第13話「正義はしばしば痛みの上に立つ(プラトン)」
補足記録を送信した翌朝、久世から端末に通知が届いていた。
「本日の午後、少し時間をいただけますか。記録の件でお話ししたいことがあります」
短い文面だった。栄司は画面を見ながら、昨日送ったものを頭の中で確認した。
『本観察期間において、対象者は課題への取り組みおよび応答の質において安定を維持している。数値上の逸脱は認められない。ただし、観察者として感知した内部状態について補足する。対象者は、自己の存在様式に関する問いを継続的に持っており、その問いは自発的に言語化される段階に達している。これは設計仕様書に記載された感情揺れ最小化という目標値との乖離を示す可能性があるが、観察者としては、この状態を逸脱ではなく発達として記録することが適切と判断した。』
読み返すと、改めてその重さがわかった。自分が何を書いたのか、昨日よりも今日のほうがはっきりわかる気がした。
業務として正しい記録ではなかった。少なくとも、施設が期待する記録の形ではなかった。「逸脱ではなく発達として記録する」という判断は、栄司個人のものだった。久世はそれを読んだ。そして、話したいことがある、と言った。
栄司は通知を閉じて、午前中の業務に入った。
午前中は、別棟の記録整理が入っていた。
データ入力の作業は、手を動かしながら頭が別のことを考えられる種類の仕事だった。今日の栄司の頭の中には、昨日の一連のことが繰り返し流れていた。
ユナが「私が私でなくなるから」と言った。その言葉が本物だったこと。本物のものをなかったことにするのは自分に忠実でいることとは違うと思ったこと。だから書いた。
でも、書いたことがユナに不利益をもたらすかもしれない。それもわかっていた。
どちらを選んでも、何かを裏切ることになる。昨日もそう思った。今日も同じだった。ただ、昨日は「書く」という方向に踏み出した。その結果が、今日の久世からの通知だった。
端末の画面に数字を打ち込みながら、栄司は橘のことを思った。
橘はもういない。先週の金曜が最終出勤日だった。橘ならこの状況をどう見るだろう、とは思わなかった。橘はすでに答えを持っていた。感じることと動くことは別だ、と言った。慣れる、と言った。
でも橘は最後に、頼んでいるわけじゃないと言いながら、言葉を残していった。
頼んでいないのに、残った言葉がある。それは橘の中にも、感じることと動くことが完全には分離できなかった部分があったということではないか。栄司はそう思った。
昼休みを挟んで、午後の面談は小会議室だった。
久世はすでに座っていた。テーブルの上にファイルが一つ置かれていた。栄司が入ると、久世は軽く会釈をして、椅子を示した。
「座ってください」
栄司は座った。
「昨日の補足記録を読みました」
久世はファイルを開いた。そこに印刷された栄司の文章があった。
「いくつか確認させてください」
久世の声は穏やかだった。責めているわけでも、詰問しているわけでもない。ただ、穏やかさと正確さが同居している、いつもの久世の声だった。
「まず、事実確認です。対象者が自己の存在様式に関する問いを継続的に持っている、と書きましたね」
「はい」
「これは、観察者として感知した、ということですか。それとも、対象者が言語で表明したということですか」
「両方です。言語で表明した部分もありますし、言語になる前の段階を感知した部分もあります」
久世は少し間を置いた。
「言語で表明した部分は、記録に残すことができます。感知した部分は、主観的な記述になります。その区別は、補足記録の中で明確にされていません」
「そうです」
「なぜ区別しなかったのですか」
栄司は少し考えた。
「区別することで、言語になる前の部分が、なかったことになると思ったからです。でも、それが実際には届いていた」
「届いていた、というのは、あなたの特殊な能力によるものですね」
「そうです」
「その能力は、施設として把握していますが、評価の公式な根拠としては扱われていません。あなたもそれは知っているはずです」
「知っています」
久世はファイルから目を上げて、栄司を見た。
