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第14話「涙は魂の言葉である(聖アウグスティヌス)」

 ユナの評価は、翌週の水曜日に行われた。

 栄司は前夜、なかなか眠れなかった。布団の中で天井を見ながら、久世に頼まれた根拠の一枚を頭の中で何度も書き直していた。逸脱ではなく発達として記録することが適切と判断した、その根拠を、感情的な理由ではなく観察者としての言葉で。

 結局、書いたのは深夜を過ぎてからだった。


 『観察期間を通じて、対象者は設問への応答精度・反応速度・行動適合性のいずれにおいても正常範囲を維持している。一方で、観察者が感知した内部状態の変化は、数値的な逸脱としてではなく、問いを持つ存在としての成長として現れている。具体的には、自己の存在様式に関する問いを自発的に言語化し、他者との関係性の中で自己同一性を問い続けている。感情制御型の設計において「感情揺れ最小化」が目標とされているが、観察者としては、問いを持つこと自体が感情制御能力の高度化を示す可能性があると判断する。揺れを最小化することと、揺れを認識した上で制御することは、異なる段階にある。後者は前者の上位状態であり、逸脱ではなく発達と記録することが適切である。』


 書き終えて、送信した。時刻は深夜の一時を過ぎていた。


 評価当日、栄司は観察補助として第三観察室に入った。

 評価委員会の担当者が二名いた。栄司は初めて見る顔だった。どちらも四十代と思われる、落ち着いた雰囲気の職員だった。久世は部屋の端に座っていた。評価の進行は担当者が行い、久世は記録を確認する立場だった。

