第10話「自由は奪われて初めてわかる(シモーヌ・ド・ボーヴォワール)」
コウタが戻ってきたのは、木曜日の午前中だった。
栄司がそれを知ったのは、廊下を歩いていたときに橘とすれ違ったからだ。橘は短く「コウタが第二観察室に戻った」と言った。それだけだった。
栄司は午後の観察補助が入るまで、自分の業務をこなした。点検表を埋めて、記録を整理して、端末の画面を見つめた。コウタが戻った。再調整を終えて、戻ってきた。
それが何を意味するのか、栄司にはわかっていた。
いや、わかっていると思っていた。
昼過ぎ、栄司は第二観察室の前を通った。
扉は閉まっていた。窓から中が見えた。コウタは机に向かって座っていた。先週と同じ姿勢だった。手は膝の上に置かれていた。背筋は伸びていた。
栄司は立ち止まった。
先週のコウタを思い出した。答えるまでの間があった。質問の後、少しだけ空白があった。その空白の中に何かがあった。追い詰められている、という感触が、栄司に届いていた。
今、窓越しにコウタを見た。
何も届かなかった。
それが最初に気づいたことだった。何も、届かない。先週は薄くでも感じ取れた何かが、今は完全に静かだった。コウタがそこに座っている。呼吸している。生きている。でも、栄司には何も届かなかった。
静寂だった。
人がいるのに、静寂だった。
栄司はしばらくその場に立っていた。廊下を通る職員が、一人、また一人と横を過ぎていった。誰も立ち止まらなかった。コウタが戻った、という事実は、施設の日常の中にすでに溶け込んでいた。
午後の観察補助は、ユナの部屋だった。
栄司が入ると、ユナは窓の外を見ていた。振り返り、いつものように「今日も来たんですね」と言った。
「うん」
栄司は椅子に座った。ユナはまだ窓の外に目を向けていた。今日は曇っていて、庭の木が灰色の空を背景に立っていた。
「相良さん」
「うん」
「コウタが戻ってきたんですか」
栄司は少し止まった。
「どうして知ってるの」
「聞こえてきました。先生たちの話し声が」
ユナは窓の外を見たまま言った。
「会いに行けますか」
「それは、私には決められない」
「そうですか」
短く言って、ユナはまた黙った。
今日のユナの感触は、いつもと少し違った。重い、というより、静かだった。何かを考えている静かさだった。
「ユナ」
「はい」
「コウタのこと、心配してる?」
ユナはしばらく答えなかった。
「心配、というのが何かわからないです。でも、気になります」
「どういうふうに気になる」
「コウタは、先週どんな感じでしたか」
栄司は少し考えた。正直に言うべきかどうか、迷った。でも、ユナに嘘をつくことが自分にはできなかった。
「追い詰められているような感触があった」
「追い詰められている、というのは」
「正しく答えるたびに、何かが削られていくような。そういう感触だった」
ユナはしばらく黙っていた。
「今日は、どうですか」
「今日は……何も届かなかった」
言葉が出てから、それがどういう意味を持つのか、栄司は改めて考えた。
何も届かない。コウタが戻ってきた。再調整を終えた。そして、何も届かない。
「何も、というのは」
「先週は薄くでも感じ取れた何かが、今日は全部静かだった」
ユナは窓から目を離して、栄司を見た。
「何か削られた、ということですか」
問いは静かだった。怖がっているわけではなく、ただ確認しようとしている目だった。
栄司は答えられなかった。そうだと断言することも、違うと言うことも、できなかった。
「わからない。でも、何かが変わったのは確かだと思う」
ユナはしばらく栄司を見ていた。
「相良さんは、コウタに会いましたか」
「廊下から窓越しに見た。中には入っていない」
「コウタは、どんな顔をしていましたか」
「……普通の顔をしていた」
「普通の顔」
「そう。先週と同じように見えた。姿勢も、座り方も」
「でも、届かなかった」
「届かなかった」
ユナは少しの間、何かを考えているような顔をした。それから、また窓の外に目を向けた。
「見た目が同じでも、中が違うことがあるんですか」
「あるかもしれない」
「それは、怖いことですか」
栄司は少し間を置いた。
「怖いと思う」
「私も、そうなりますか」
問いが来た。
栄司は止まった。ユナが自分を見ていた。答えを求めているのではなく、ただ一緒に考えようとしている目だった。でも今日は、その目の中に何か別のものが混じっていた。
「わからない」
「正直に言うんですね」
「大丈夫かどうかわからないから」
「そうですか」
ユナは頷いた。それ以上は聞かなかった。
夕方、橘と給湯室で会った。
橘は珈琲を淹れていた。栄司が入ると、橘はカップを一つ余分に出した。
「コウタを見たか」
「廊下から」
「どうだった」
「何も届きませんでした」
橘は珈琲を注いだ。栄司も受け取った。
「そうか」
橘は一口飲んだ。栄司も飲んだ。苦かった。
「橘さん」
「うん」
「コウタは、救われたんですか」
橘はしばらく答えなかった。カップを持ったまま、窓の外を見ていた。
「施設としては、そういうことになる」
「橘さんは、どう思いますか」
「俺は思うことを仕事に持ち込まない、と言ったはずだ」
