正統な伯爵とその後継者の生活
困窮したが、父は、自分で仕事を見つけてそれで金を稼いでくる、などということができぬ人であった。また、やろうともしなかったし、やるわけにはいかないと強固に確信していた。そんなことをすれば誰も伯爵に担ごうとする者がいなくなるだろう、とかなり真面目にそう思っていた。
母が、働きに出ることになった。
いかにもおっとりとしたお嬢さんという雰囲気の母に、そんなことができるだろうかと危惧したのだが、なんとかかんとかやっていた。
まだ幼いガスパーは、それが不思議で思い切って聞いてみた。伯爵家の息子に嫁いでくるようなお嬢様育ちの母に、なぜそんなことができるのか、と。
母は笑って、そんなに大層なものではないのよ、と言った。
そう言えば、父方の家についてはヴェスカウ伯爵家であるぞ、と飽きるほどに聞かされてきたが、母の実家については何も知らない。
こんな機会に無理にでも聞かねば一生教えてもらえぬかもしれぬと思ったガスパーは、せがみにせがんで聞き出した。
母の実家は、ヴェスカウ伯爵家の家臣だったが、決して身分が高いわけではなかったらしい。
父は、密約のことがあって、次の伯爵と目されていたのだが、その彼が、そんなところの娘を娶ると言うのには反対意見も多かったようだ。
しかし、それを押し切ったというから、父は母を愛していたのだろう。
その時は素直に感動した――いや、後々になってもその感動が薄れたわけではないのだが、色々と知恵がつくにつれて要らぬことも考える。
父のそういうところが、後継に不適格と見做された一因なのではないか、ということである。
母のことに限らず、そういった我を通すところがあったのではないか。
そこで通していなかったら産まれていなかったガスパーとしては、母との結婚を強行したことだけはありがたいし、認めたいし、認めなければならないのだが、そのことすらも悪い作用を及ぼした可能性は高い。
兄弟の対立は、遂に兵を挙げての戦争状態にまで発展してしまったが、母の実家がもっと大きな有力な家であったならば、その助力も大きく、勝敗は分からなかったのではないか。
母は、自分の実家――父や兄が、娘を後継者の嫁に送り込んで慢心して私利を欲しいままにした、という敵対者が放った檄文をひどく気にしているようであった。
檄文などは、真実を記すために書かれる性質のものではないが、敗北してしまえば敗者はそれを否定する力を失って、それがあたかも真実のように語られ、定着してしまうものだ。
母は、はっきりとそういう話を聞いたわけではないようだったが、きっと故郷ではそのようなことが真実として語られているだろうと思っている風だった。
後から考えてみれば――こればかりだが、さすがに当時の幼いガスパーには察することができないことがあまりに多過ぎた――おそらく、母の実家はその後継戦争においてほぼ全滅したのではないか、そうであれば閑散とした両親の身辺の説明がつく。
母がはっきりと言ったのは、父兄たち――我が実家が私腹を肥やすのに汲々としたことなど無いということだった。
そのようなことはありませんでした――と強く断言した後に、まっすぐにガスパーを見つめて、
「あなただけには言っておきます。父も、兄も、力及ばず、戦争には負けましたが、権力を利用して金持ちになった、などという話は全くの嘘です。これから先、私たちの故郷に戻ることもあるかもしれません。その時に、そのような話を聞いても、信じないで欲しいのです」
信じるな――というのが母の願いであり、そういう話を否定しろ、とか反論しろ、とは言わなかった。
ガスパーは成長するにつれて母の労苦を見るに見かねて働きに出た。と、言っても正統な伯爵の後継者であるから、大っぴらに行けば父に止められるから、隠れて行った。
時折、自分が後継者であるということになっているヴェスカウ伯爵の話を聞いた。大概が戦で活躍した武勇伝の類で、王にお褒めの言葉をかけられた、だの、王家伝来の剣を授けられた、だの、きらびやかな話ばかりであり、それを日雇い仕事の休憩中に聞くのだから、自分とはなんの関わりも無い遠い世界のことに思えたとしても止むを得ないだろう。
ガスパーが十五歳の頃だったが、ある日、いくらかのゴールドを手にして家に帰ると空気が険しかった。
そういう原因は、大抵は金銭的な理由であったから、懐のゴールドでなんとかなるだろうと軽い気持ちで何かあったのかと尋ねると、思ってもいなかった答えが返ってきた。
ヴェスカウ伯爵家の家臣――と思われる者が自分たち一家を嗅ぎ回っている、というのだ。
なんでわざわざそんなことを?