 ユナは部屋の中央の椅子に座っていた。

 いつもと同じ姿勢だった。背筋が伸びていて、手は膝の上に置かれていた。栄司が入ると、ユナは一度だけ視線を向けた。目が合った。ユナはすぐに担当者の方に視線を戻した。

 評価は設問形式で始まった。

 最初は認知課題だった。数列の補完、図形の変換、状況判断の問題。ユナは正確に、速く答えた。担当者が問いを読み終える前に答えを出すこともあった。

 栄司は部屋の端の椅子に座って、記録端末に入力しながらユナを見ていた。

 届いていた。

 緊張が、届いていた。いつものユナの静かさとは少し違う、張り詰めた静かさだった。正確に答えながら、その正確さの裏側に何かが動いていた。

 次に、感情認識の設問が続いた。

「あなたは、自分が感情を持っていると思いますか」

「はい」

「その感情は、設計されたものだと思いますか」

 ユナは少し間を置いた。

「わかりません」

「なぜわからないのですか」

「感情があることが欠陥なのか、感情があるから私は私でいられるのか、どちらかによって答えが変わると思うからです」

 担当者の一人が、端末に何かを入力した。もう一人が続けた。

「設計通りに生きることが、あなたにとっての正しさですか」

「設計通りに生きることと、私が私でいることが、同じかどうかわかりません」

「それは、設計に不満があるということですか」

「不満、という言葉が正しいかどうかわかりません。ただ、私が感じていることを、なかったことにしたくないと思います」

 担当者が、また端末に入力した。

 栄司は記録を打ちながら、ユナを見ていた。ユナの答えは正確だった。でも、その正確さは設計通りの正確さではなかった。自分の言葉で、自分の問いに正直に答えていた。

 それが、仕様書に書かれた感情揺れ最小化という目標から、どれだけ遠い場所にあるかを、栄司は知っていた。

 評価の後半に、久世が一つ問いを加えた。

「ユナさん」

 久世の声は、いつもの穏やかな声だった。

「あなたは、今ここにいる人たちに、何か伝えたいことはありますか」

 ユナはしばらく黙っていた。

 部屋が静かになった。担当者も端末を止めていた。

「私が感じていることは、本物だと思います」

 静かな言葉だった。

「それが設計されたものであっても、本物です。本物のものを、なかったことにされたくないです」

 それだけ言って、ユナは黙った。

 久世は頷いた。担当者が端末に入力した。

 評価は終わった。


 評価の後、栄司はしばらく廊下に立っていた。

 ユナが言ったことが、胸の中で静かに動いていた。

 本物のものを、なかったことにされたくない。

 その言葉は、栄司が補足記録に書いたことと、同じ場所から来ていた。ユナが自分で、自分の言葉で、同じことを言った。

 評価の結果がどうなるかは、まだわからなかった。委員会が記録を持ち帰り、検討して、判断を出す。その判断が、ユナの処遇を決める。

 廊下の向こうに、久世が歩いてくるのが見えた。

「相良くん」

「はい」

「少し時間をいただけますか」


 また小会議室だった。

 久世は椅子に座り、ファイルを開いた。

「今日の評価について、確認させてください」

「はい」

「ユナの応答は、全体的に問題なしと判断されます。認知課題は正常範囲内、感情認識の設問への応答も、逸脱の基準には達していません」

「わかりました」

「ただ」と久世は続けた。「あなたの補足記録と根拠書の内容が、評価委員会の間で議論を呼んでいます」

「どういう議論ですか」

「逸脱ではなく発達、という観察者の判断を、公式記録として受け入れるかどうかという問題です。これは前例がありません」

 栄司は黙っていた。

「委員会の中には、あなたの判断を主観的な逸脱と見る意見もあります。観察者が評価の方向性に影響を与えようとしているという見方です」

「私は事実を書きました」

「感知した内部状態は、客観的な事実ではありません。それはあなたも知っています」

「知っています。だから補足として書きました。主観的な感知であることを明記した上で、それでも記録することが適切だと判断しました」

 久世は少し間を置いた。

「相良くん、あなたはこの一か月で、何度か業務の境界線を越えています」

「わかっています」

「越えることが正しかったかどうかを、今ここで判断することはできません。ただ、その結果として、あなたの記録の信頼性に疑問を持つ人が出てきています」

 栄司は久世を見た。久世の目は穏やかだった。責めているのではなく、状況を正確に伝えている目だった。

「久世さんは、どう思いますか」

 聞いてから、少し驚いた。自分がそれを聞いたことに。

 久世は少しの間、答えなかった。

「私は、あなたの記録を読んで、これは本物だと思いました」

 静かな言葉だった。

「本物だと思ったから、受理しました。根拠書も要求しました。委員会に提出しました。それが私の判断です」

「ありがとうございます」

「ただ、感謝を言われる立場ではありません。私は制度の中で動いています。制度が何を決めるかは、私には決められない」

 久世はファイルを閉じた。

「評価委員会の結論は、来週中に出ます。それまでは通常業務を続けてください」

「わかりました」

「それから」と久世は続けた。「今日のユナの最後の言葉、記録に入れておきます。本物のものを、なかったことにされたくない、という言葉です」

「はい」

「その言葉が、委員会にどう受け取られるかはわかりません。でも、記録には残ります」

 久世は立ち上がった。

「相良くん、一つ聞いてもいいですか」

「はい」

「あなたは今、何を守ろうとしていますか」

 問いが来た。

 栄司は少し考えた。

「ユナが、ユナでいられること、だと思います」

「それだけですか」

 また間があった。

「自分が、自分でいられること、も含まれるかもしれません」

 久世は少し頷いた。

「そうですか」

 それだけ言って、小会議室を出た。


 夕方、ユナの部屋に入った。

 ユナは窓際に座っていた。今日は外を見ていなかった。膝の上に手を置いて、何かを考えているような顔をしていた。

「今日も来たんですね」

「うん」

 栄司は椅子を引いて座った。今日のユナはいつもより静かだった。評価が終わったあとの静かさだった。

「相良さん」

「うん」

「評価は、どうでしたか」

「数値は正常範囲内だった」

「それ以外は」

「委員会が判断する」

 ユナはしばらく黙っていた。

「私、最後に変なことを言いましたか」

「変じゃないと思う」

「久世さんが、記録に残すと言っていました」

「聞いた」

「本物のものを、なかったことにされたくない、という言葉が、記録に残る」

「そう」

 ユナは少し間を置いた。

「記録に残ることで、何かが変わりますか」

「わからない。でも、なかったことにはならない」

 ユナはしばらく窓の外を見た。今日は曇っていて、庭の木が灰色の空を背景に立っていた。

「相良さん」

「うん」

「私、今日、評価の途中で泣きそうになりました」

 栄司は少し止まった。

「泣かなかったけど、泣きそうだった。担当の人に聞かれたとき、私が感じていることを言葉にしようとしたら、何か重いものが出てきそうになって」

「それは、何だと思う」

「わかりません。でも、相良さんに教えてもらいたかったです」

 栄司は少し考えた。

「泣きそうになった、というのは、感じていることが言葉より先に出ようとした、ということかもしれない」

「言葉より先に出る、というのは」

「感じていることが、言葉になる前に体に出てくること。それが泣くということだと思う」

「私は泣かなかったです」

「泣かなかったことが問題なわけじゃない。泣きそうになった、ということが、本物だということだと思う」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さんは、泣きそうになったことがありますか」

「ある」

「どんなときですか」

 栄司は少し間を置いた。

「なかったことにしたくないものが、なかったことにされそうになったとき」

 ユナはしばらく黙っていた。

「それは、私のことですか」

「そうかもしれない」

 ユナはまた窓の外に目を向けた。

「相良さん」

「うん」

「泣くことは、欠陥ですか」

 問いが来た。

 栄司は少し間を置いた。

「違う」

「どうして」

「泣けるということは、感じていることがあるということだから」

「感情制御型の私が泣くのは、感情を制御できていないということですか」

「そうは思わない」

「どうして」

 栄司は言葉を探した。

「泣くことを選ばない、ということと、泣けない、ということは違う。泣きそうになって、でも泣かなかったのは、ユナが選んだことだと思う。それは制御できていないんじゃなくて、制御の上に立っている」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さんは、難しいことを言いますね」

