番外編
――それは、ある晴れた日の朝だった。
「……リュークがいない」
アデルの一言で、屋敷の空気が変わった。
「え?」
セレスが顔を上げる。
「さっきまで、ここにいたはずなんです」
視線の先は、絨毯の上。
ほんの少し前まで、そこにいたはずの小さな存在。
「……マーサ」
「はい」
「見ていないか」
「今朝から三回目です」
「…………」
既視感しかない。
「――いた」
数分後、庭で発見された。
芝生の上。
泥だらけで。
満面の笑みで。
「……なぜ外に出ている」
「旦那様、子供と言うのは瞬きをした瞬間に消えてしまう生き物です」
「そうなのか」
アデルの声が低い。
だが怒りではない。
困惑と、ほんの少しの尊敬だ。
どうやって出たのか分からない。
「まあ……元気ね」
セレスは苦笑する。
「元気すぎます」
アデルが即答する。
リュークは手に泥をつけたまま、アデルに向かって手を伸ばした。
「あー」
「……リューク、まずは手を洗おう」
反射的に一歩下がる。
「アデル?」
「……分かりました」
観念したように、しゃがむ。
そして――
抱き上げた瞬間。
見事に服へと泥が移った。
「…………」
「ふふっ」
セレスが笑う。
「似合ってるわよ」
「アリガトウゴザイマス」
真顔だった。
その日の昼。
「……静かですね」
アデルが呟く。
「嫌な予感がするわね」
セレスも同意する。
子供が静かな時。
それは大抵――
「……マーサ」
「はい」
「確認を」
「すでにしております」
仕事が早い。
「どこだ」
「厨房です」
「厨房?」
その瞬間、嫌な予感が確信に変わる。
急いで向かうと。
そこには――
粉雪のように舞う、小麦粉。
床一面、白。
そして中央に、犯人。
「…………」
完全に固まるアデル。
子供は手を叩いていた。
ぱん、ぱん、と。
そのたびに白い粉が舞う。
「……雪か」
「違うわ」
セレスが即答する。
「小麦粉よ」
「……そうですか」
状況の整理が追いついていない。
「……なぜこうなった」
「旦那様、申し訳ありません!瞬きをした瞬間にこんなことに……」
「アーニャ、子供というのは瞬きをした瞬間に消える生き物だそうだ」
「私、もう瞬きしません」
「好奇心ですね」
マーサが淡々と説明する。
「棚に手が届くようになりましたので」
「……対策は」
「講じております」
「……結果がこれか」
「ええ」
完敗である。
その後。
風呂場。
「……動くな」
アデルは真剣だった。
湯船の中で、子供がぱしゃぱしゃと暴れている。
「分かっているが動くな」
「アデル、そんな言い方しても無理よ」
「……ではどうすれば」
「楽しませてあげればいいの」
「楽しませる……」
少し考える。
そして。
「……山賊を壊滅させた話をしよう。あれは楽しかった。切っても切って「やめて」
即止められた。
数日後。
「……なぜだ」
アデルが呟く。
視線の先は、本棚の上。
そしてその上に――
いる。
「なぜ登れる」
「登ったのよ」
セレスが言う。
「……もう降りられるのでしょうか?」
「降りられないから呼んでるのよ」
「あー!」
呼ばれた。
「…………」
無言で近づく。
そして抱き上げる。
その瞬間。
きゃっきゃと笑う。
「……楽しいのか」
「楽しいのよ」
「理解できません」
「そのうち分かるわ」
「…………」
たぶん分からない。
ある日。
事件はさらに進化する。
「……いない」
またである。
「今度はどこ?」
「……気配がない」
嫌な言い方だった。
「まさか外じゃ――」
「いえ」
マーサが静かに言う。
「おります」
「どこだ」
「ここに」
足元だった。
「…………」
「わ、私は瞬きせずにいたので気付いてましたよ!?」
「アーニャ……」
テーブルの下。
小さく丸まって、リュークがこちらを見ている。
そして。
「ばぁ!」
「……驚かせるな」
全く驚いていない声だったが。
ほんの少しだけ肩が揺れていた。
セレスが吹き出す。
「今、びっくりしたでしょ」
「していません」
「したわね」
「シテイマセン」
だが二回目の「ばぁ!」で。
確実に反応した。
「…………」
「ふふっ」
完全に負けている。
夕方。
ようやく落ち着いた時間。
……のはずだった。
「……重い」
アデルが呟く。
腕の中で、リュークが眠っている。
「横にすればいいじゃない」
セレスが微笑む。
「……私はここから動けません」
「横抱きのまま置けばいいのよ」
「……起きます」
「置き方が下手なのよ」
「…………」
少しだけ不服そうだ。
「貸して?」
「……大丈夫です」
一瞬、躊躇する。
「このままでいいです」
「腕、疲れるわよ?」
「問題ありません」
そして数分後。
「……し、しびれる」
「ほら」
「……まだいけます」
完全に意地である。
夜。
寝室。
ようやく静けさが戻る。
「……今日もすごかったです」
アデルがぽつりと呟く。
「ええ」
セレスが笑う。
「毎日すごいわ」
「……守る対象が増えたと思っていましたが」
「違うの?」
「……毎日リュークに振り回されているだけです」
「ふふっ」
「やめてください」
「だって」
セレスは少しだけ身を寄せる。
「楽しそうよ?」
「…………」
少し考える。
そして。
「……否定はしません」
相変わらず素直だった。
その時。
小さな声がする。
目を覚ましたらしい。
「……行きます」
アデルがすぐに立ち上がる。
「一緒に行くわ」
「休んでてください」
「大丈夫よ。私もあの子の親よ?一緒に行きましょう?」
「…………」
少し迷って。
「……では、一緒に」
「ええ」
子供部屋。
ベッドの中で、こちらを見ている。
「あー」
手を伸ばしてくる。
アデルが抱き上げる。
今度は、迷いがない。
「……どうした」
優しく声をかける。
すると。
小さな手が、アデルの頬に触れた。
「…………」
一瞬、止まる。
「……柔らかい」
セレスが笑う。
「あなたの方がね」
「そうですか」
よく分かっていない。
だが――
子供が嬉しそうに笑う。
それだけで十分だった。
「ねえアデル」
「なんでしょう?」
「幸せ?」
「……もちろんです」
即答だった。
「想定していたより、騒がしいですが」
「ふふっ」
「ですが」
少しだけ、子供を抱く腕に力が入る。
「……幸せを噛み締めています」
「ええ」
「むしろ」
一拍置いて。
「……騒がしいのが良いのかもしれません」
セレスが優しく笑う。
「知ってるわ。私も好きよ?騒がしいのも、リュークも……あなたも」
やんちゃで。
手がかかって。
予想外ばかりで。
それでも。
氷の騎士は今日も――
完全に敗北している。
小さな存在に。
そして。
その敗北を、誰よりも大切に思っていた。
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「最弱魔法しか使えない奴隷少年、捨てられた森で覚醒する〜森を支配する力で無双し成り上がる〜」
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