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第12話「汝自身に忠実であれ(ウィリアム・シェイクスピア)」

 ユナの評価が、来週に迫っていた。

 栄司がそれを正式に知ったのは、月曜日の朝、久世からの端末通知だった。「第十二週評価について確認事項があります。本日の午後に時間を作ってください」とだけ書かれていた。

 橘はすでにいない。先週の金曜が最終出勤日だった。廊下ですれ違う機会も、給湯室で珈琲を受け取る機会も、もうなかった。橘の席には別の職員が座り、引き継ぎ書類が積まれていた。施設はそれを、何事もなかったように吸収していた。

 栄司は午前中の業務を終えて、記録端末に向かった。

 ユナの評価記録が画面に並んでいた。感情認識スコア、応答適正指数、行動逸脱係数。数値はどれも正常範囲内だった。でも、その正常という言葉が、今は以前と違う意味を持って見えた。

 正常、というのは、設計通りだということだ。

 ユナが今、設計通りではない何かを持っていることを、栄司は知っていた。


 午後の久世との面談は、小会議室だった。

「来週の評価についてです」と久世は言った。「相良くんには引き続き観察補助として入っていただきますが、今回はその記録が正式な評価報告書の一部になります」

「わかりました」

「ユナの状態について、現時点でどう見ていますか」

 栄司は少し間を置いた。

「外見上は安定しています。課題への取り組みも、応答の質も、変わっていません」

「感じ取っていることは、ありますか」

 久世は真っすぐに栄司を見ていた。

「あります」

「どういうことを」

 栄司は答えを選んだ。正直に言うこと、業務として言えること、言うべきでないこと。その三つが頭の中で動いていた。

「ユナは、問いを持っています。自分がここにいることについての問いです。それは数値には出てきません」

「設計仕様書には、感情揺れ最小化とあります」と久世は言った。「ですが、あなたが感じ取っていることと、記録上の数値に乖離があるなら、それは把握しておく必要があります」

「はい」

「今回の評価記録に、感じ取ったことを言語化して加えてもらえますか。これまでと同じ形式で構いません」

 栄司は黙っていた。

「相良くん」

「はい」

「何か迷っていますか」

 栄司は久世を見た。久世の目は穏やかだった。でも、穏やかであることと、何かを見透かしていることは、この人の場合、同じだった。

「評価記録に書いたことが、ユナの処遇に直接影響しますか」

「影響します。それが記録の目的ですから」

「どういう影響ですか」

「数値が正常範囲内であれば、予定通りの移送が進みます。逸脱の可能性が記録されれば、再調整の検討対象になります」

 栄司は少し間を置いた。

「再調整になれば、コウタと同じことが起きますか」

 久世は少し止まった。

「コウタの件は、感情逸脱の評価値が基準を超えたための手続きです。ユナの場合は現時点で数値は正常範囲内です。あなたが記録に書くことは、補足情報として扱われます」

「補足情報が、評価を変えることはありますか」

「あり得ます」

 正直な答えだった。だから余計に、重かった。

 面談を終えて廊下に出ると、栄司はしばらく動けなかった。

 書くか、書かないか。

 ユナが問いを持っていることを記録に書けば、それが評価に影響するかもしれない。書かなければ、数値だけが残る。正常範囲内の数値が並んだ記録が残る。

 どちらも、ユナのためになるとは言い切れなかった。

 書かないことは、ユナの内側にあるものをなかったことにする、ということだ。でも書くことは、ユナを危険にさらすかもしれない。

 どちらを選んでも、何かを裏切ることになる。

 栄司は廊下の端の窓から外を見た。施設の庭に、橘がいつも眺めていた木が立っていた。今日は風がなく、枝が動いていなかった。

 橘ならどうしただろう、と思った。

 橘は「感じることと動くことは別だ」と言った。「慣れる」と言った。でも、慣れることができなかったのは、橘自身がよく知っていたはずだった。だから最後に、あの言葉を残していった。

 君がいなくなった後、ユナのことを気にかけられる人間は、この施設の中では君しかいなくなる。

 頼んでいるわけじゃない、と橘は言った。でも、言葉は残った。


 夕方、ユナの観察補助に入った。

 ユナは窓際に座って、外を見ていた。栄司が入ると振り返り、「今日も来たんですね」と言った。

「うん」

 栄司は椅子を引いて座った。今日のユナはいつもより静かだった。静かさの質が、いつもと少し違った。

「相良さん」

「うん」

「来週、評価があるんですよね」

「そう」

「どういうことをするんですか」

 栄司は少し考えた。

「いくつかの問いに答えてもらう。それを記録する。数値を見て、次のステップを判断する」

「次のステップ、というのは」

「移送の準備が進む、ということです」

 ユナは少し間を置いた。

「移送先で、私はどうなりますか」

「設計された役割に従って、働くことになります」

「設計された役割」

 ユナは繰り返した。その言葉を、自分の中で転がしているような間があった。

「私は、感情制御型として生まれたんですよね」

「そうです」

「感情を制御するために生まれた、ということですか。それとも、感情を制御できる存在として生まれた、ということですか」

 問いが、また鋭くなった。

 栄司は止まった。この問いの違いは、小さいようで大きかった。制御するために生まれたなら、感情は目的に反するものだ。制御できる存在として生まれたなら、感情はその能力の一部だ。

「どちらだと思いますか」と栄司は聞いた。

「わかりません。でも、感情があることが欠陥なのか、感情があるから私は私でいられるのか、どちらかによって、全然違う話になると思って」

 栄司は黙っていた。

「相良さんは、どちらだと思いますか」

 今度は問いが栄司に向かってきた。

 栄司は少し間を置いた。正しい答えを探した。施設として正しい答えと、自分が本当に思うことと、どちらを言うべきかを考えた。でも、ユナに対して二つの答えを使い分けることが、自分にはできなかった。