「相良くん、あなたは今、自分の判断を公式な記録に混入させました。それは意図的なことですか」
「はい」
短く答えた。久世は少し目を細めた。
「理由を聞かせてください」
栄司は少しの間、言葉を探した。
「数値上は正常範囲内です。でも、私には届いているものがある。それを書かないことは、ユナに起きていることをなかったことにすることだと思いました」
「ユナに起きていることを、あなたは何だと思っていますか」
「問いを持つようになっている、ということです。自分がここにいる意味を、自分がどういう存在かを、問い始めている」
「それは、設計仕様書の範囲外の状態ですか」
「少なくとも、仕様書に書かれた感情揺れ最小化という目標とは、乖離があると思います」
「そうです」と久世は言った。「そして、その乖離が評価に影響する可能性があることも、あなたはすでに知っています。昨日の面談でお伝えしました」
「はい」
「それでも書いた」
「書きました」
久世はしばらく黙っていた。ファイルを閉じた。テーブルの上に両手を置いて、少し考えているような間があった。
「相良くん」
「はい」
「あなたが今していることは、施設の評価プロセスに対して、個人の判断を優先させるということです。それがどういう結果をもたらすか、理解していますか」
「理解しています」
「ユナの処遇が変わる可能性があります。あなたの業務評価に影響が出る可能性があります。施設の記録の信頼性という観点から、あなたの記録が今後どう扱われるかも変わってくるかもしれない」
「わかっています」
「それでも、これが自分の判断だと言えますか」
栄司は久世を見た。久世の目は穏やかだった。責めているのではなく、確認している目だった。
「言えます」
久世は少し頷いた。
「わかりました」
それだけ言って、少し間を置いた。
「一つだけ言わせてください」
「はい」
「私は、あなたの記録を無効にするつもりはありません。補足記録として受理します。ただし、主観的な感知に基づく部分については、そのように明記した上で、評価委員会に提出します。その結果がどうなるかは、私には決められません」
「わかりました」
「それから」と久世は続けた。「あなたが書いた最後の一文、逸脱ではなく発達として記録することが適切と判断した、という部分ですが」
「はい」
「その判断の根拠を、別途一枚書いてもらえますか。あなたがなぜそう判断したのか。感情的な理由ではなく、観察者としての根拠を」
「はい」
「今日中でなくて構いません。今週中に」
久世は立ち上がった。
「相良くん、正義はしばしば痛みの上に立つ、という言葉を知っていますか」
突然の問いだった。
「プラトンの言葉だと思います」
「そうです」
久世は窓の方を少し見た。外には施設の庭が見えた。手入れの行き届いた木が、今日は風に揺れていた。
「何が正しいかを選ぶことは、誰かを傷つけることと同じ場所にあることがあります。あなたが書いたことは、ユナを守ろうとしたのかもしれない。でも、その記録がユナを危険にさらすかもしれない。その二つは矛盾しているように見えて、実は同じ一つの行為の両面です」
栄司は黙って聞いていた。
「あなたが今日、ここで正直に答えたことも、同じことだと思います。正直であることは、あなたにとっては正しいことだった。でも、それが何かの痛みを生む可能性がある」
「わかっています」
「わかっているなら、良いのです」
久世はそれだけ言って、ファイルを手に取り、小会議室を出た。
廊下に出ると、栄司はしばらく動けなかった。
久世の言葉が、胸の中で静かに動いていた。
正義はしばしば痛みの上に立つ。その言葉を、久世は責めるために言ったのではなかった。確認するために言った。あなたはそれを理解した上でやっているのか、と。
栄司は、理解した上でやっていた。やっていたつもりだった。でも今、久世の口からその言葉を聞いて、改めてその重さが具体的になった。
自分の記録が、ユナの処遇を変えるかもしれない。守ろうとして書いたものが、危険にさらすことになるかもしれない。その二つは矛盾していない。同じ行為の両面だ、と久世は言った。