というのが真っ先に浮かんだ素直な思いである。
だが、父も母も、かなり深刻な顔をしていて、逃げる必要があるかどうかについて話し合っている。
まるで生きるか死ぬか、という瀬戸際にいるかのようだ。
ガスパーは、父のことを嫌ったり憎んだりはしていなかったが、母や自分を働かせて自分は不労で徒食しているところは、やはりどうしても好きになれなかった。
最初の頃はともかく、ガスパーが働くようになってからだいぶ経つ。
もう、いい加減にそのことに気付いているはずだ。いつか言われるかな、と思っていたのだが何も言わない。伯爵になるべき者は、せせこましい日雇い仕事などしてはいけないという従来の信念に沿うならば注意して、止めさせるべきであった。
だが、言わない。さすがに、ガスパーが直接、家計の足しにするために自分も働くと言えば、従来のお題目で止めただろう。
母一人では、三人を食わせるのには無理があることはわかっているだろう。その程度には貧困者の金銭感覚が身についているはずだ。
だから、ガスパーについては黙認しているのだ。
文句を言われる煩わしさが無いのはいいことだが、どうしても、ずるいなとは思う。
そんなわけで、決して嫌悪するとまでは行かぬが、ほのかな軽蔑という程度の負の感情は父に対して抱いていた。
だが、そうやって真剣に考え事をしている父にはいつもは無い迫力のようなものがあった。
そういう姿を見ると、少しは見直す気にもなるが、それよりもそれだけ危険なことなのかと意外に思う気持ちも大きかった。
しかし、よくよく考えてみるとガスパーの方が危機意識が希薄なのであり、父と母の反応の方が当然なのだ。
兵を挙げて、それによって戦争を起こした上で敗北して逃走しているのである。時間が経ったが、立場には変わりはない。
こちらが自らを正統な伯爵であると思っているのならば、あちらだってそう思っているはずだ。
今のところ、ガスパーの父は援助者すらいなくなって妻と子供に食わせてもらっている体たらくだが、血筋から言えば伯爵位の継承を主張する資格だけはある。
神輿として担ぎ出されることはできる、ということだ。問題は担ぎ手がいないことである。
しかし、担ぎ手がいないのが問題だということは、逆に言えば資金やら人員やらを提供する担ぎ手がいれば、神輿として振る舞って一波乱起こせるということだ。
例えば、この場合その担ぎ手は何も成功を確信していなくてもよい。ただ単に伯爵領内を乱す目的であれば、絶対に成功させる必要は無いのだ。
結局、すぐに逃げるとはならなかった。そもそもが、それらしい者が嗅ぎ回っているらしい、という憶測以上のものではない情報を元に、今現在築いている生活基盤を捨てて逃走流浪するのは躊躇われた。
ガスパーも、やはりそのような両親の態度を見、話を聞いても危機感を強く持てず、せっかく人脈を築き上げたここから離れる気にはなれなかった。
ここで言う人脈とは朝にその辺を歩いていれば、顔見知りから今日はこれこれこういう仕事があるがやるか? と声をかけられて仕事にありつけることを指す。
案外、ただの勘違いではないか、とも思いあまり真摯に受け止めなかったというところもある。
だが、父が逃げずに様子を見ようとしているのは、それだけが理由ではなかった。
自分たちを嗅ぎ回っている人間が、なにも彼らを捕らえて禍根を絶とうとしている伯爵の手の者とは限らない。
もしかしたら、自分を担ごうとしている人間が派遣したのかもしれない。だとしたら、逃げるのはよくない。
それを聞いて、ガスパーはそういう発想をできる父を、やはり多少の軽侮を伴った呆れを持って眺めた。
それから三日ほど経ったある日、またガスパーが仕事を終えて帰宅すると、父が興奮した面持ちで迎えた。
援助が無くなってからの父は、どちらかと言えば無気力なことが多く、そのような顔は久しぶりに見る。
「どうしたのですか?」
と、思わず聞かずにはいられなかった。
まさか、危険が迫っており、今にも逃げ出さねばならないのか――とは思わなかった。父の興奮にはそういった後ろ向きな色はなく、逆であった。
