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正統な伯爵の死

 ガスパーの要望としては、少しは働いて稼いでくれ、ということに尽きる。

 或いは、宝石貴金属のようなとっておきがあるならば、すぐに出せということである。

 部屋を借りる際の手付金と、最低限の家具調度を揃えるのに使った小さな宝石が最後だと父は言ったが、まだ何か隠しているのではないかとガスパーは思った。この頃になると不信感が膨れ上がっていて、父の言葉をすっと受け容れることができなくなっていた。

 今からでも、ヴェスカウ伯爵――従兄弟の所へ行って、恥を忍んで一時的な気の迷いで断ってしまったが、やっぱり先の申し出を受けたい、と言うべきではないか――

 さすがに、思ってもすぐには口にしなかったが、いつまでも家で無為に過ごしているのに腹立ちをおさえかねて、言ってしまった。

「無理だ。今更」

 激昂するかと思いきや、返ってきた声は弱々しいものであった。

 内容自体は拒否であるものの、その弱さに、父も実は後悔しているのではないかという臭いを嗅いだガスパーは説得を試みたが、弱い声で、だがはっきりと拒否を重ねた。

「私は、正統なヴェスカウ伯爵だ」

 独り言で、そんなことを言っていることが増えた。

 大丈夫か、この人は――

 と、少々不安になったが、刺激するのを恐れておいそれと触れることができなくなってしまった。

 金を稼がねばならない、という大義名分をもって帰りが遅くなる日が多くなった。父がいる家にいる時間を減らしたかった、というのが本音である。

 もう、伯爵の申し出を受けろ、という説得も不可能と悟って止めていた。不平不満を言うことも無くなり、奇妙な静寂が父とガスパーの間にあった。

 なんとか、この街でも人脈を築くことができた。

 どうもガスパーは手先が器用で、そういう手作業を要する仕事が得意であり、雇い主に重宝がられた。

 自分が必要とされている、という実感を得ることは、単純だがそれゆえに表裏無き喜びがあった。

 ふと、父はこの種の喜びを感じたことがあるのだろうか、と思った。

 元々、次代の伯爵と目されていた頃もあった地位の人だから、必要とされているという以前に自分の存在は伯爵家にとって必要だと疑いも無く確信してはいただろう。

 しかし、継承戦争に敗れて逃亡者となってから、さらには援助者すらいなくなってからはどうか。

 日常、接していてそれほど頭の悪い人ではない、という感触は得ている。

 今の自分は、誰にも必要とされず、無為徒食しているだけの人間だ――

 という程度のことを察することはできるはずだ。察した上で、無為徒食を続けているのならば、それは伯爵たる者、人に使われて日銭を手にするようなことはするべきではないという信念が本物だという証である。

 信念堅固である、と言えばよさげに聞こえるが、それによって両肩にのしかかる苦労が増えているのだから、ガスパーとしてはそんな信念は偽物だった方がよいのに、と思わざるを得ない。

 その頃、酒を覚えた。

 それまでは年齢的なこと、金銭的なこともあって興味は持ちつつ控えていたが、十六歳になり、さらには父と一緒にいる時間を減らすという動機で仕事を増やしたことによりその問題が解決した。

 さすがに、泥酔するほどには金は無く、小さな容器に入ったものを数日かけて飲むような飲み方だったが、ほろ酔いになるとよい気分だった。

 仕事が終わると、その辺の道端で飲み、酔いを覚ましてから帰るのでさらに帰りが遅くなった。

 両親ともに寝ている時が多く、それは望むところであった。そういう時は、ガスパーも黙って寝てしまい、翌早朝、母にゴールドを渡して父が起きる前に家を出る。

 これにより、顔を合わせる時間を少なく、という希望は達成された、というか達成され過ぎた。顔を全く合わせない日も珍しくなくなった。

 これでいいんだ――

 と、どうせ顔を合わせれば、どうしても父への不平が心中に起こり、時にそれを内部へとどめておくことができずに口に出してしまうことを考えれば、これでよい、と思っていた。

 しかし、時々仕事を貰ってきて裁縫道具を駆使している母はともかく、父は何をやっているのだろうかと少々興味が無いわけではない。

 酒は、飲めないわけではないのだが、ほとんど飲まない。飲みたいとも言わない。

 ここで、酒に溺れてでもいたら、不快ではあるが納得はいくのだが、いったい何を楽しみに生きているのやら。

 遂に興味に勝てずに、今日は少し調子がよくないと嘘をついて一日家にいたことがあった。それとなく観察していると、父は何もしない。飯を食ってぼさっとしているだけである。いや、おそらくはそうなのだろうなとは思っていたが、生気らしいものが感じられるのは食事中ぐらいで、後は生きているのか疑わしいほどに生気に乏しかった。

