番外編
アデルは、セレスティーヌにだけ敬語だった。
王族にも。
貴族にも。
騎士団長として接する相手にも。
必要な場面では敬語を使う。
だが普段は違う。
「クラウス、報告を持ってこい」
「マーサ、今日はもう休め」
「アーニャ、リュークを頼む」
基本的にタメ口。
部下相手にも、使用人相手にも。
それが普通だった。
なのに。
セレスティーヌにだけは違う。
『セレス、寒くありませんか』
『セレス、無理はしないでください』
『セレス、こちらへどうぞ』
名前だけは距離が近いくせに。
それ以外はずっと敬語。
そのせいで、邸宅の使用人たちは時々混乱した。
『仲良いのか距離あるのか分からないんですよね』
『いや仲は良いでしょう』
『めちゃくちゃ愛してますよね旦那様』
『それは疑いようがない』
なお。
本人だけは隠せているつもりだった。
「アデル」
「なんでしょう」
「それ」
ある日の夕食。
セレスティーヌが、少し呆れた顔をした。
「また敬語」
「…………」
「いつまで他人行儀でいるつもり?」
アデルがぴたりと止まる。
隣でリュークがスープを飲みながら首を傾げていた。
「とうさま、へん?」
「……変ではない」
「でも母様とお話するとき、なんかちがう」
子供は鋭い。
アデルが黙った。
セレスティーヌはくすくす笑う。
「前から思ってたの」
「…………」
「私にはずっと敬語よね」
アデルは答えない。
けれど否定もしない。
「別に嫌じゃないわ」
セレスティーヌが柔らかく言う。
「でも時々、不思議になるの」
その声は穏やかだった。
責めるでもなく。
怒るでもなく。
ただ純粋な疑問みたいに。
「どうして私だけ?」
食卓が静かになる。
アデルは少し視線を伏せた。
「……癖です」
「癖?」
「ええ」
「私だけ?」
「…………」
答えになっていない。
セレスティーヌがじっと見つめる。
アデルは困ったように息を吐いた。
「セレスには」
低い声。
「ちゃんとしたかったんです」
「ちゃんと?」
「雑に扱いたくなかった」
その言葉に。
セレスティーヌの目が少し丸くなる。
「……何それ」
「そのままの意味です」
「夫婦なのに?」
「だからです」
真顔だった。
本気で言っている。
セレスティーヌは数秒黙ったあと、ふっと吹き出した。
「アデルって、変なところ不器用よね」
「否定はしません」
「もっと普通でいいのに」
アデルは返事をしなかった。
ただ。
どこか苦しそうに見えた。
事件が起きたのは、その数日後だった。
北の街で、小規模な崩落事故が起きた。
市場近くの古い建物。
幸い大規模ではない。
だが通行人が巻き込まれた。
「団長!」
「状況は」
「内部に数人取り残されています!」
アデルは即座に動いた。
騎士たちへ指示を飛ばし、自ら瓦礫の中へ入っていく。
そんな中。
「アデル!」
聞き慣れた声が響いた。
アデルが振り向く。
「……セレス?」
そこにいたのはセレスティーヌだった。
アーニャと共に、お忍びで炊き出し支援へ来ていたらしい。
「どうしてここに」
「怪我人の手当をしてるの」
そう言った瞬間。
嫌な音がした。
みしり、と。
上を見上げる。
崩れかけた建物。
そして。
「奥様!!」
誰かが叫んだ。
考えるより先に身体が動いていた。
アデルは瓦礫を蹴り飛ばし、一気にセレスティーヌへ駆ける。
崩落。
土煙。
轟音。
「っ……!」
セレスティーヌを抱き寄せたまま、地面へ転がる。
背中へ衝撃。
鈍い痛み。
けれどそんなことどうでもよかった。
「セレス!」
思わず叫ぶ。
「怪我は!? どこか打ったか!?」
息が乱れる。
心臓がうるさい。
セレスティーヌが目を見開いていた。
「アデル……」
「返事しろ!」
声が荒い。
珍しいほどに。
「大丈夫、だから……」
「どこが!」
アデルは完全に冷静さを失っていた。
「血が出てる!」
「かすり傷よ」
「違う!」
抱き込む腕に力が入る。
怖かった。
危なかった。
本当に。
一瞬遅れていたら。
もし間に合わなかったら。
そんな想像が頭をよぎるだけで、息が詰まる。
「……アデル」
セレスティーヌがそっと頬へ触れた。
「大丈夫」
「…………」
「私はちゃんといるわ」
アデルが目を閉じる。
苦しそうに。
縋るみたいに。
「……頼むから」
ぽつりと。
掠れた声が落ちる。
「無事でいてくれ…。セレスを…失いたくない…」
その瞬間。
セレスティーヌの目が静かに揺れた。
今の言葉。
今の声。
全部。
敬語じゃなかった。
自然に。
咄嗟に。
全部、剥がれていた。
「…………」
「…………」
二人とも気付いた。
アデルも、はっとした顔をする。
けれど。
セレスティーヌはゆっくり笑った。
とても優しく。
「うん」
その手が、アデルの頬を撫でる。
「その方が好き」
アデルが固まる。
完全に。
耳まで赤い。
セレスティーヌが吹き出した。
「今さら照れるの?」
「……うるさい」
「ふふ」
「笑うな」
低い声。
でも。
その言葉はもう、自然だった。
セレスティーヌが少し目を細める。
「……アデル」
「なんだ」
「愛してる」
一瞬。
アデルが目を見開く。
それから。
本当に少しだけ笑った。
「オレも、愛してる」
その声は穏やかだった。
ずっとあった最後の壁が、ようやく消えたみたいに。
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