「先日、話したであろう。我らを嗅ぎ回っていた者だ」
「はい」
「それが、さっきここに来た」
えっ、と驚きつつ、ガスパーは思考を急ぎ回転させた。その連中と接触した後に、父がこの状態になっているということは――
まさか、ガスパーを呆れさせた父の観測、というかもうただの願望にしか思えぬことが事実となったのか。すなわち、父を正統なるヴェスカウ伯爵として担ごうという人間が現れたというのか。
一瞬、ガスパーも父のそれが感染したかのように興奮した。
だが、我は正統なる伯爵、従ってお前もその後継者なのだぞと叩き込まれた割には食うものにも困り、長ずれば家計を助けるために働きに出て、その辺の庶民に使われる身分であったガスパーは、熱しにくく、例え熱したとしてもすぐさま冷める性質を備えるに至っていた。
新たな担ぎ手とやらが、以前のそれと同じようにただ援助してくれて時を待つのだとしたらけっこうなことだが、おそらくもっと能動的にことを起こすつもりであろう。そうでなければ現在のヴェスカウ伯爵の地位が盤石であるこの時期に動かない。
それは、すなわち戦争に訴えてでも、ということになるが果たして勝てるだろうか。既にヴェスカウ伯爵の武名は高く、それを慕って指揮下の兵士たちも士気旺盛であり、間違いなくその集団は精鋭部隊である。
そういった不安を胸に秘めつつ、尋ねてみると、予想とは違った。
やってきた者は、ヴェスカウ伯爵の家臣だったのである。
ならばなぜ、父はこんなに興奮しているのだ。いや、そもそもなぜ捕らえられずに息子の帰りをいつものように待っていることができたのか。
わからないことだらけになったガスパーは、詳しい事情を尋ねようとしたが、その前に父が、やはり興奮しながら話し始めた。
伯爵の家臣の用件は、穏当なものであった。
従兄弟同士で不幸にも干戈を交えて争って勝者と敗者になり、それ以降一度も顔を合わせることはなかったが、もはや遠い過去のことである。我々が旧怨を抱いて対立し続けるべきではない。
そちらにその気があるのならば、当方には迎え入れる用意がある。
と、要するに、和解の申し出であった。
穏当どころか、慈悲と言っていい申し出だとガスパーは思った。
もう、来月の家賃の支払いとか、明日食べるものとかのことを気にしなくてもよい。
さては、父の浮き立ったような様子はそのせいか、と得心がいった。
「むろん、断った」
だから、父が誇らしげに言ったその内容がとてもすぐには頭に入ってこなかった。むろん、受けた、と言うのならばすっと入ってきたであろうが。
断った、ということはまた家賃とか食べるものへ心を砕かざるを得ない生活を続けるということであり、そのことはガスパーにとっては誇らしさを感じるものではない。
だが、父としては断るのが当然の申し出であった。
その気があるのならば、という、その気とは、もちろん自らが伯爵となることを諦めた上で、現在の伯爵に家臣として仕える、というものである。
親戚なのだからある程度の特別扱いはされるだろうが、君臣の一線は厳然と引かれるであろう、実際にそれを形にすることも、条件にあった。形とは、以後自分と子孫は自ら伯爵位の継承権を主張しない、ということを誓約することである。
そのような申し出は受けられるはずがない、と父は迷い無く断言し、やはりその顔は誇らしげなのであるが、はっきり言ってガスパーとしてはたまったものではない。
なんて馬鹿なことをしてくれた――
偽りの無い本心は、それに尽きた。
父が伯爵となれば、自分はその後継者で将来の伯爵である。すんなりなれるものならばなりたいものだが、そうではなく危険な橋を渡らねばならない。しかもその際に必ず打ち倒さねばならぬ現伯爵は勇名轟き、王にも信頼され、兵士には仰がれ、全く隙が無い。
これは無理だ――と思うのは当然すぎるほどに当然であろう。
父はもちろん、自分の代になって、自分が人生を費やして求め続けたとしても、とても無理だ。
そんないい話は受ける一手しかあるまい。
