第11話「問いを持つことが人間の始まりである(マルティン・ハイデッガー)」
コウタが再調整から戻ってきて、三日が経っていた。
栄司はその三日間、コウタのことを考え続けていた。廊下を歩きながら、端末に記録を打ちながら、帰りの電車の中で窓の外を見ながら。コウタのことが、頭の中から出ていかなかった。
何も届かない。
それが、栄司の中に残っている事実だった。再調整前のコウタからは、追い詰められているという感触が届いていた。答えるまでの間があった。その間の中に、何かがあった。でも今は、何もない。コウタはそこにいる。呼吸している。課題をこなしている。でも、栄司には何も届かない。
記録には書いた。再調整後の対象者について、観察者として感知していた内部状態の変化が、本日の観察において確認できなかった。
送信した。久世から返信はまだなかった。
木曜日の午後、ユナの観察補助に入ると、ユナはいつもの窓際に座っていた。
栄司が入ると振り返り、「今日も来たんですね」と言った。
「うん」
栄司は椅子を引いて座った。今日のユナはいつもと少し違う空気を持っていた。何かを考えている、という静かな緊張が、部屋に薄く漂っていた。
「相良さん」
「うん」
「あの子、どこへ行ったんですか」
栄司は止まった。
「あの子、というのは」
「先週まで、時々廊下で見かけた子です。高知能型の、男の子。コウタという名前だと聞きました」
栄司は少し考えた。ユナがコウタのことを知っていたのか、という驚きと、どう答えるべきかという迷いが、同時に来た。
「どこへ行った、というのは」
「先週からしばらく姿が見えなくて、今週また戻ってきたみたいです。でも、廊下で見かけたとき、前と何かが違う感じがしました」
栄司は黙っていた。
「違う、というのは、どういう感じがしましたか」
ユナはしばらく考えた。
「うまく言えないんですが、前は廊下を歩くとき、少し急いでいるような感じがしました。でも今週見たとき、急いでいない。ただ、歩いている。それだけで、何も考えていないみたいで」
栄司はユナを見た。
「ユナは、コウタのことを気にしていたんですか」
「気にしていた、というより、目に入っていた、という感じです。同じ棟ではないので、話したことはありません。ただ、廊下で何度か見かけて、何となく覚えていました」
ユナは窓の外に目を向けた。
「あの子は、どこへ行ったんですか」
問いが戻ってきた。
栄司は正直に言うべきかどうか、少しの間考えた。でも、ユナに嘘をつくことが自分にはできなかった。それはもうはっきりしていた。
「再調整を受けた。それで、戻ってきた」
ユナはしばらく黙っていた。
「再調整、というのは」
「感情の逸脱の可能性があると判断されたとき、行われる処置です。詳細は私にも全部はわかりません」
「その子は、感情が逸脱していたんですか」
「評価の数値が基準を外れた。それだけです。その数値が何を意味していたのかは、外からは見えません」
ユナは窓の外を見たまま、しばらく何も言わなかった。
「相良さん」
「うん」
「自由を望むことは、欠陥なんですか」
問いが来た。
栄司は息を止めた。
ユナの声は静かだった。責めているわけでも、泣いているわけでもなかった。ただ、聞いていた。まっすぐに、聞いていた。
「どうしてそれを聞くんですか」
「コウタが、再調整になった理由が、そういうことだったんじゃないかと思ったから」
「どうしてそう思うんですか」
「わからないです。でも、急いでいた、というのはそういう感じがしました。どこかへ行きたいとか、何かをしたいとか、そういう気持ちが体に出ていたような」
栄司は少し考えた。
「ユナは、自由を望んでいますか」
ユナはしばらく黙っていた。窓の外に目を向けたまま、答えなかった。
「わかりません。でも、外に出たいと思うことはあります。この部屋の外に、どんな場所があるのか、知りたいと思うことはあります。それは、自由を望んでいることになりますか」
「なると思う」
「それは、欠陥ですか」
問いが繰り返された。
栄司は答えを探した。正しい答えを探した。でも、正しい答えというものが、ここには二種類あった。施設として正しい答えと、自分が本当に思うことと。
「違う」
言葉が出た。
ユナが振り返った。
「相良さん」
「違う。欠陥じゃない」
ユナはしばらく栄司を見ていた。
「でも、コウタはそれで再調整になった」
「なった。それは事実です。でも、それはコウタの感情が欠陥だったからじゃない。制度がそれを欠陥と判断したから、です」
「違うんですか。制度の判断と、本当のことは」
また鋭い問いが来た。
栄司は少し間を置いた。
「違うこともある」
「相良さんは、そう思うんですか」
「そう思う」
ユナはしばらく黙っていた。それから、また窓の外に目を向けた。
「コウタは、今どんな顔をしていますか」
「普通の顔をしていた。外から見る限り、変わっていなかった」
「でも、相良さんには届かなくなった」
「そうです」
ユナは小さく頷いた。それ以上は聞かなかった。
しばらく沈黙が続いた。
窓の外で、庭の木が風に揺れていた。今日は雲が多く、光が一定しなかった。明るくなったり、翳ったりしていた。ユナはその光の変化を、じっと見ていた。
「相良さん」
「うん」
「問いを持つことは、いいことですか、悪いことですか」
また問いが来た。
栄司は少し驚いた。
「どうしてそれを聞くんですか」
「コウタのことを考えていたら、そういう気持ちになりました。コウタが再調整になったのは、何かを問い続けていたからじゃないかと思って。答えるまでの間があったと言ったとき、その間の中に、問いがあったんじゃないかと思って」
栄司は止まった。
ユナが言ったことは、栄司が感じていたことと重なっていた。コウタの間の中に、何かがあった。それを追い詰められている、という感触として受け取っていた。でも、それは問いだったかもしれなかった。