「後者だと思う」

「感情があるから、私は私でいられる、ということですか」

「そう思う」

 ユナはしばらく栄司を見ていた。

「でも、評価でそれが問題だと判断されたら、どうなりますか」

「……再調整の対象になるかもしれない」

 栄司は正直に言った。言ってから、言うべきだったのかどうか、少しだけ迷った。でも、ユナに嘘をつくことが自分にはできなかった。それはもうずっと前から決まっていた。

「再調整って、コウタがなったやつですよね」

「そうです」

「コウタは、戻ってきたけど、相良さんには何も届かなくなった」

「そうです」

 ユナは少し間を置いた。窓の外に目を向けた。庭の木が見えた。

「私は、再調整になりたくないです」

 静かな言葉だった。怖がっているわけでも、怒っているわけでもなかった。ただ、そう思う、と言った。

「なぜですか」

「私が私でなくなるから」

 栄司は胸の中で何かが動くのを感じた。届いた。ユナの言葉が、数値ではなく、言葉として届いた。

「相良さんは、私が私でいられるようにしてくれますか」

 問いが来た。

 栄司は止まった。

 その問いに、正直に答えることは、自分が何かを選ぶことだった。業務として正しい答えは、「施設の判断に従うことが最善です」だった。でも、ユナが聞いているのは、そういうことではなかった。

「できることをやってみます」

 言葉が出た。

 それが何を意味するのか、まだ自分でも完全にはわかっていなかった。でも、言った。

 ユナはしばらく栄司を見ていた。それから、少し頷いた。

「ありがとうございます」


 帰り道、栄司は評価記録のことを考えていた。

 書くか、書かないか。

 ユナが「私が私でなくなるから」と言った。その言葉は本物だった。設計通りかもしれない。感情認識プロセスの一段階かもしれない。でも、本物だった。

 その本物を、記録に書けば、評価に影響するかもしれない。

 書かなければ、なかったことになる。

 どちらが正しいのか、まだわからなかった。

 ただ、一つだけはっきりしていることがあった。

 ユナは「私が私でいられるようにしてくれますか」と聞いた。栄司は「できることをやってみます」と答えた。その言葉は、記録には書かない。書けない、ではなく、書かない。それは自分の選択だった。

 でも、評価記録をどうするか、という問いは残っていた。

 電車に乗った。窓の外に夜の街が流れていった。

 シェイクスピアの言葉を、栄司はどこかで読んだことがあった。正確な文脈は覚えていないが、こういう意味だったと思う。汝自身に忠実であれ、そうすれば夜が昼に続くように、他の誰に対しても偽ることができなくなる。

 自分自身に忠実であること。

 それは、業務として正しいことと、自分が本当に思うことが一致しないとき、どちらを選ぶか、ということだった。

 栄司は今まで、業務として正しいことを選んできた。特記事項なし、と書いてきた。懸念はない、と言ってきた。でも、そのたびに何かが削られていく感触があった。

 ユナが「私が私でなくなるから」と言った。

 その言葉を聞いて、栄司は自分のことを考えた。

 自分も、このまま「特記事項なし」を書き続けていたら、いつか何も届かなくなるのかもしれない。コウタが再調整を受けて戻ってきたとき、何も届かなくなっていたように。

 それは、削られた、ということだった。

 自分は、削られたくない。

 その思いが、今日初めてはっきりとした形を持った。

 翌朝、栄司は出勤してすぐ、端末を開いた。

 評価記録の補足欄が空白のまま残っていた。

 しばらく画面を見ていた。

 書けることと、書くべきことは、同じではない。書いたことが何をもたらすかは、書く前にはわからない。でも、書かないことは、なかったことにする、ということだ。

 栄司は少しの間、目を閉じた。

 ユナの声が戻ってきた。私は、再調整になりたくないです。私が私でなくなるから。

 それは本物だった。

 本物のことを、なかったことにする自分に、自分は忠実でいられるか。

 栄司は文字を打ち始めた。


 『本観察期間において、対象者は課題への取り組みおよび応答の質において安定を維持している。数値上の逸脱は認められない。ただし、観察者として感知した内部状態について補足する。対象者は、自己の存在様式に関する問いを継続的に持っており、その問いは自発的に言語化される段階に達している。具体的には、「感情があることが欠陥なのか、感情があるから自分は自分でいられるのか」という問いを発し、自己同一性に関する認識を持ち始めていることが確認された。これは設計仕様書に記載された感情揺れ最小化という目標値との乖離を示す可能性があるが、観察者としては、この状態を逸脱ではなく発達として記録することが適切と判断した。』


 書き終えて、栄司は画面を見た。

 これが正しいのかどうか、わからなかった。評価に影響するかもしれない。久世に呼ばれるかもしれない。ユナに不利益をもたらすかもしれない。

 でも、書かないことは、ユナが今日発した言葉を、数値の陰に消すことだった。

 発達として記録する。それが自分の判断だった。逸脱ではなく、発達として。

 栄司は記録を保存した。送信ボタンの前で、少しだけ止まった。

 窓の外で、施設の朝が動き始めていた。木が見えた。今日は少し風があって、枝が揺れていた。

 橘はもういない。でも、橘の言葉は残っている。久世は正しい。でも、正しいことがすべてではない。ユナはまだここにいる。来週、評価がある。

 栄司は送信した。

 廊下の向こうで、職員たちが動き始めていた。施設の一日が、また始まっていた。

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