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第9話「地獄とは他人である(ジャン=ポール・サルトル)」

 その日の朝、施設に着いた栄司は、廊下の雰囲気が違うことにすぐ気づいた。

 いつもと同じ白い廊下で、いつもと同じ蛍光灯が光っていた。職員が行き交い、端末を持って歩いている。表面上は何も変わっていない。でも、何かが違った。人の動きが、少しだけ速かった。目が合っても、いつもより早く視線が外れた。

 橘が給湯室の前に立っていた。

「おはようございます」

 橘は振り返り、栄司を見た。一瞬だけ、何かを測るような間があった。

「相良くん、今日の午前中、第二観察室に入れるか」

「はい。何かありましたか」

「昨日の夕方、適性評価で一人引っかかった。再調整の検討対象になってる。午前中に追加観察が入るから、補助に入ってほしい」

「ユナではないですよね」

 問いが口から出てから、少し早まったかと思った。橘は短く首を振った。

「別の子だ。コウタという。高知能型で、八歳になる」


 第二観察室は、ユナのいる棟とは別の建物にある。栄司がそこに入ったのは三度目だった。

 部屋は明るく、清潔だった。机と椅子が一組、窓に向けて置いてある。壁際に小さな棚があり、教材らしいものが並んでいた。

 コウタはすでに部屋にいた。

 椅子に座って、机の上の何もない場所を見ていた。手は膝の上に置かれていた。姿勢は正しかった。ただ、正しすぎた。意識して正しくしている、というより、そうしなければならないと思っているような、そういう正しさだった。

 担当の職員が一人いて、栄司に軽く会釈をした。

「相良さんですか。橘さんから聞いています。記録の補助をお願いします」

「はい」

 栄司は部屋の端の椅子に座った。コウタは栄司が入ってきたことに気づいているはずだったが、顔を向けなかった。視線は机の上のどこかに止まったままだった。

 追加観察は、問答形式で始まった。担当職員が、いくつかの設問をコウタに投げかける。コウタは答える。その答えを職員が端末に記録する。

 最初の数問は、数式の問題だった。コウタは正確に答えた。速かった。職員が問いを読み終える前に、答えを出していることもあった。

 高知能型だ、と橘は言っていた。それは確かだった。

 次に、状況判断の問題が続いた。「あなたが担当する作業に誤りがあることに気づいた。どうしますか」「指示と現実が食い違っていた場合、どう対応しますか」。コウタは答えた。答えは正確だった。マニュアルに沿っていた。

 栄司は端末に記録を入力しながら、コウタを見ていた。

 何かが、届いていた。

 言葉にするなら、張り詰めている、という感触だった。ガラスを薄く引き伸ばしたような、ひびが入る直前の緊張感。コウタの答えは正確だったが、その正確さの裏側に、何か別のものがあった。栄司にはそれが届いていた。