 ああ、父上は、もう駄目なのではないか――

 つくづく、そう思った。

 既に述べたように、決して頭の悪い人ではないのだ。

 将来、伯爵になるかもしれぬという立場だったのだから、様々な教育も受けているだろう。

 ガスパーを苦々しい顔にさせる原因である伯爵たる者……という信念も、それによって身についたものなのかもしれない。

 伯爵となるべく、例え伯爵にはなれなかったとしても領主として統治を行うために育てられた人間だ。それが、伯爵どころか小領主にもなれずに逃亡者として市井に埋もれている。

 育てられた能力が、必ずしもそれ以外に役に立たぬというわけではあるまい。使おうとすれば、なんらかの仕事にありつけるかもしれないのだが、それに必要な精神の大転換を例の信念が邪魔している。

 さらには、無為徒食を常とするようになってから時が経ち過ぎた。

 それ以前にはあった能力も、とっくに錆ついてしまっているのではないか、という思いは何をするでもなく置物のように存在している姿を見れば、嫌でも強くなる。

 同じ狭い部屋で暮らしているのに、ろくに顔を合わせないという父と息子の生活は、それが当たり前にようになって何年も続いた。

 その間、ガスパーは様々な仕事を経験し、様々なことを学んだ。

 得られる給金も増えて暮らし向きが楽になったが、酒量も増えてしまったために、それほど劇的に向上したというわけでもなかった。

 もう、あれでは生きていてもしょうがないのではないか――

 というのが親子の情を排した時に、どうしようもなく浮かび上がってくる想念だった。 本当に、何もしないのだ。正統な伯爵である、と言うならばそのあるべき場所へ座すために何かしているのかと言えば、何もしていない。

 もちろん、本当に行動を起こし、睨まれて今度こそ刺客を差し向けられたりしたら困るのではあるが、それをしないのならば、働いて自分を養うべきではないか。

 母は、こういう父をどう思っているのか、というのも一度思考の俎上に乗せてしまうと容易に判断しかねる。子供の頃は疑いも無く、父を愛しているから彼と一緒にいるのだと思い込んでいたが、それで納得できる時期は過ぎた。

 父が、母を愛しているのは間違いない。もう少し家格の高いところの娘を正妻にせよという周囲の声を振り切って母を娶っている。

 しかし、母の方に、選択権があったのだろうか。

 ゆくゆくは伯爵になるという者から乞われて、断れるとは思えない。

 一見、玉の輿には違いないから悪くないように思えるが、結果としてはほぼ最悪に近いことになった。元々がそれほど大きな家ではないという母の実家は、伯爵家を割った継承戦争において、母が嫁いでいなければそれほど重視されず、重視されなければ例え敗者の側に属していたからと言ってそれほど執拗に攻撃されなかったであろう。

 どうやら、父や兄と言った近しい者はことごとく死に、遠い縁者には距離を取られてしまい、母は全く孤立していた。父に着いて来るしかしょうがなかったのかもしれない。

 それでも、父の体たらくにこうまで付き合うことはないのではないか、とガスパーは素直に感じる。

 自分などを愛して無理に正妻にしたせいで、継承戦争において最も頼りになる味方となるべき妻の実家というものが、計算上の数字として小さくなってしまった。そのことを申し訳なく思っている節はある。

 或いは、様々なことをひっくるめて、昔はいざ知らず現在において、母はやはり父を愛しているのかもしれない。正直、今の父が人の愛を受けるに値する存在とは思えないのでどうにも納得し難いのであるが……。

 ガスパーが二十歳の頃に、母が倒れた。

 すぐに自ら起き上がり、大したことは無いと言った。それが、果たして彼女が本心からそう思っていたのか、或いは苦しい家計を考慮して無理をして吐いた言葉なのかは、その後すぐに再び倒れて会話もままならぬようになり、そしてそのまま逝ってしまったために遂にわからず仕舞いだった。

