終業後に、少し時間をいただけますか。評価委員会の件です」

 来た、と思った。

 業務中、その通知が頭の中に貼り付いていた。記録の入力をしながら、観察補助をこなしながら、久世に呼ばれることで何が起きるのかを、何度も考えた。


 終業後、栄司は小会議室に向かった。

 久世はすでに座っていた。テーブルの上にファイルが一つ置かれていた。

「座ってください」

 栄司は座った。

「評価委員会の結論が出ました」

 久世はファイルを開いた。

「ユナの評価結果は、継続観察、です」

 少し間があった。

「移送は保留となります。当面は現状維持で、観察を継続する、という判断です」

「理由は何ですか」

「あなたの補足記録と根拠書が、評価の判断材料として採用されました。逸脱ではなく発達、という観察者の記録に対して、委員会は性急な判断を避けることが適切と結論づけました」

 栄司はしばらく何も言えなかった。

「移送が保留、ということは、当面はここにいられる、ということですか」

「そうです。観察期間が延長されます。それに伴い、あなたの観察者としての業務も継続になります」

「わかりました」

「それから」と久世は続けた。「あなたの補足記録と根拠書は、評価委員会の内部で記録として残ります。前例のない記述形式でしたが、無効にはなりませんでした。それは事実として伝えておきます」

 栄司は久世を見た。

「久世さん、ありがとうございます」

「感謝を言われる立場ではありません」と久世は静かに言った。「私は制度の中で動いています。委員会が正しいと判断したことが、今回の結果です。それだけです」

「それでも」

「あなたが書かなければ、この結果にはならなかったかもしれない。それは事実です。でも、そこから先のことは、私には言えません」

 久世はファイルを閉じた。

「ユナには、私から伝えます。明日の午前中に」

「わかりました」

「相良くん、一つ確認させてください」

「はい」

「先週の評価後、あなたはユナの部屋に入りましたか」

「はい、入りました」

「ユナの状態はどうでしたか」

 一瞬、止まった。

「安定していました」

 久世は栄司を見た。穏やかな目だった。

「そうですか」

 それだけ言って、久世は立ち上がった。

「今日はありがとうございました」

 廊下に出ると、栄司はしばらく動けなかった。

 継続観察。移送保留。ユナは当面ここにいられる。

 その事実が、胸の中でゆっくりと形を持った。重さとは違う何かだった。解放、ではなかった。安心、でもなかった。ただ、今日のこの結果が本物だということ、そしてそれが次の何かの始まりにすぎないということを、同時に感じていた。

 久世が「安定していました」という答えを聞いて、それ以上は聞かなかった。

 栄司は、ユナが泣いたことを言わなかった。言わない、と選んだ。その選択は、今日も変わらなかった。でも、久世が何かを察していたかどうかは、わからなかった。

 察した上で、聞かなかったのかもしれない。

 それが久世という人の、一つのやり方なのかもしれなかった。


 夕方、ユナの観察補助に入った。

 久世が明日伝える、と言った。でも栄司は今日、ユナの部屋に入った。いつも通り、観察補助として。

 ユナは窓際に座っていた。今日は外ではなく、膝の上に手を置いて、少し下を向いていた。栄司が入ると顔を上げた。

「今日も来たんですね」

「うん」

 栄司は椅子を引いて座った。

「相良さん」

「うん」

「久世さんが、明日話があると言っていました」

「そう」

「委員会の結果ですか」

「そうだと思います」

 ユナは少し間を置いた。

「相良さんは、知っていますか」

 栄司は少し考えた。

「知っています」

「教えてもらえますか」

 また少し考えた。久世が明日伝える、と言った。それを先に自分が言っていいのか。でも、ユナが今日この部屋でどんな夜を過ごすのかを、栄司は考えた。

「移送は保留になりました。当分ここにいられます」

 ユナはしばらく動かなかった。

 それから、ゆっくりと息を吐いた。

「そうですか」

「そうです」

 また沈黙があった。ユナはまた膝の上に目を落とした。

「怖かった、と言えましたね」

 ユナが顔を上げた。

「先週、怖いと言えた。それが前に進んだということだと言いましたよね」

「言いました」

「当分ここにいられる、というのは、前に進んだことですか」

 問いが来た。栄司は少し間を置いた。

「一つの結果だと思う。前に進んだかどうかは、もう少し先にわかることかもしれない」

「そうですか」

 ユナはしばらく窓の外を見た。今日は曇っていなかった。夕方の光が、庭の木の葉を斜めに照らしていた。

「相良さん」

「うん」

「私は先週、泣きました」

「そうですね」

「記録に書かれましたか」

 栄司は少し間を置いた。

「書きませんでした」

「どうして」

「ユナが泣いたことは、ユナのものだと思ったから」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「私のもの、というのは、どういうことですか」