父は、相変わらずの誇らしさを振りまきながら、ふざけた話を持ち掛けてきた伯爵を罵っているが、後々面倒になるかもしれんから殺ってしまえ、と言わずに条件付きながら帰還を許そうとした伯爵は十分に寛容と言っていい。その条件と言うのも、彼の立場からしたら必須としか言いようがないのだ。
しかし、そのように手を差し伸べて、それを振り払われて気分を害したのではないか――と、せっかくの申し出を断ったことにより得られなかった安楽な生活を惜しむ以上に、そのことへの恐怖を覚えた。
そのことを恐る恐る言った。
期待はしていなかったが、案の定、父はそのことは考えておらず、知ってしまえばどうしようもなく恐怖を感じ、それに抗することができなくなった。
今度こそ、和解の使者ではなく、剣を手にした刺客が派遣されてくるのではないか。
申し出を拒絶することで、自分はあくまでも伯爵となることを諦めないぞと宣言したことになり、それは遂には将来の禍根となりうるぞと通告したに等しい。
数日にわたって嗅ぎ回っていたと言うから、一家の暮らしぶりは偵知されていたということであり、その困窮ぶりからこの条件ならば飲むだろうという見込みを持っての申し出であったに違いない。
それをにべもなく拒んだのだから、伯爵というものに対する執着、執念がよほど強いのだと思わせたであろうし、それならばいっそのこと始末してしまえ、という決断を促すことになっていたとしてもおかしくない。
「……それは、まずいな」
誇らしさはふっ飛んで、父は狼狽した。誇りなど刺客を防ぐのになんの役にも立たぬ。
逃げるか、という言葉が父の口から出て、ガスパーはそれは嫌だ、と思いつつ愕然とした。嫌がりつつも、そうするしかないかもしれぬ、と言うべき状況なのはわかってしまっていた。
逃げるなら、すぐに逃げるべきだと父は言う。その通りである。拒絶の意志が使者から伯爵に伝わり、排除の決断がされるまでの間に逃げるべきだ。
慌ただしく、逃走の準備が始まった。
ガスパーは初めての経験なのでまごついたが、両親はともに手慣れていて、かさばるものは惜しげもなく捨てた。
この家に監視がついていることは考えられたので、裏手の窓から真夜中に逃げようかという話になった。どうしても自分の姿を闇が包んでくれるであろうという期待から、逃走者は真夜中に逃げたくなる。
だが、途中で考え直して窓から逃げるのは父だけとし、母とガスパーは翌日陽が昇ってからいつものように家を出ることにした。いつものようにした方が監視の目を誤魔化せると踏んだのだ。父はいつも外に出ないため、出ただけで奇異に思われる恐れがあるので窓からである。
翌朝、いつも家を出る時間になるまで待っていると、母が何かを書いていた。
紙片に何かを書き、その上にゴールドを何枚も積み重ねている。
覗き込みながら尋ねると、家賃をはじめとする各種の支払いであった。住み慣れて仕事にもありつきやすくなった場所を慌ただしく離れるにあたって金は大いに頼みになる、というか無ければどうにもならぬ。
ガスパーは、支払をしていないものが幾つかあるだろうとはわかっていたが、至極当然のようにそのようなものは踏み倒して行くつもりであった。
もちろん、そんなもの置いていく必要は無い。逃亡するにあたって金は少しでも欲しいのだからと母に言った。
ガスパーは、母が特に深く考えもせずに、もうここに戻ってくることはないだろうからそれならば残った支払いをしていかなくてはいけないと思ったのだろうと見てそう言ったのだが、母はなにも考え無しにそうしているのではなかった。
「正統な伯爵として、不名誉なことになります」
と、母は言うのである。
正統ではない――ということになる現伯爵の使者か或いは刺客かがもう一度訪ねてきて家に誰もいないとなったら、行方を探すかもしれない。その過程で大家やその他の人々に自分たちの素性が知れてしまうかもしれない。
そうなれば、正統な伯爵と言いながら支払いを踏み倒して行ったのかと嘲笑されるに違いない。
そんなことになったらいけないから、こうして支払いを済ませて行くのだ、と言う。