 父は、元々が生気に乏しい有様だったが、いよいよ魂が全く無くなったかのように呆然自失としていた。

 それは、妻への愛が深かったことの証と言えなくはなかったが、ガスパーはそう捉えずに父を憎んだ

 最初に倒れた時に、治癒士にかかっていれば、というのが悔いの根源である。

 その一度目に倒れた時にガスパーは仕事で居合わせず、その場には父だけがいた。

 二度目に母の身体が床を打ったのはその翌朝であり、その時はガスパーも出掛ける前で同席していた。

 前日の夜も、ガスパーはちょっと酒をひっかけてから遅くに帰宅しており、両親は既に寝ていた。まったくいつもの光景であった。

 どうしても、後からそのことを聞いたガスパーは、父が自分にそのことを告げて相談してくれていれば、母が大丈夫だと言っても無理にでも治癒士のところへ連れて行ったものを、なぜそんな大事なことを父は黙っていたのか、と憤った。

 この怒りは彼らしくもなく八つ当たりの色が濃い。

 酒に酔って帰ってきて寝ようという時に、父にそのようなことを言われても果たして自分は本当にそれは一大事だと跳ね起きて、母を無理に説得するようなことをしたであろうか。

 いや、した――

 と、強く思うものの、心の片隅では、それは実際に母が死んでしまった今だから言っているだけで、その時はそこまで深刻な事態とは受け止めずに、明日の朝にでも治癒士のところへ行こう、と言うのが精々だったのではないか、と思わぬでもない。

 普段ならば、他のことならば、そちらの思いが次第に大きくなるのだが、母の死に関することだけに、そのことにだけはガスパーはいつになく不寛容で、恨みがましく、責任転嫁気味であった。

 父が、そこまで深く嘆き悲しんでいるように見えない、というのは気分的に、そういった感情への正当性を補強した。

 泣かないのか――

 舌打ちしながら慨嘆した。

 父は、涙を流さなかった。一人だけで泣いているということもない。母の死の衝撃にガスパーは数日仕事をせずに家にいた。狭いので、当然父と同室である。泣いている様子は一切無かった。

 泣き喚き、髪を振り乱して床を叩くようなわかりやすい悲しみ方とは別に、悲しみのあまりに感情自体が失われるような事態もありえないことではなく。それはそれで一つの悲しみ方、ではある。

 だが、そのようによい方に物事を解釈するゆとりをガスパーは失っており、その呆然自失を、これから自分の面倒を誰が見てくれるのか、という利己心から来るものと判断し、ますます怒った。

 母の葬儀も終わり、心境も一段落すると、仕事に出た。朝早く出て、夜遅く帰る。

 ガスパーよりも早く眠り、遅く起きる父とは全く顔を合わせなくなった。それでもガスパーは父の寝顔ぐらいは見ているが、父の方は、同じ屋根の下で暮らしながら、ガスパーの姿を見ない日の方が圧倒的に多かった。

 朝、家を出る前に幾らかのゴールドを置いて行く。

 父は、最初の二日ぐらいはそれに手をつけず、つまり食事もしないでいたが、さすがに空腹には勝てずに、三日目からは机上のゴールドを掴んで、のそのそと買い物に出かけたらしい。

 らしい、と言うのはそれを見ていないのはもちろん、確認もしていなかったが、ゴールドが無くなっていることと、父が飢え死にしないことで判断したからである。

 しばらくそんな生活をしていたが、さすがに馬鹿馬鹿しくなってきた。

 もう、父をこの家に置いて逃げてしまおうか、と思ったことは一度や二度ではない。自分を探し回るほどの気力も体力もなく、金の供給が途絶えれば、何も食うことができず、かといって今更仕事もできず、人知れず餓死するのではないか。

 実質、父を殺すことであり、そんなことをしていいのかという倫理感はガスパーにはあった。だが、もうこんな生きながら死んでいるも同然の人間なのだからいいではないか、という心の声も、決して弱いものではなかった。

 いよいよ、その決断を促されるようなことがある日の夜に起こった。ガスパーが帰って来た時に、濃厚な酒の臭いが部屋に充満していた。

 少しばかり――それこそ量が増えたと言っても多寡が知れているガスパーが飲む程度の量であれば、ここまで臭いが満ちることはあるまい。相当大量に飲んだに違いない。

 働きもしないで、俺が稼いだ金で――

 というのが、まず真っ先に思ったことである。

 金を渡すのを止めようか、とも当然思った。

 次いで、気付いたのが、この酒の臭いの劣悪さである。

 鼻腔に嫌な刺激がある。これには覚えがある。びっくりするぐらいに安く、しかしその分だけきっちり粗悪な安酒である。

 ガスパーも最初はそういうものを飲んだ。単純に、自分は余裕があるわけではないのだから一番安いやつを飲むべきだと思ってのことだったが、すこぶる不味かった。

 自分が酒に慣れていないだけで、こういうものだろうと思いつつ、も少し高いのはマシなのだろうかと、当時よく仕事で一緒になっていた年配の男に聞くと、ガスパーが何を飲んでいるか知った途端に、

