第十八話【蹄の女 Part2】
夕暮れの穴富会本部───────その広い敷地内。
灰色の砂利、その中央を真っ直ぐ伸びる石畳……そこに、二人。
赤いレザージャケットを羽織り、右腕から象牙色の『銘心鏤骨』を伸ばすト壱。
その数m先には、黒いワンピース。長い黒髪を夕風になびかせ、人間では有り得ない獣毛に覆われた『脚』と───────硬質な『蹄』を持つ女。
「どっちが先に折れるか───────試してみようぜ」
「あら───────まだやる気なの?」
女は黒いレザーマスク越しに、クスッ──────と小さく笑う。
つい先程、ト壱はこの女の蹴りをまともに喰らい、あの巨大な穴富会本部──────その玄関からここまで吹き飛ばされた。
左頬は赤く腫れ、鼻からは血……背中にも未だ、あの『後ろ蹴り』を喰らった鈍い痛みが残っている。
対して───────当の女は無傷である。息一つ乱していない。
どう見ても、現時点で優勢なのは女である。
「ハッ──────女に負けるのは布団の上って決めてんだよ」
ト壱は右腕の『銘心鏤骨』をブンブン──────と素振りする。
「喧嘩ってのはなァ───────いつの時代でも、最後に倒れてたヤツが負けなんだよ」
「嫌いじゃないわよ───────そういう単純な男」
ト壱はペッ─────と、口の中へ溜まった血混じりの唾を石畳へ吐いた。
───────そして、腰を僅かに落とす。
それに対し女の目が────────更に細くなる。
……瞬間────────ダダッ!!!
ト壱が石畳を蹴った。
一直線に、先程と同じ───────女との距離を一気に詰める。
右腕の『銘心鏤骨』を横薙ぎに振るう。
ブォンッ──────象牙色の刀身が、女の腹部を狙って右から左へ走る。
「同じ手ばかりで飽きてくるわ」
女は半歩だけ後ろへ。
スッ──────────と、それだけ。
刃先が黒いワンピースの表面、その数cm前を通過する。
空振り──────────だがト壱は止まらない。
横へ振り抜いた右腕を、そのまま今度は逆方向へ。
ブォンッ──────左から右へ、女の胸元を狙う。
しかし、女は上半身を僅かに後ろへ倒した。
スカッ─────空振り。
三撃目──────────今度は下から。
ト壱は膝を曲げ、『銘心鏤骨』を掬い上げるように────────斜め上へ振り抜いた。
女は首を少し横へ傾ける。
ギュンッっと、刀身が────────鼻先を通過。
「クソッ────────!!!」
四撃目は上から。五撃目は横。六撃目────────斜め。
右へ左────────上から下。
「ウラァッ!! オラッ!! 当たれやァァア!!!」
ト壱は────────荒々しく『外骨格の刀』を振り回す。
剣術など、型すらも無い。
ただ目の前の人間へ刃物を当てるためだけの───────喧嘩の動き。
対して女は────────まるで違う。
大きく跳ぶこともしなければ、ト壱から何mも距離を取ることもしない。
必要な分だけ動き───────必要な分だけ避ける。
ト壱の刃が右から来れば、ほんの僅か左へ。
最小限、それも────────余裕を持って。
再び『銘心鏤骨』が女の黒髪を僅かに掠める。
「あら危ない」
「その余裕はいつまで持つか──────測ってやらぁ!!!」
ブォンッ────────また振るう。
「その割には──────」
女はスッ───────と半歩下がる。
「一度も当たらないけど?」
ト壱は踏み込みながら、再び刃を横へ振る。
しかし────────空を切るだけ。
これで何度目か。既に十回近く、刀を振っている。
ト壱の肩が少しずつ上下する。
「ハァ……ハァ──────────!!」
一方───────女は変わらない。