それを聞いても、ガスパーにとってはその名誉云々の理由に価値を見出すことができずに、重ねて金は持って行こうと説得したのだが、傍らで話を聞いていた父が立ち上がり、母の言う通りにせよ、と口にした。目が、少し潤んでいた。
「私も、最初はガスパーと同じ考えだったが、お前の言う通りだ。不名誉になる」
それだけ言って腰を下ろし、後は黙った。
母は、嬉しそうに、紙の上にゴールドを積んでいた。
その時は、二人ともこれからどれだけそれが必要かわかっているはずではないか、と腹立たしいばかりだったが、後々になって多少は理解できるようになった。
父は、単純にヴェスカウ伯爵たる者がそのような不名誉な行為をしてはいけない、と考えたのであろう。
一方、母は、実家の父や兄が権力を濫用して私腹を肥やしたという噂を強く否定していた。その一族である自分が、僅かなりとも金に汚い、と言われることを恐れていたのかもしれない。
納得し難いが、自分一人で二人の説得は無理と諦めて、支払いのゴールドはテーブルに置いておくことにした。
逃走自体は、上手く運んだ。いつも家を出る時間に自分が、次いで母が家を出て、しばらくして父が窓から出た。
いつものようにぶらぶらと歩きながら、尾行者を気にしていたが、どうも杞憂に思えてきた。
二人ほど、仕事をやるかと声をかけてきた者がいたが、それに今日はもう決まっていると答えて歩いていき、街を出た。
街から離れたところで、両親と落ち合った。その間もずっと後ろに気を配っていたがやはり尾行はつけられていないようである。
二人に聞いても、そうであった。
「昨日ああも言ったから、さすがにすぐに逃げるとは思っていなかったのだろう」
と、父は言った。
ああも言った、というのは現伯爵の申し出に対する断りの口上である。悩む素振りすら見せずに頭ごなしに拒絶し、正統な伯爵としての権利を放棄するつもりは無いと言い切って追い返したのだ。
それを聞いた時は、妻子に養われる身分でようそんな居丈高な態度をとれるなあ、と呆れる思いであったが、なるほど、確かにそのように偉そうにしていた人物が、その翌日には、それなりに生活の基盤を築いている場所から逃げてしまうとは予測できないかもしれない。
そういうわけで、逃亡自体は上手く行った。だが、すぐにそのことがバレて追手がかかるかもしれないので、元いた街の近隣に落ち着くことはできない。
予想はしていたが、ここからが辛かった。
手持ちのゴールドはどんどん減っていき、新たなそれを得る機会は少ない。一番安い宿をとることすら躊躇われて橋の下で夜を過ごしたこともあった。
なんとかかんとか、幾つかの街を経て、ここまで来れば大丈夫だろう――というか、もうこれ以上は移動できんからここで落ち着くしかない、という所で逃亡の旅を止めて腰を下ろした。
下ろしたものの、ゴールドが尽きかけていた。
落ち着くのならば、宿屋に逗留し続けるよりも部屋を借りた方が安上がりなのだが、それにはまとまった金が要る。
そこで、父がとっておきを持ち出した。小さな、宝石である。
これまで散々にゴールドで苦労してきたガスパーにしてみれば、そんなものがあるなら早く出せと言いたいところであったが、こういうものは最後の最後まで取っておくものだという理屈も理解できぬでもなかったので黙っていた。
本来は一人者が住む賃料の安い部屋に三人で住み始めたが、早速困窮した。
ガスパーは十五歳という、もう大人として認められる年齢であり、身体も頑健であったために肉体労働の日雇い仕事にありつけたが、母の職場が容易に決まらなかった。
以前の街では、裁縫を請け負ういわゆるお針子仕事をしていたのだが、手が足りているということで断られた。それでも、一時的に大量の発注があり、それに対応しきれない時には仕事が貰えたが、以前よりも不安定であった。
つまりは、単純に収入が減った。
そして、この辺りからガスパーが、これまで我慢していた父への不平不満を口にし、時には当人に向かって難詰したために、両者が衝突することが多くなった。