「次の問いです」と職員が言った。「あなたは、自分の設計された役割に満足していますか」

 コウタは少し間を置いた。

「はい」

「その理由を教えてください」

 また間があった。

「役割を果たすことが、私の目的だからです」

 答えは正しかった。マニュアル的に正しかった。でも、その間が、栄司には届いた。

 重さではなかった。恐怖でもなかった。もっと別の何かだった。

 追い詰められている、という感触だった。


 観察が終わったのは、昼前だった。

 コウタは職員に連れられて部屋を出た。ドアが閉まる直前、コウタが一度だけ振り返った。栄司を見た。目が合った。

 何かを言おうとしているような目だった。でも、何も言わなかった。ドアが閉まった。

 栄司は記録の端末を持ったまま、しばらく動けなかった。

 届いたものが、まだ胸の中にあった。追い詰められている、という感触。それはコウタの答えの正確さの裏側にあった。正しく答えるたびに、何かが削られていくような。

 職員が「ありがとうございました」と言って部屋を出た。栄司一人が残った。


 窓の外は晴れていた。施設の庭に、あの手入れの行き届いた木が見えた。今日は風がなく、枝が動いていなかった。

 栄司は記録の画面を開いた。

 何を書けばいいのか、少しの間考えた。

 本日の追加観察において、対象者は全問正答。感情状態に特記事項なし。

 そう書けば、業務としては正しかった。数値は正常範囲にある。答えは設計通りだった。特記事項はない。

 でも、届いたものがあった。

 あの間が、あった。「はい」と答えるまでの、あの短い間が。

 栄司は画面を閉じた。開いた。また閉じた。

 昼休み、橘が給湯室にいた。今日は珈琲を淹れていた。栄司が入ると、橘はカップを一つ余分に出した。

「どうだった」

「正常値でした」

「そうか」

 橘は珈琲を注いだ。栄司も受け取った。

「コウタは、いつ再調整の対象になったんですか」

「先週の定期評価だ。感情逸脱の可能性、という注記が入った。具体的には、設問への回答時間のばらつきが基準を超えた。それだけだ」

「それだけで」

「それだけで、だ」

 橘は珈琲を飲んだ。栄司も飲んだ。苦かった。

「コウタ自身は、何か言っていましたか」

「言わない。設計通りに答える子だ」

「設計通りに答えることが、問題になるんですか」

 橘は少し間を置いた。

「答え方の問題じゃない。答えるまでの時間の問題だ。内部で何かが起きている可能性がある、という判断だ」

「内部で何かが起きていたとして、それは問題なんですか」

 橘はカップを置いた。栄司を見た。

「相良くん」

「はい」

「俺に聞くな」

 それだけ言った。

 栄司は黙った。橘も黙った。給湯室に、珈琲の香りだけが残った。

「今日の記録は書けたか」

「まだです」

「特記事項なし、で出せばいい。数値は正常範囲だった。それが事実だ」

「橘さんは、コウタのことをどう思いますか」

 橘はしばらく黙っていた。

「俺は、思うことを仕事に持ち込まない」

「どうやって」

「慣れる」

 短く言った。それ以上は言わなかった。栄司もそれ以上は聞かなかった。


 午後、栄司は記録を書き終えて、提出した。

 特記事項なし、と書いた。数値は正常範囲内、感情状態に逸脱の観察なし。それが業務上の事実だった。

 でも、届いたものは書かなかった。

 書けなかった、ではなく、書かなかった。それは昨日と同じ選択だった。

 廊下を歩きながら、栄司はコウタのことを考えていた。

 コウタは八歳だ。高知能型として設計された。設計通りに育ち、設計通りに答えた。それでも、答えるまでの間が基準を超えた。その間の中に何があったのか、外からは見えない。数値には出てこない。

 でも、栄司には届いていた。

 追い詰められている、という感触。それは恐怖とも違った。もっと静かで、もっと深いものだった。正しく答え続けることで、何かが削られていく感触。それを、コウタは自分でも気づいていないかもしれなかった。

 栄司は第二観察室の前を通った。ドアは閉まっていた。中に人影はなかった。

 コウタはどこにいるのか、栄司には知る方法がなかった。

 再調整の対象になった、と橘は言った。それがどういう手続きで、どういう結果をもたらすのか、栄司は詳細を知らなかった。ただ、10話のプロットで自分が読んだものを思い出した。再調整を終えた者が戻ってきたとき、もう何も聞こえなくなっていた、という話を。