「ユナ」
「はい」
「今、ユナが私に聞いていること、それ自体が答えだと思う」
「どういう意味ですか」
「問いを持つことがいいことか悪いことか、と聞いている。その問いを持っているのはユナ自身です。だから、ユナはすでに問いを持っている」
ユナはしばらく考えていた。
「それが答えだというのは、どういうことですか」
「問いを持つことができる。それが、人間であることの証みたいなものだと、どこかで読んだことがあります。問いを持てないなら、問いを持つことがいいかどうか、そもそも気にならない」
「私は人間ですか」
問いが、また変わった。
栄司は少し間を置いた。
「そう思う」
「設計されていても、ですか」
「そう思う」
ユナはしばらく栄司を見ていた。
「相良さんは、いつも『そう思う』と言いますね」
「確かめられないことは、そう思う、としか言えないから」
「確かめられないことを、そう思う、と言うのは、どういうことですか」
「証明はできないけれど、自分がそう感じているということ。それを言葉にすると、そうなる」
「感じているから、そう思う、ということですか」
「そうです」
ユナは少し考えてから、また窓の外に目を向けた。
「私も、感じることがあります。でも、それが何なのかわからないことが多いです。コウタのことを考えていたら、何か重いものが胸にありました。それが何なのか、名前がわかりません」
「悲しい、という感じに近いですか」
ユナはしばらく考えた。
「……そうかもしれないです。でも、悲しいというのは、何かを失ったときに感じるものですよね。私はコウタと話したことがないので、失ったわけではないはずなのに」
「会ったことがなくても、悲しいと感じることはあります」
「それはなぜですか」
「コウタに起きたことが、自分にも起きるかもしれないと感じているから、かもしれない」
ユナは少し止まった。
「そうかもしれないです」
静かな言葉だった。怖がっているわけでも、泣いているわけでもなかった。ただ、そうかもしれない、と言った。
栄司はそれを聞いた。その言葉の重さが、胸の中に届いた。
夕方、橘と廊下ですれ違った。
「コウタの記録、出したか」
「はい。今週の月曜に出しました」
「久世さんから何か言われたか」
「まだ返信はありません」
橘は少し頷いた。
「相良くん」
「はい」
「今日のユナとの観察は、どうだった」
栄司は少し考えた。
「コウタのことを聞かれました。自由を望むことは欠陥なのか、と」
橘は少し目を細めた。
「何と答えた」
「違う、と言いました」
橘はしばらく黙っていた。廊下の蛍光灯が、静かに光っていた。
「そうか」
「橘さん、それは正しかったですか」
「俺に聞くな」
「でも、聞きたいんです」
橘はしばらく栄司を見ていた。
「お前が正しいと思うことを言ったなら、それはお前の答えだ。俺が正しいかどうかを決めることじゃない」
「橘さんは、どう思いますか」
「思うことを仕事に持ち込まない、と言った」
「はい」
「だから答えない」
橘は一歩歩き出してから、また止まった。
「ただ」
「はい」
「ユナがそれを聞いたということは、ユナはすでにそれを問いとして持っている、ということだ。問いを持っている、というのは、それだけのことだ」
橘はそれだけ言って、歩き去った。
栄司はしばらく廊下に立っていた。
帰り道、栄司はユナの言葉を繰り返していた。
自由を望むことは欠陥なんですか。
その問いを、ユナは静かに発した。泣いていなかった。怒っていなかった。ただ、聞いていた。問いとして、持っていた。
栄司は「違う」と答えた。
その言葉が正しかったのかどうか、今でもわからなかった。施設として正しい答えではなかった。でも、自分が本当に思うことを言った。
コウタに何も届かなくなった。その事実は変わらない。コウタの記録には書いた。久世からの返信はまだない。何が起きるのかわからない。
でも、ユナはまだ問いを持っている。
今日、ユナは聞いた。自由を望むことは欠陥なのか。問いを持つことはいいことか悪いことか。私は人間か。
それらの問いを、ユナは自分で持っていた。誰かに教えられたわけではなく、コウタのことを考えながら、自分の中から出てきた問いだった。
それを設計と呼ぶ人もいるかもしれない。感情認識プロセスの一段階と呼ぶ人もいるかもしれない。でも、栄司にはそう思えなかった。
問いを持つことが人間の始まりだ、という言葉を、栄司はどこかで読んだことがあった。ハイデッガーの言葉だと書いてあった気がする。存在を問うこと、自分がここにいることを問うこと、それが人間であることの根拠だ、という意味だったと思う。
ユナは今日、問いを持っていた。
それが本物かどうか、証明する方法はなかった。でも、届いた。栄司には、ユナが問いを持っていることが、確かに届いていた。
電車に乗った。窓の外に夜の街が流れた。
コウタから何も届かなくなった。ユナからはまだ届く。それがいつまで続くのかは、栄司には決められない。施設が決める。制度が決める。
でも今日、ユナは聞いた。栄司は答えた。
その事実は、記録に残っていない部分もある。でも、起きた。
それが何かを変えるのかどうか、まだわからなかった。ただ、今日のユナの問いは、栄司の胸の中に残っていた。
自由を望むことは欠陥なんですか。
違う、と栄司は答えた。
それが自分の答えだった。正しいかどうかは、まだわからない。でも、自分の答えだった。
電車が駅に止まった。乗客が降りて、また乗ってきた。
ユナはまだ施設にいる。コウタも施設にいる。橘はもうすぐいなくなる。
自分には何ができるのか、まだわからなかった。でも、今日ユナが持った問いを、なかったことにしたくなかった。
それだけが、今の自分にはっきりしていることだった。