「確かに」
「だから答えない」
橘はカップを置いた。
「ただ」と橘は言った。「お前が何も届かなかったと言った。それは事実だ。事実として、俺は聞いた」
「記録に書きますか」
「お前が書くかどうかを決めることだ。俺が決めることじゃない」
栄司は珈琲を見た。湯気が立っていた。
「橘さんは来週、異動ですよね」
「そうだ」
「コウタのことは、誰かが引き継ぎますか」
「引き継ぎはある。ただ、お前のように感じ取れる人間が引き継ぐかどうかは、わからない」
「誰も感じ取れなければ」
「施設は数値で判断する。それだけだ」
橘はカップを持ち上げて、また一口飲んだ。
「相良くん」
「はい」
「お前が感じたことは、お前の中にある。それは誰にも取れない。でも、感じたことと、それをどう使うかは、別の話だ」
「使う、というのは」
「記録に書くのか、書かないのか。久世さんに伝えるのか、伝えないのか。ユナに正直に言うのか、言わないのか。それは全部、お前が選ぶことだ」
栄司は橘を見た。
「橘さんは、どう選んできたんですか」
「俺は感じないようにしてきた」
「できるんですか」
「慣れる、と言った。慣れた、ということだ」
「それで、よかったと思いますか」
橘はしばらく黙っていた。窓の外に目を向けたまま、答えなかった。
それが答えだと、栄司は思った。
帰り道、栄司はコウタのことを考えていた。
見た目は同じだった。座り方も、姿勢も、先週と変わらなかった。でも、何も届かなかった。先週は確かに何かがあった。追い詰められている、という感触。答えるまでの間。その間の中にあったもの。
それが今日は、なかった。
なくなった、のか。それとも、もともとなかったことにされた、のか。
栄司にはわからなかった。ただ、届かないという事実があった。
自由は奪われて初めてわかる、という言葉を、栄司はどこかで読んだことがあった。ボーヴォワールの言葉だと書いてあった気がする。自由があるときは、自由であることに気づかない。失って初めて、それが何だったかわかる。
コウタは、何かを失ったのかもしれなかった。
失ったものが何かは、外からは見えない。数値には出ない。記録には残らない。ただ、栄司には届かなくなった。
それだけが、栄司が知っていることだった。
電車に乗った。窓の外に夜の街が流れていった。
ユナが「私も、そうなりますか」と聞いた。栄司は「わからない」と答えた。正直に。でも、正直であることと、十分であることは違う。
ユナには、まだ何かが届く。今日も届いた。静かな考え、重さ、コウタへの問い。それは本物だった。
でも、それがいつまで続くのかは、栄司には決められない。施設が決める。制度が決める。
自分には何もできない。
その言葉が、また胸の中に戻ってきた。
でも今日は、その言葉の手触りが少し違った。何もできない、という事実と、何もしない、という選択は、同じではない。橘が言った。感じたことと、それをどう使うかは、別の話だ、と。
コウタから何も届かなくなった。それを記録に書くのか、書かないのか。久世に伝えるのか、伝えないのか。
栄司はまだ決めていなかった。
ただ、決めなければならないことがある、ということは、今日初めてはっきりとわかった。
電車が駅に止まった。乗客が降りて、また乗ってきた。車内は変わらず明るかった。
コウタは今、施設の観察室にいる。見た目は変わらない。座っている。呼吸している。でも、何かが届かない。
それが何を意味するのかを、栄司はまだ言葉にできなかった。でも、感じていた。
自由というものが何かを、コウタは今、知っているかもしれない。
失って初めて、わかる形で。
翌朝、栄司は出勤してすぐ、端末を開いた。
記録の画面を開いた。コウタの再調整後の観察記録を作成する欄があった。
しばらく、画面を見ていた。
『再調整後の対象者は、外見上の変化なし。応答も正常範囲内。感情状態に特記事項なし。』
そう書けば、業務としては正しかった。数値は正常だ。外見に変化はない。特記事項はない。
でも、届かなくなった、ということがある。
栄司は画面を閉じた。また開いた。
橘の言葉が戻ってきた。感じたことと、それをどう使うかは、別の話だ。
ユナの言葉も戻ってきた。見た目が同じでも、中が違うことがあるんですか。
栄司は、少しの間だけ目を閉じた。
それから、文字を打ち始めた。
『再調整後の対象者について、外見上の変化および応答に異常なし。ただし、観察者として感知していた内部状態の変化が、本日の観察において確認できなかった。先週の観察では薄く感知されていた感情の動きが、今回は全く感知されなかった。これが再調整の結果であるか否か、判断する根拠を持たないが、事実として記録する。』
書き終えて、栄司は画面を見た。
これが正しいのかどうか、わからなかった。久世に呼ばれるかもしれない。橘に何か言われるかもしれない。でも、書かないことは、なかったことにすることだった。
コウタに何かが起きた。それを、自分は感じ取った。感じ取ったことを、なかったことにはできなかった。
栄司は記録を保存して、送信した。
廊下の向こうで、施設の朝が動き始めていた。