 まだそれは起きていない。今日の時点では、コウタはまだここにいる。

 でも、自分には何もできない。

 その事実が、胸の中で重くなった。


 夕方、ユナの観察補助に入った。

 ユナは窓の外を見ていた。栄司が入ると振り返り、いつものように「今日も来たんですね」と言った。

「うん」

 栄司は椅子を引いて座った。今日のユナの顔は、いつもと少し違った。何かを感じ取っているような、静かな緊張があった。

「今日、別の部屋で何かあったんですか」

 栄司は少し驚いた。

「どうして」

「相良さんの感じが違います。いつもより重い」

 栄司は自分の状態を確認した。確かに、重かった。

「少し、気になることがあった」

「私のことですか」

「違う。別の子のことだ」

 ユナは栄司を見た。

「その子は、大丈夫ですか」

 栄司は答えられなかった。大丈夫かどうか、わからなかったから。

「わからない」

「正直に言うんですね」

「大丈夫かどうかわからないから」

 ユナはしばらく黙っていた。窓の外に目を向けた。

「相良さん」

「うん」

「ここでは、みんなが正しく答えようとしますよね」

「そうだね」

「正しく答えることが、大丈夫でいることだと思っているから」

「そうかもしれない」

「でも、正しく答えているのに、大丈夫じゃない人もいますか」

 栄司は少し考えた。

「いると思う」

「その人は、どうなりますか」

 答えられなかった。

 ユナは栄司の顔を見ていた。答えを求めているのではなく、ただ一緒に考えようとしている目だった。でも今日は、その目の中に何か別のものが混じっていた。

「地獄とは他人である、という言葉を知っていますか」

 突然の問いだった。

「知ってる。サルトルの言葉だ」

「どういう意味ですか」

「他人の視線に縛られることが、人を苦しめる、ということ。他人の評価の中に閉じ込められることが、地獄だ、という意味だと思う」

「設計通りに答えることも、そうですか」

 問いが、また鋭くなった。

「……そうかもしれない」

「私も、そうですか」

 栄司は少し間を置いた。

「ユナは今、自分がそう感じていると思う?」

 ユナはしばらく黙っていた。

「わかりません。でも、正しく答えることが、私を正しくしているのか、私を消しているのか、どちらかわからなくなるときがあります」

 その言葉が、静かに届いた。

 ユナの設計仕様書には「感情揺れ最小化」と記されている。でも今、ユナが言ったことは、揺れていた。ちゃんと揺れていた。それは設計の外側にある何かだった。

 栄司は何も言えなかった。言葉を探したが、見つからなかった。

「相良さん」

「うん」

「その子が、大丈夫でいられるといいですね」

 ユナはそれだけ言って、また窓の外に目を向けた。


 夕方の光が、窓ガラスを斜めに照らしていた。ユナの横顔が、その光の中にあった。

 栄司には届いていた。ユナが感じていること。コウタのことを聞いて、自分のこととして受け取っていること。それを言葉にしながら、自分自身の問いとして抱えていること。

 それは設計されたことかもしれない。でも、本物だった。

 地獄とは他人である。

 他人の評価の中に閉じ込められること。正しく答え続けることで、自分が消えていくこと。コウタが感じていたのは、そういうことだったかもしれない。ユナが「私を消している」と言ったのも、同じ場所にある言葉かもしれない。

 栄司は、それを聞いた。感じた。届いた。

 でも、何もできなかった。

 今日も、何もできなかった。

 それが今の自分の事実だった。

 帰り際、橘とまたすれ違った。

「記録、出してくれたか」

「はい。特記事項なし、で出しました」

「そうか」

 橘は少し足を止めた。

「コウタは来週、再調整の手続きに入る。正式な通知は明日出る」

「わかりました」

「相良くん」

「はい」

「お前が感じたことは、お前の中にある。それは誰にも取れない。でも、それを仕事に持ち込むと、お前が壊れる」

 橘はそれだけ言って、歩き去った。

 栄司はしばらく廊下に立っていた。

 橘の言葉は正しかった。そうやって橘は、この施設で働き続けてきたのだろう。感じることと、動くことを、分けて生きてきた。それは一つの答えだった。

 でも、それが自分の答えかどうか、栄司にはまだわからなかった。

 廊下の端に窓があった。外はもう暗くなりかけていた。施設の庭に、あの木のシルエットが見えた。

 コウタは来週、再調整に入る。

 自分には何もできない。でも、感じたことは、ある。届いたものは、ある。それを「特記事項なし」と書いた自分が、今日、何かを選んだことも、ある。

 問いは増えていた。答えは一つも増えていなかった。

 栄司は廊下を歩き出した。今日も、歩き出すしかなかった。

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