呼吸すら乱れていない─────当然である。
ト壱は全身を使い、大きく刀を振っている。対して女は、それをほんの数十cmずつ移動して避けているだけ。
『消費する体力』が────────違い過ぎる。
「ねぇ、アナタ─────────ヤケクソなの?」
「ヤケかクソかは……まだ──────」
「さっきより酷いわよ?」
女は呆れたように目を細める。
「力任せに振り回して───────そンなので私に当たると思ってるの?」
「当てるさ……あと、もう少しで当たる」
「頭に血が上ると、本当にナンにも考えられなくなるのね───────男って」
ト壱の額に、再び青筋。
「だから……イチイチうるせぇんだよ!!」
女が笑う──────その瞬間。
ト壱の『銘心鏤骨』が────────大きく右側へ振り抜かれた。
しかし──────────空振り。さらにト壱の身体は、勢いに引っ張られるように右へ流れる。
「ほ〜ら、また」
女の目がまた細くなる。
右脚の蹄をコツンッ───────と、石畳へ置く。
そして────────左脚。膝を折り畳む。
獣毛に覆われた長い脚が、自身の身体へ引き寄せられるように小さく畳まれた。
「攻撃の『お手本』見せてあげるわよ」
次の瞬間、女の腰が────────回転。
──────────ブォォォォンッ!!!
折り畳まれていた左脚が、一気に解き放たれる。
先程の『蹄御前』……あの大きく振るミドルキックとは───────少し違う。
膝を曲げた状態から、その脚を横方向へ。
まるで────────コンパスで円を描くように。
獣の脚が、ト壱の上半身目掛け────────弧を描いて迫る。
「さっきよりもイタイわよ──────『御天馬蹄』!!!」
硬い蹄。まともに喰らえば、先程と同じ。
いや────────今度は刀で受けたところで、また二発目が来るかもしれない。
しかも、先程のものより確実に『速く』……そして狙いは『胸元』を捉えている。
しかし、ト壱は────────『銘心鏤骨』を動かさない。
女の目が僅かに見開く。
防御せず、右腕を挙げず、盾も作らない。
ト壱は────────腰から上、上半身だけを。
グンッ───────と後方へ、大きく反らした。
黒い蹄が────────ト壱の鼻先、その僅か数cm上を通過する。
風圧が前髪を揺らす。だが────────当たらない。
「あらあら─────避けられたのね」
女が呟く。
所謂───────『スウェー』である。
ボクシング等で用いられる、上半身を後ろへ反らし攻撃を避ける回避方法。
もちろん、ト壱はボクサーではない。正式な技術として学んだ事もない。
しかし、殴り合い……喧嘩。そんなモノを何度も繰り返していれば───────似たような動きくらい身体が勝手に覚える。
「やれば出来るもんだぜ」
仰け反ったまま、ト壱の口角が────────上がる。
「テメェだけじゃねぇんだよ───────避けられんのはな」
後ろへ反らした身体、その状態から────────腹へ力を込める。
反動、バネ、今度は身体を一気に前方へ。
「しゃオラァァァァ──────────!!!」
ト壱の上半身が跳ね起きると同時に───────右腕。
頭上まで『銘心鏤骨』を振り上げる。
「またそれ? 学ばない子ね」
女の目に、僅かな呆れ。先程も見た大振り。
真上から、ただ叩き落とすだけの────────力任せの縦斬撃。
ト壱の身体が前方へ流れた反動を、そのまま右腕へ。
刃が────────振り下ろされる。
「芸が無い犬みたい」
当然、女は────────右へ一歩。
スッ─────ト壱の刃が女の左肩、その横を通過する。
また空振り。『銘心鏤骨』が────────石畳へ突き刺さった。
──────────バッカーンッ!!!