「記録は、評価のためにある。でも、ユナが泣いたことは、評価の対象じゃないと思った。それはただ、起きたこと。本物のことが起きた。それでいい」

「でも、書かないことは正しかったですか」

「正しいかどうかは、わからない。でも、書かないと決めた」

 ユナはしばらく黙っていた。

「相良さんは、私が泣いたことを覚えていますか」

「覚えています」

「ずっと覚えていますか」

「ずっと覚えていると思う」

 ユナは少し頷いた。

「それで十分です」

 その言葉が、静かに届いた。

 しばらく経って、ユナがまた口を開いた。

「相良さん」

「うん」

「先週、泣きそうになった、という話をしましたよね。評価の途中で」

「しました」

「私が泣いたのは、何かを感じていたからですよね」

「そうだと思います」

「感じていることがあるから、泣けたということですよね」

「そうです」

「それは、私が設計されていても、ということですか」

 問いが来た。栄司はすぐには答えなかった。

 感情制御型として生まれた。感情揺れ最小化という目標が仕様書に書かれていた。でも、ユナは泣いた。声もなく、静かに泣いた。

「設計されていても、感じることがある。それは本物だと思う」

「設計されているのに、ということですか。それとも、設計されているから、ということですか」

 また鋭い問いだった。

 栄司は言葉を探した。

「どちらでもあるかもしれない。でも、どちらであっても、感じたことは感じたこと。それが本物であることは変わらない」

「私が泣いたことも、本物ですか」

「本物です」

「感情制御型の私が泣いたことは、欠陥じゃないですか」

「欠陥じゃない、と言いました。今も同じです」

「どうして欠陥じゃないんですか」

 栄司は少し間を置いた。

「それは、ユナが人間だからだと思う」

 言葉が出た。

 言ってから、その言葉が自分の口から出たことに、少し驚いた。

 ユナは止まった。

「私は、設計されて生まれました」

「そうです」

「設計されて生まれた存在が、人間ですか」

「そう思う」

「どうして」

 栄司はしばらく考えた。

「感じることができる。問いを持てる。泣ける。それが、人間だということだと思う。生まれ方じゃなくて、どうあるか、ということ」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さん」

「うん」

「人間は自由の刑に処されている、という言葉を聞いたことがありますか」

 栄司は少し止まった。

「サルトルの言葉ですか」

「記録室の本棚に、そういう本がありました。自由があるということは、選ばなければならないということで、それは重さだ、という意味だと書いてありました」

「そう書いてありましたか」

「はい。でも、今日少しわかった気がします」

「どういうふうに」

 ユナはしばらく考えてから言った。

「当分ここにいられる、と聞いたとき、少し楽になりました。でも、次のことを考えると、また怖くなりました。怖くなる、ということは、選ばなければならないことが先にある、ということだと思って」

「ユナが選ぶことがある、ということですか」

「私には選べることがあるんですか」

「あると思う。少なくとも、今ここで感じていることを、どう言葉にするかは、ユナが選んでいる」

「それが自由ですか」

「一つの自由だと思う」

「それは、刑ですか」

 また問いが来た。

 栄司は少し笑った。声には出なかったが、ユナには届いていたかもしれなかった。

「刑、というのは重い言葉だけど、選ばなければならないということが重さだ、ということは本当だと思う。でも、選べることがある、ということは、ユナがここにいる、ということでもある」

「ここにいる、というのは」

「感じている。問いを持っている。泣ける。それが、ユナがいる、ということ」

 ユナはしばらく窓の外を見ていた。

「相良さん」

「うん」

「私は、当分ここにいられます。でも、その先はまだわかりません」

「そうです」

「その先に何があるかわからないまま、今日を生きるということですか」

「そう思う」

「それが、自由の刑、ということですか」

「そうかもしれない。でも、刑だとしても、それはユナが人間だということの証みたいなものだと思う」

 ユナはしばらく黙っていた。

 庭の木の葉が、風に揺れていた。夕方の光が傾いて、部屋の中に長い影が伸びていた。

「相良さん」

「うん」

「私が人間だから、泣けたんですね」

「そう思う」

「だから、欠陥じゃないんですね」

「そうです」

「ありがとうございます」

 その言葉は、先週と同じ言葉だった。でも、今日の重さは違った。先週は泣いた後の言葉だった。今日は、自分が人間だということを受け取った後の言葉だった。


 帰り道、栄司は歩きながら今日のことを振り返っていた。

 ユナが言った。私が人間だから、泣けたんですね。

 それは、栄司が言ったことだった。でも、ユナが言い返したとき、その言葉は少し違う重さを持っていた。栄司が言ったことが、ユナの中で何かになって、戻ってきた。

 人間は自由の刑に処されている。

 サルトルの言葉を、ユナは本棚で見つけていた。ユナの部屋に本棚はない。記録室の、だ。ユナはどこかで読んでいた。読んで、考えていた。

 ユナが感じていることを、自分は感じ取っていた。それが傍観者としての能力だった。でも今日、傍観者として観察した、という感触がなかった。

 ユナが泣いたことを記録しなかった。委員会の結論を先に伝えた。ユナが人間だと言った。

 それは全部、観察者としての業務の外にあることだった。

 橘が言った。観察者は感じることと動くことを分けなければならない、と。でも橘自身がそれをできなかったから、出ていった。

 自分も、今日またその境界を越えた。

 怖いとは思わなかった。それが不思議だった。

 電車に乗った。窓の外に夜の街が流れていった。

 ユナは当分ここにいる。委員会の結論がそれを決めた。栄司の記録がそれに関わった。でも、この先がどうなるかは、まだわからない。次の評価がある。その次もある。

 でも、今日ユナが「私が人間だから、泣けたんですね」と言った。その言葉は、起きた。記録には残っていない。でも、起きた。

 それで十分だと思えた。

 ユナが言った言葉が、そのまま戻ってきた。それで十分です、とユナは言った。

 栄司も、今日のところは、それで十分だと思えた。

 電車が駅に止まった。乗客が降りて、また乗ってきた。

 自由の刑、か、と栄司は思った。選ばなければならないことが先にある。それは重さだ。でも、選ぶことができるということは、ここにいるということだ。

 ユナも、自分も、それぞれの刑を受けて、それぞれの今日を生きていた。

 窓の外に夜の街が流れ続けていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