番外編
――その日は、やけに静かだった。
「……発声が増えていますね」
アデルが真剣な顔で言う。
視線の先では、子供が床に座り、何やら「あー」「うー」と声を出している。
「ええ、そうね」
セレスが微笑む。
「そろそろかもしれないわ」
「……そろそろ」
その言葉に、アデルの背筋がわずかに伸びる。
――来る。
その時が。
「記録すべきでしょうか」
「記録?」
「最初の言葉です」
真剣そのものだった。
「覚えておけばいいのよ」
「忘れる可能性もあります」
「忘れないわよ」
「……万が一がありますので」
完全に本気である。
セレスは少しだけ笑った。
「じゃあ、好きにしていいわ」
「そうします」
即答だった。
数分後。
アデルは机に向かっていた。
紙とペン。
そして妙に整った筆跡で、こう書かれている。
――「初語録」
「……準備は整いました。記録石も用意しておくべきでしょうか」
「そこまで?」
「重要なことなので」
セレスはもう止めなかった。
その時。
「あー……」
リュークがこちらを見た。
そして。
口を動かす。
「…………」
空気が張り詰める。
アデルが固まる。
セレスも息を止める。
そして――
「……ま」
「…………!」
アデルの目が見開かれる。
「今、“ま”と言いましたね」
「言ったわね」
確認するように繰り返す。
そしてゆっくりと、セレスの方を見る。
「……これは」
「ええ」
セレスが優しく笑う。
「“ママ”ね」
「…………」
一瞬、止まる。
だがすぐに、頷いた。
「……そうですね」
どこか納得したように。
だが。
ほんのわずかに。
ほんのわずかにだけ。
沈んでいる。
「まあ、最初は大体そうよ」
セレスがフォローする。
「発音しやすいの」
「……合理的です」
アデルが頷く。
完全に理屈で処理している。
「……問題ありません」
「そう?」
「ええ」
だが。
視線はまだリュークに向いている。
どこか期待を残したまま。
数分後。
「……あ」
再び声が出る。
アデルが即座に反応する。
「今のは“あ”ですね」
「ええ」
「次が来る可能性があります」
なぜか分析が始まる。
「アデル、そんなに構えなくても――」
その瞬間。
「……ぱ」
「…………!!」
止まった。
完全に止まった。
「……今」
ゆっくりと、確認するように。
「“ぱ”と言っいましたか!?」
「言ったわね」
セレスも少し驚いている。
「……“ぱ”」
繰り返す。
そして。
ゆっくりと、子供の前にしゃがむ。
「……もう一度」
真剣だった。
だが。
「ばー」
「…………」
違った。
「……惜しい」
「そうね」
セレスが笑いをこらえている。
「今の間に魔力石を取り寄せましょう」
その日の夕方。
「……『パパ』はまだでしょうか」
アデルが呟く。
「気長にお待ちください」
マーサが即答する。
「言葉は個人差があります」
「……分かっている」
だが落ち着かない。
「アデル様」
「なんだ」
「そろそろ執務室にお戻りください」
「昼間に全て終わらせた」
「いいえ、業務に支障が出ます」
「問題ない」
「あります」
いつものやり取りである。
そして。
その瞬間は、あまりにも突然に訪れた。
夕食後。
穏やかな時間。
セレスが子供を膝に乗せている。
アデルはその向かい。
何気ない、いつもの光景。
その中で。
「……ぱぱ」
小さな声。
だが、はっきりと。
「…………」
時間が止まる。
「…………」
もう一度。
「……ぱぱ」
確定だった。
次の瞬間。
アデルが立ち上がる。
勢いよく。
「今のは」
「聞いたわ」
「“ぱぱ”と!」
「ええ」
「……私ですね」
「あなたね」
「…………」
完全に固まる。
数秒。
いや、もっとかもしれない。
そして。
「……もう一度」
しゃがむ。
今度は、さっきよりもずっと近く。
「……言えるか?」
静かに。
優しく。
問いかける。
「……ぱぱ」
あっさり言った。
「…………」
沈黙。
そして。
「……そうか」
声が震えていた。
「……そうか」
二回言った。
完全に処理が追いついていない。
セレスがくすっと笑う。
「よかったわね」
「……ええ」
「嬉しい?」
「…………」
少し間があって。
「……かなり」
控えめに言ったつもりだった。
だが。
全く隠せていない。
「アデル様」
マーサが声をかける。
「はい」
即答だった。
「先ほどから同じ場所で止まっておられますが」
「問題ない」
「ございます」
「……そうか」
だが動かない。
リュークを見たまま。
「……もう一度」
「だめよ」
セレスが止める。
「言わせすぎると飽きるわ」
「……そうなのですか」
「ええ」
「…………」
少し考える。
そして。
「……では、待ちます」
素直だった。
その後。
しばらくして。
「ぱぱー」
今度は、少し伸びた。
「…………」
アデルがゆっくりと顔を上げる。
「……呼ばれているのでしょうか」
「そうね」
「……私を」
「ええ」
「…………」
完全に、崩れた。
静かに、子供を抱き上げる。
その動きは、いつもよりずっと慎重で。
そして。
「……ここだ。リューク、パパはここだ」
小さく呟く。
自分の胸に、そっと寄せるように。
子供が笑う。
嬉しそうに。
その顔を見て。
「……そうか」
また同じ言葉を言った。
だが今度は。
少しだけ、笑っていた。
「ねえアデル」
「なんでしょうか」
「記録、したら?」
「…………」
一瞬止まって。
そして。
「……ええ」
すぐに机へ向かう。
先ほどの紙を開く。
そして、書く。
――「初語:ぱぱ」
少しだけ迷って。
付け足す。
――「二回確認、記録石に記録済み」
さらに。
――「非常に明瞭」
「細かいわね」
「重要なことなので」
真顔だった。
アデルのいない昼間に
「まま」
「まーちゃ」
「あにゃ」
と言ったことは黙っておいたセレスであった。
「2人には口止めしておきましょう」
世話の焼ける騎士様である。
夜。
寝室。
子供はすやすやと眠っている。
「……今日」
「なに?」
「……パパと呼ばれました」
「ええ」
「私を」
「そうね」
「…………」
しばらく黙って。
そして。
「……守ります」
「もう守ってるわ」
「足りません」
「ふふっ」
「……もっと」
「ええ」
その夜。
アデルは何度も目を覚ました。
泣き声ではない。
ただ、確認するために。
そしてそのたびに。
「……ぱぱ」
昼の声を思い出して。
少しだけ、口元が緩んだ。
氷の騎士は。
戦場では一度も崩れなかった男は。
たった一言で。
完全に、崩壊した。
それはきっと。
どんな勝利よりも――
価値のある敗北だった。
感想、レビュー、☆、励みになります(小躍りします)