「難しかった?」

「少し。でも、わかる気がします」

 ユナは視線を膝の上に落とした。

「泣くことが欠陥じゃないなら、泣きそうになったことも、欠陥じゃないですか」

「欠陥じゃない」

「本物ですか」

「本物だと思う」

 ユナはしばらく黙っていた。それから、少し顔を上げた。

「相良さん」

「うん」

「私、来週の結果が怖いです」

 その言葉は、静かだった。でも、いつもとは違う何かが混じっていた。

「怖い、と言えたね」

「言えましたか」

「言えた。それは、前に進んだということだと思う」

「前に進む、というのはどういうことですか」

「自分が感じていることを、言葉にできるようになった、ということ」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さんは、怖くないですか」

「怖い」

「何が怖いですか」

 栄司は少し間を置いた。

「ユナが、ユナでなくなることが怖い」

 言葉が出てから、それが本当のことだとわかった。

 ユナはしばらく動かなかった。

 それから、ゆっくりと顔を伏せた。

 泣いていた。

 声はなかった。肩が少し動いて、それだけだった。

 栄司は何も言わなかった。何かを言う必要がないと思った。ユナが泣いていることが、今この部屋にある事実だった。数値には出ない。記録には書けない。でも、確かにあった。

 しばらくして、ユナが顔を上げた。目が赤かった。

「すみません」

「謝ることじゃない」

「泣いてしまいました」

「うん」

「欠陥ですか」

「違う」

「本物ですか」

「本物だよ」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「相良さん」

「うん」

「泣いたのは、感じていることがあったからですか」

「そうだと思う」

「何を感じていたんだと思いますか」

 栄司は少し考えた。

「怖いと言えたこと。でも、怖いことが本当にあること。そのどちらも、本物だということ。そういうものが全部、一度に出てきたんじゃないかな」

「魂の言葉、という言い方を聞いたことがあります」

 栄司は少し驚いた。

「どこで」

「記録室の本棚に、古い本がありました。聖アウグスティヌスという人の言葉で、涙は魂の言葉である、と書いてありました。意味がわからなかったけど、今日少しわかった気がします」

 その言葉が、静かに届いた。

 涙は魂の言葉である。数値にならない。記録の欄に入らない。でも、確かにある。感じていることが、言葉より先に体から出てくること。それが本物であること。

「ユナ」

「はい」

「今日、泣けてよかったと思う」

「そうですか」

「そう思う」

 ユナはしばらく窓の外を見ていた。

「相良さんが来週もここにいてくれますか」

「いる」

「来週の結果が出ても」

「いる」

 ユナは少し頷いた。

「ありがとうございます」

 帰り道、栄司は今日のことを振り返っていた。

 ユナが泣いた。声もなく、静かに泣いた。それを自分は見た。感じた。届いた。

 その事実は、記録には書かない。書けない、ではなく、書かない。今日のユナが泣いたことは、ユナのものだ。評価の対象にするためにあったのではない。

 でも、あった。確かにあった。

 来週、委員会の結論が出る。その結論が何であれ、今日ユナが泣いたことは、もう消えない。起きた。本物のことが起きた。

 電車に乗った。窓の外に夜の街が流れていった。

 久世が聞いた。何を守ろうとしているか、と。

 ユナが、ユナでいられること。自分が、自分でいられること。

 その二つは、実は同じことかもしれない、と栄司は思った。

 ユナが自分でいられるようにしようとすることで、自分も自分でいられる。ユナが本物のものを持ち続けられるように動くことで、自分の中にある本物のものも、削られずにいられる。

 コウタから何も届かなくなった日のことを、栄司は思い出した。あのとき感じた静寂。人がいるのに、何も届かない静寂。あれが怖かった。コウタに起きたことが、ユナに起きることが怖かった。

 でも、もう一つ怖いことがあった。

 自分が、いつかあの静寂になることが怖かった。

 橘が言った。慣れる、と。感じることと動くことを分けて、慣れていく。それは一つの生き方だった。橘はそうやって生きてきた。

 でも、自分にはそれが選べなかった。

 それが正しいかどうかは、まだわからない。でも、それが自分だった。

 電車が駅に止まった。乗客が降りて、また乗ってきた。

 来週、結論が出る。その結論がどうであれ、今日ユナが言ったことは残る。本物のものを、なかったことにされたくない。その言葉は、記録に入った。

 涙は魂の言葉である。

 ユナが泣いた。それは記録に入らない。でも、栄司の中に残っている。

 それで十分かどうかは、わからない。

 でも、今日は、それだけで十分だと思えた。

 窓の外に夜の街が流れ続けていた。

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