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【完結】追放された悪役令嬢は氷の騎士と静かに人生を取り戻す~復縁は望みませんが、謝罪は受け取ります~  作者: モーヒアス


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番外編

マーサ回

 朝の食堂に、穏やかな声が響いている。


「リューク、口の端に付いていますよ」


「ん」


「こら、ちゃんと座って食べなさい」


「はーい」


 くすくすと笑うセレスティーヌ様。

 元気よく返事をするリューク坊ちゃん。


 そして。


「……熱いなら無理に飲むな」


「アデル様、それは野菜スープですから栄養のためにしっかり飲んでいただかないと坊ちゃんのためになりません」


「……ゆっくり飲むんだぞ」


 本気で言っている旦那様。


 マーサは思わず目を細めた。


 今日も平和だ。


 本当に。


 奇跡みたいに。


 旦那様――アデル様に仕え始めた頃を思い出す。


 まだ邸宅も今ほど大きくなく、使用人の数も少なかった頃。


 若くして武勲を立て続けた旦那様は、すでに“氷の騎士”と呼ばれていた。


 強く。

 恐ろしく。

 近寄り難い。


 そんな噂ばかりが先行していたけれど。


 実際に会ってみた感想は。


(……この方、放っておいたら倒れるのでは?)


 だった。


 まず生活能力が壊滅的だった。


 食事を忘れる。


 眠らない。


 怪我を隠す。


 服を適当に椅子へ積む。


 そして何より。


 人に頼らない。


 当時の旦那様は、まだ若かった。


 けれど若いからこそ、無茶だった。


 討伐から血だらけで帰ってきても、


『問題ない』


 の一言。


 高熱を出していても、


『寝れば治る』


 で終わらせようとする。


 寝ないから治らないのだが。


「旦那様」


「なんだ」


「熱があります」


「ない」


「あります」


「気のせいだ」


「熱がないのでしたら、その証明に体温を計らせていただきます」


「……ああ」


「四十度近くあります」


「…………」


 本気で不思議そうな顔をなさるのだから困る。


 しかも。


 倒れる寸前まで働く。


 ある時など、討伐から帰宅後、そのまま執務室へ向かおうとしていたので。


『寝なさいませ』


 と通せんぼしたことがある。


 すると旦那様は真顔でこう言った。


『……マーサ』


『はい』


『退いてくれ』


『嫌です』


『仕事がある』


『旦那様は今にも倒れそうです』


『問題ない』


『問題あります』


 押し問答の末。


 最終的に数人ががりで引きずるように寝室へ押し込んだ。


 後日。


 若い騎士たちにその話をすると、なぜか皆真顔でこう言った。


『あの団長を押し切れるの、マーサさんくらいです』


 解せぬ。


 けれど。


 そんな旦那様が、一番壊れていたのは。


 心だったのかもしれない。


 当時の旦那様は、驚くほど何も望まなかった。


 褒賞にも興味がない。


 贅沢もしない。


 騎士として功績を積み続けても、どこか空っぽで。


 まるで。


 生きることそのものが義務みたいだった。


 だからマーサは、ずっと願っていた。


 この方に。

 いつか。


 帰りたいと思える場所ができますように、と。


 そして。


 セレスティーヌ様が来た。


 最初の日を、今でも覚えている。


 美しい方だった。


 けれどそれ以上に、痛々しいほど静かな方だった。


 笑っていても。

 微笑んでいても。


 どこか壊れそうで。


 旦那様もまた、ぎこちなかった。


 今思えば、最初からかなり意識していたのだろう。


 本人は隠せているつもりだったようだが。


 全く隠せていなかった。


 例えば。


「旦那様」


「なんだ」


「同じ場所を五往復されています」


「…………」


「セレスティーヌ様のお部屋の前を」


「偶然だ」


「五回も?」


「…………」


 分かりやすい。


 本当に分かりやすい。


 しかも。


 旦那様は恋愛方面になると壊滅的に不器用だった。


 ある冬の日。


 セレスティーヌ様が寒そうにしていた。


 すると旦那様は無言で外套を掛けた。


 そこまでは良い。


 問題はそのあとだった。


『……返さなくていい』


 低い声でそう言い残し、真冬の廊下を薄着で去って行ったのである。


 案の定。


 翌日熱を出した。


 何をしているのか。


 セレスティーヌ様が心配して付き添っていたが、旦那様は終始顔が死んでいた。


『うつる』


『うつりません』


『近い』


『看病です』


『…………』


 耳だけ真っ赤だった。


 分かりやすすぎる。


 けれど。


 少しずつ。


 本当に少しずつ。


 旦那様は変わっていった。


 帰宅が早くなった。


 食事を取るようになった。


 笑うようになった。


 セレスティーヌ様がいるだけで、邸宅の空気そのものが変わったのだ。


 そして。


 リューク坊ちゃんが生まれて。


 旦那様はさらにおかしくなった。


 良い意味で。


 初めて抱っこした時など、顔が完全に固まっていた。


『……軽い』


『赤ちゃんですから』


『壊れないか』


『壊れません』


『本当に?』


『本当にです』


 魔物相手には一歩も引かない男が、赤子相手に震えていた。


 しかも夜泣きが始まるとさらに酷かった。


『マーサ』


『はい』


『泣き止まない』


『赤ちゃんですので』


『苦しいのではないか』


『眠いだけです』


『本当に?』


『本当です』


 毎晩これである。


 最終的には。


 リューク坊ちゃんが少し咳をしただけで医師を呼ぼうとした。


『旦那様』


『なんだ』


『過保護です』


『普通だ』


『普通ではありません』


 セレスティーヌ様も苦笑していた。


 でも。


 そんな日々が、マーサは嬉しかった。


 だって昔の旦那様は。


 こんなふうに誰かを大事にして。

 大事だからこそ振り回されて。


 そんな未来を想像できる人ではなかったから。


「マーサ」


「はい?」


 食堂から声がする。


 顔を上げると、リューク坊ちゃんが手を振っていた。


「いっしょに食べよう!」


「まあ」


 思わず笑みが零れる。


「ですが私は仕事が」


「少し休め」


 旦那様が言った。


「旦那様」


「いつも働き過ぎだ」


「それを旦那様が仰いますか」


「…………」


 黙った。


 隣でセレスティーヌ様が吹き出す。


「ふふ……その通りですね」


「母様!」


「はいはい」


 賑やかな声が響く。


 温かい。


 本当に。


 あの静かだった邸宅が嘘みたいに。


 マーサはそっと目を細めた。


 食卓には。

 愛しい人たちがいる。


 守りたかった幸せがある。


 そして旦那様は今、ちゃんと笑えている。


(……良かった)


 心から、そう思った。


 この方は。

 ようやく。


 幸せになれたのだと。


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