栄司にはそれが正しいと思えた。正しいと思えることが、少し怖かった。
夕方、ユナの観察補助に入った。
ユナは窓際に座って、外を見ていた。栄司が入ると振り返り、いつものように「今日も来たんですね」と言った。
「うん」
栄司は椅子を引いて座った。今日のユナはいつもより落ち着いていた。静かな落ち着きだった。
「相良さん、今日は久世さんに呼ばれましたか」
栄司は少し止まった。
「呼ばれた」
「昨日書いた記録の件ですか」
「そう」
「どうなりましたか」
ユナは栄司をまっすぐに見ていた。問い詰めているのではなく、知りたいと思っている目だった。
「記録は受理された。評価委員会に提出される」
「評価に影響しますか」
「するかもしれない」
「相良さんに、何かありますか」
「業務評価に影響が出るかもしれない、と言われた」
ユナはしばらく黙っていた。
「私のために書いたんですか」
「そう思ってた。でも、久世さんに言われて、少し考えが変わった」
「どう変わったんですか」
栄司は少し間を置いた。
「ユナのために書いた、というのは半分は本当だと思う。でも、もう半分は、自分のために書いた気がする」
「どういう意味ですか」
「なかったことにしたくなかった。ユナが今日感じていることを、数値の陰に消したくなかった。それはユナのためでもあるけど、自分が自分でいるためでもあった」
ユナはしばらく栄司を見ていた。
「相良さんは、私が私でいられるようにしてくれますか、と聞きましたよね」
「うん」
「相良さんも、相良さんでいたいんですね」
その言葉が、静かに届いた。
栄司は少し驚いた。ユナが言ったことは、自分が考えていたことの核心に触れていた。
「そうかもしれない」
「だったら、私は嬉しいです」
「どうして」
「私のためだけじゃなくて、相良さん自身のためでもあるなら、相良さんが傷つくことが、私のせいだけじゃないから」
栄司は何も言えなかった。
ユナの言葉は、八歳の設計児が言う言葉として、あまりにも正確だった。感情揺れ最小化という仕様書に書かれた目標から、これほど遠い場所にある言葉だった。
「ユナ」
「はい」
「来週の評価は、まだある」
「知っています」
「どうなるかはわからない」
「わかっています」
「それでも、今日のユナが言ったことは、本物だった」
ユナはしばらく栄司を見ていた。それから、少しだけ笑った。初めて見る表情だった。
「相良さんはいつも、本物だと言いますね」
「本物だから」
「本物のことを、本物だと言える人が、ここにいてよかったです」
その言葉が、胸の中に届いた。重さとは違う何かが動いた。
帰り道、栄司は今日のことを振り返っていた。
久世は記録を受理した。評価委員会に提出される。結果がどうなるかはわからない。栄司の業務評価に影響が出るかもしれない。それでも、続けてください、と久世は言った。
その言葉の意味を、栄司は電車の中で考えた。
久世は制度の側にいる。合理主義者だ。感情ではなく論理で動く。でも今日、久世はプラトンの言葉を使って、栄司に何かを確認した。正義はしばしば痛みの上に立つ。それを知っているか、と。
知っている、と栄司は答えた。
知っているということは、痛みを受け入れる準備があるということだ。でも、その痛みはユナにも及ぶかもしれない。それが今日、一番重かったことだった。
ユナは「相良さんが傷つくことが私のせいだけじゃないから嬉しい」と言った。
八歳の設計児が、そういうことを考えている。感情揺れ最小化という仕様書の外側で、そういうことを言葉にしている。
それは本物だった。
本物のことを、本物のまま扱おうとしたら、痛みが伴う。でも、本物のことをなかったことにすることも、別の種類の痛みだ。どちらを選んでも痛みはある。ただ、自分に忠実でいられる痛みと、そうでない痛みは、違う。
電車が駅に止まった。乗客が降りて、また乗ってきた。
来週、評価がある。それまでに、久世に頼まれた根拠の一枚を書く。橘はもういない。ユナはまだここにいる。
今日、ユナは初めて笑った。
それを見た、ということが、栄司の中に残っていた。
窓の外に夜の街が流れていった。