硬い石畳の表面に亀裂が走り、細かな石片がパラパラと周囲へ飛び散る。
女はその光景を見下ろす。
ト壱は片膝をつき、右腕の刀を地面へ深く突き刺している。
完全な────────空振り。
「あらあら───────」
女はクスッと笑った。
「出来ないことは、出来るって言わないべきよ? 当たるわけないじゃないそんな大振りな攻撃」
「あぁ……そうだな」
ト壱の返事。それは妙に────────素直。
女の目が、僅かに細くなる。ト壱は俯いたまま。
右腕の『銘心鏤骨』。その象牙色の刀身は────────石畳へ深々と突き刺さっている。
「確かに─────動きの速いアンタにゃ当たらねぇ」
ト壱の左足が────────地面を踏む。
「ならよォ───────」
右腕を引き抜かない。
刀を────────そのままにする。
石畳へ突き刺さった『銘心鏤骨』。
それをト壱は────────『軸』にした。
「二発目はどうする? ──────ってヤツさ」
グンッ──────ト壱の身体が、大きく前方へ振られる。
突き刺さった右腕の刀、そこを中心に。まるで鉄棒に掴まった人間が身体を振るように。
『外骨格の刀』を『後方へ押し出す』ように。
先程まで縦斬撃へ乗せていた勢い。前方へ移動していた体重。
そして───────石畳へ刀が突き刺さったことで、強制的に止められた右腕。
その全てを────────殺さない。身体だけを前へ。
ドゴォンッ────────!!!
ト壱の左肩。いや────────小柄な身体、その全体。
それが砲弾のように、女の腹部へ────────真正面から衝突した。
「ぐッ───────!!?」
初めて女の表情が────────崩れた。
予想していなかったのだ。
刀が外れた。だから────────次の攻撃が来るとしても、一度刀を地面から抜いてから。
そう思った。しかし───────現実は違う。
ト壱にとって『銘心鏤骨』は、剣術をするための刀ではない。
今は、身体を押し放つための────────『棒』としてしか扱わない。
「テメェばっか避けてんじゃねぇぞ!!!」
ト壱は肩からさらに押し込む。足も────────石畳を蹴る。
「ちょっ待っ───────!!」
女の蹄が、石畳の上を擦る。
ズザザザザザッ────────!!!
僅か数秒前まで、ト壱の攻撃を最小限の動きだけで避けていた女。
その身体が────────今度は後方へ押されていく。
「クッ……!」
「その『ヒズメ』とやらで支えてみろよ!!!」
「この───────!!」
女がト壱の背へ肘を振り下ろそうとする。
が、しかし─────────その前に。
「オラッ!!!」
ト壱は────────さらに一歩、足を踏み込み、肩を押し込む。
女の身体が────────浮いた。ほんの僅か数十cm。
しかし確かに、両方の蹄が、石畳から離れる。
そのまま女の身体は────────後方へ吹き飛んだ。
女は空中で身体を捻り、長い黒髪が広がる。
そして右の蹄、左の蹄。二本とも────────石畳へ。
ザザザザザッ───────と、そのまま数mほど後方へ滑る。
女は低い姿勢で止まる。顔を上げると、レザーマスクのその上。
狐のように吊り上がった目が────────先程までとは違う。
「なるほどね───────」
ト壱も立ち上がる。
地面へ突き刺していた『銘心鏤骨』を────────バキッと強引に引き抜いた。
「考えてたのね」
「何をだよ──────」
「さっきの───────無茶苦茶な振り回し」
女はゆっくりと姿勢を戻す。
「私がどう避けるか───────パターンを見てたンでしょ?」
ト壱は鼻の下を擦る。
「んな大層なモンじゃねぇよ」
「じゃあ偶然?」
「テメェが避けてばっかだからよ」
ト壱は象牙色の刀身を右肩へ乗せる。
「どうせまた避けンだろうな〜───────って思っただけだ」
「それを───────『考えてた』って言うのよ」
女は────────少しだけ笑った。
だが、今までの、ト壱を馬鹿にするだけの笑いとは───────少し違う。
「面白いわね───────アナタ」
「あぁ……よく言われる」
女は一度───────自分の腹部へ手を置く。
先程ト壱の肩が衝突した場所、ワンピースに僅かな土埃。
「でも───────」
女がその埃を、パンパンッ──────と手で払う。
「まだ私、『倒れて』ないわよ?」
「一回当たっただけで勝ったと思うほど───────俺ァおめでたくねぇよ」
「あら、少しは頭冷えた?」
ト壱は答えない。
そして女は────────腰を低く落とした。
「なら───────」
右脚の黒い蹄が───────石畳を強く踏み締める。
「次は─────避けてみなさい」
女の両膝が────────大きく曲がる。
今までにないほど、長い獣の脚を……自身の身体の下へ折り畳むように。
まるでバネを────────限界まで縮めるように。
「おいおい…………」
ト壱の目が僅かに見開く。
女の太腿、獣毛に覆われた脛、筋肉が────────ギチッ……と膨らむ。
そして──────────ドゴンッ!!!