「若いもんが、あんなもん飲んだらいかん。いやいや、わしのような飯より酒が好きという手合いだって、あんなの飲まんぞ」

 と、随分と評価が手酷い。

 酒好きだけあって、詳しく、そこそこの値段でよい酒が買える店を教えてくれた。それ以来、そこで買った酒を飲んでいる。

 アレを、こんなに飲んだのか――

 いつになく大鼾をかいて寝ている父を見つつ、呆れた。父は、以前の身分からしてガスパーが口にしたこともないような上等の酒を飲んでいたであろうに、こんな悪酒をよく口が受け付けるものだという呆れである。

 それと、もう零下まで冷え込んでいた気持ちが、さらにそこから一段温度が下がるのを感じていた。

 全く思うようにならぬ状況下で、酒に逃げそれに溺れないのは父の数少ない良いところだったのに、と。

 そこで、まず考えたのは渡すゴールドを少なくすることだ。

 そうすれば、酒を買うことができまいと思ったが、食べ物を控えて酒に回すだけではないかと思い直した。

 現金を渡さずに、自分が食べ物を購入してそれを渡す、というのも考えたがなんでそんな面倒なことをせにゃならんのか、とこれも断念――したかったが、どうもそれしか手が無いようである。

 なぜ、自分がわざわざそんなことを、という自問は幾度もガスパーの中に発生し、何度目かのそれに対して、明確に、だってそうでもしないと父が粗悪な安酒を大量に飲み続けてしまうではないか、と答えた。

 酒好きの男の話によると、一番安く、一番質の悪い酒は体によくない。どのように上質の酒であろうと、量を過ごせばよくないものだが、劣悪な酒は少量でも健康を害する。

 それを飲ませまいとするのは当然である。

 だが、それへもすぐに自問が生じる。なぜ? と。

 その辺りで、ガスパーは自分の中にとある考えが生まれていることを自覚した。

 翌朝、いつものようにゴールドを置いて仕事に出た。

 夜、いつものように帰ってくると、前夜と同じく足を踏み入れてすぐにそれとわかるぐらいに臭いが充満していた。

 よし、と頷いた。そして、それを誰かに見られはしなかったかとでもいうように周囲を見回した。もちろん、その場には泥酔して寝ている父以外に余人はいない。

 次の日もまた次の日も、同じことの繰り返しだった。

 帰ってくる頃には、部屋で呼吸しているだけで酔ってしまいそうに思うぐらいに、それの臭いが充満しているのも同じ。

 その奇妙な生活を三カ月も続けていると、父の衰弱が甚だしくなった。もちろん、そうなることは先刻承知……どころか、ガスパーが金を与え続けたのは、そのためだったと言っていい。

 安酒に溺れて、溺死してしまえ――

 という、父の死を望む気持ちは、どうしようもなくガスパーの中にあった。

 毎朝置いていくゴールドの量は変えていない。それでも父の酒量は増えた。食べ物を買う分を切り詰めて酒に回しているのだ。

 それを悟って、ああ、とうとうこの人は駄目だな、と確信した。

 そうなることを望みつつ、しかし、そうなるのはあくまでも当人の意志でありその決断によるものだ――という逃げ道が、彼には必要であった。

 この期に及んでも、父を直接に殺す踏ん切りがつかないガスパーにとって、これが状況に対して考えられる最良の方法だった。

 こうなったのは、父がそうなるべく行動したからに過ぎない。

 すなわち、自分の責任ではないのだ。

 そう自分に言い訳をしなければいけなかったのは、彼に父への愛情が僅かなりとも残っていて、これを殺すことに、気後れがしていたことを示している。

 だが、その一方で、言い訳をしながらも、その目は冷徹に父の衰弱を観察していた。

 仕事を終え、酒を飲む。

 それについては、幾つかお気に入りの場所があり、そこで酒を入れて少し酔うと寝転がって星空を見ていた。

 父が常飲しているそれよりも、だいぶマシな酒に酔ってそうしていると、今日も父はあの安酒を大量に飲んだのだろうな、ひょっとして今日辺り帰ったら死んでいるのではないか、という考えが浮かんで、そんなことを考える自分に愕然とすることもあった。

 父が吐血したのは、さらに一週間後のことである。

 その時は一命を取り留めたが、歩行すら困難になって、珍しく声をかけてきた。

「酒を買ってきてくれ」

 用件はそれであり、ガスパーは大丈夫なのかと反射的に聞いてしまった。

「飲まんと、やってられん」

 父から返ってきたのは、いかにも酒に逃げて溺れた人間の言うことであったが、不思議とそれはガスパーの胸に響いた。

「わかったよ」

 と、申し出を請け合ったのは、必ずしも当初の計画と合致するからというわけでもなかった。

 これまで見てきた何をすることもなく終日じっとしているだけの父、その無為にも母がいれば耐えられたのだろう。

 だが、母がいなくなってしまうと、もはやそれに耐え切れずに、酒に逃げた。

 これは、最後の親孝行だな――

 自然に、そう思った。思った直後に、自分への言い訳に親孝行を称するとは、と自分を卑下したい感情に駆られたが、やはりそれはごくごく自然に生まれた感情であった。

 壺に例の安酒を入れて持ち帰る途中、心穏やかではなかった。

 つい、失念していたが、酒を買ってくることを請け合った時点で、ガスパーは自分自身の決断を必要としていた。

 父は、ただこの壺いっぱいに酒を買ってきてくれ、と言っただけである。

 どのような酒を買うかは言っていない。いざいつも父が買っている粗悪な安酒を買おうとしてそのことに気付いた。

 もっとマシな酒を買うこともできるのだ、ということに次いで気付き、腹の底に突如重たい何かが発生したような嫌な気分になった。

 少し躊躇った後に、いつもの安酒を買った。

 この量を手頃な値段で買うには、この酒しかないのだ、と自分に言い訳しながら、壺を受け取りそれを抱えて家路を急ぐ。

 少しの食べ物も買い求めて、それを持ち帰ると、すぐに仕事に行くと言って外に出た。

 仕事に行く前に、酒と食べ物を買いに行くことが日課に加わった。

 それも長くは続かないだろう、と奇妙に冷徹な観察眼で父を見て、ガスパーは思っていた。衰弱が、目に見えて進行していた。

 最初の吐血からも、父は度々、血を吐いた。

 治癒士にかかることもなかった。これについては、父も求めなかった。この時点で、長く生きるつもりはなかったのであろう。

 改まって、話をされた。遺言と思って聞け、という大仰な出だしから話は始まった。

 内容は、遺言と聞いて予想していた通りであった。

 お前は、正統なヴェスカウ伯爵である、というところから始まって、自分にはその正統な地位を回復することは適わなかったので、それをお前に託す、ということである。

 内心、そんなもの託されてもなあ、と思いつつ、いちいち頷いて声を張って答えた。父は、満足そうであった。

 その際に、伯爵家の紋章が意匠された品々を幾つか渡された。これが、正統な伯爵であることの証になる、と父は言うのだが、こんなものを持っているだけで人が集まり、推戴してくれるわけではあるまいと思った。それでも、売れば幾らかにはなるだろうと考えて押し戴くように貰っておいた。

 書簡や、書類の類も渡された。そういえば、ここの前に住んでいたところから逃げ出す時に大事そうに紙の束を袋に入れ、それを体にまきつけて縛り付けていた。その時は聞きそびれて、そのまま忘れていたが、これだったのだ。

 それらも、いわば身分証として父は保管し、ガスパーに相続させた。

 後で見てみると、祖父や父が要人とやり取りした書簡などであり、一応は貴重なものらしく思われた。これは、売れるとも思えなかったが、そこまでかさばるものでもないので貰っておいた。

 それらのことを終えると、安堵したのであろうか。数日後に、ガスパーが家に帰ると、父は吐血してできたらしき血だまりの中に突っ伏して死んでいた。

 さすがに、その死をこの目で見、我が手で触れると、これまでのことが回顧されて悲しくなったが、それ以上に、これでおれは自由だという解放感の方が強かったと言うのが本音である。

 父の葬儀は、母のそれ以上に寂しかった。母の時は、まだ仕事先で知り合った人間が数人来てくれたが、父の時はガスパー以外に誰も参列者はいなかった。

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