石畳が────────砕ける。
女の身体が────────真上へ跳ぶ。
いや、『跳ぶ』などという生易しい高さではない。
地上から4mほど、女の身体その全てが、夕暮れの空を背景に────────上空へ。
「マジかよ……」
ト壱が顔を上げる。
それは人間が、その場から跳躍して届くような高さではない。
だが────────あの脚なら。
一歩踏み込むだけで床板を沈ませる。
ト壱の身体を、本部の外まで吹き飛ばす。
その脚力を────────全て地面へ向けたのなら。
人間一人を4m上空へ跳ばす程度───────簡単なのかもしれない。
女は上空、その身体が────────頂点へ到達する。
一瞬。まるで────────夕空へ静止したように見えた。
ト壱から見えるのは、黒い影。
そして、女の身体が────────ゆっくりと傾く。
右脚を──────頭上へ。
ト壱へ向けて、長い脚を真っ直ぐ伸ばす。
左脚は畳む。右の蹄だけを────────ト壱へ。
「おいおいおい───────」
ト壱の頬が引きつり始めた。
何をするのかが分かる。分かりやす過ぎる。
数mもの高さから────────落下。
加速、自分自身の体重、さらに、あの人間離れした脚力。
よりによって、先端には───────鉄よりも硬そうな『蹄』
それら全てをト壱の────────頭上へ。
「死になさいおチビさん─────『鉈鉈馬蹄』!!!」
瞬間、女の身体が────────落ちる。
──────────ヒュオオオオオオ!!!
「冗談キツいぜ───────!!」
ト壱は────────逃げない。右腕の『銘心鏤骨』。
象牙色の刀身を────────上空へ向ける。
女は落ちてくる。その速度は、どんどん増していく。
黒いワンピースが激しくはためき、長い黒髪が────────上へ巻き上げられている。
そして────────蹄。
右脚の先端、黒く硬いそれが────────真っ直ぐ、自分へ。
ト壱は腰を落とす。左脚を前に、右脚を後ろに。
石畳を────────踏み締める。
両膝を曲げ、右腕を引く。まるで槍のように。
先程まで何度も振り回していた、一本の刀のその切っ先を、空から落ちてくる女へ────────真っ直ぐ突き出す。
「テメェが脚一本なら────────」
ギギッ───────ト壱の右腕。骨と肉、そして筋肉。
そこへ繋がる『外骨格の刀』───────全てへ力が入る。
「こっちも一本で勝負だ──────────!!!」
女の『蹄』、ト壱の『骨刀』……上と下。
互いの最も硬い部分が────────真正面から。
──────────ドシィィィィィィンッ!!!!
重い。金属音とも爆発音とも違う。
巨大な石でも地面へ落としたような────────腹の底へ響く『重低音』
衝突地点から────────灰色の砂埃が、一気に吹き上がった。
夕暮れの石畳。
ト壱と、そして────────獣脚の女。
二人の姿が────────砂埃の中へ消えた。




