(9)小田家の義侠
木戸法季は、若犬丸に祇園城を奪われ、かつ古枝山の合戦でも敗れた責任を問われて下野守護を更迭された。代わって、下野守護には旧小山領に隣接する下総結城家当主、結城基光が就任した。基光の正室は義政の姉、つまり若犬丸にとって伯母であり、結城家と小山家とは姻戚関係にあったが、結城家は一貫して鎌倉府軍の一員として行動し、小山家には組しなかった。
鎌倉府ではその後も若犬丸の捜索を続けていたが、その行方は杳として判明しなかった。
若犬丸の挙兵から約一年後の至徳四年(一三八七)五月十三日、一人の囚人が下総古河から鎌倉府へ護送されてきた。
「この者、聞き捨てならぬ証言をしたゆえ、鎌倉府にて仔細に尋問なさるが至当と思い候」
氏満配下の古河代官、野田等忠の添状にはそう書かれてあった。
「常陸国筑波郡の小田城に小山若犬丸が潜伏しており、再び鎌倉府への反抗を企てている」
鎌倉府で尋問を受けた囚人はそう証言し、自分は小田家家臣であると自称した。
小田家は、常陸国南部に勢力を張り、小田城を本拠とする有力武家である。常陸守護職には就いていないものの、守護を世襲する佐竹家にも引けをとらない所領と武力を有し、しかも現当主である小田孝朝の位階は従四位下と、東国武家では異例の高位にあった。
小田家は、小山義政討伐戦で武功を挙げたが、当時、孝朝は義政を攻める一方で、幕府と氏満に対して小山家の存続と、義政の助命を嘆願してもいた。
「義政の違背行為は看過すべきではないものの、鎌倉府の武威の下に義政が降伏した暁には、寛仁大度をもって小山家を赦すのが明主の道であると考えます」
孝朝はそう具申したが、結果的に、三たび背いた義政の小山家は取り潰され、孝朝の提言通りには事は進まなかった。
それどころか、氏満が関東武家の勢力削減対象として小山家の次に目をつけたのが、他ならぬ小田家であった。
二年前の十月、氏満は小田家に対し、その所領の一部を鎌倉明月院へ寄進するよう命じた。寄進と言えば聞こえは良いが、実質的には没収であり、小田家は不承不承ながら氏満の命に従わざるを得なかった。孝朝は、小田家が氏満に狙われていることを自覚していた。
一年前、祇園城を占拠した若犬丸は、氏満に反感を抱いていると思われる北関東のいくつかの武家あてに合力を求める書状を送ったが、小田家もその中に含まれていた。書状を受け取った孝朝は、小山家への合力は無理ながらも、もし祇園城を退去するようなことがあれば、小田家にて若犬丸の身柄を引き受ける用意がある旨の文書をしたためた。
孝朝がその文書を発送する前に、若犬丸は塔本の夜襲に失敗し、行方をくらました。
その後、夜風の衆の頭、井野権兵衛が密かに小田城へやってきて孝朝に拝謁し、若犬丸が健在であることと、若犬丸が小田家との提携を望んでいることを伝えた。
「どういう形の提携かはともかく、名門小山家のご当主ともあろうお方が、山間にて風雨を避けるお暮らしをされているのを知って知らぬふりはできない。粗餐などお出しするゆえ、時機到来まで当家にてご滞在されては如何か?」
孝朝がそう言ったため、若犬丸はその厚意に甘えて小田城へ入城することとなった。
「事を急ぐべきではありません。情勢は日々刻々と変化します。当面は英気を養うことに専念し、今後についてはおいおいお考えをまとめるのがよろしいでしょう」
孝朝にそう言われた若犬丸は、その通りだと思った。氏満への再蜂起は時期尚早である。いずれは氏満へ反感を抱く武家が結束し、一大勢力となる日も来るであろう。その日までは小田城にて息を潜めて暮らす。
そう見定めた若犬丸だったが、小田城に潜伏していることが氏満に露見してしまった。
折しも、囚人が鎌倉府へ護送されてから一ヶ月後の六月十三日、小田孝朝が嫡男治朝と、その弟孫四郎を連れて鎌倉へ出仕したが、三人とも鎌倉府で身柄を拘束された。
孝朝は、若犬丸を匿っているであろうと詰問されると、その事実を認めた。
「小山家当主である若犬丸殿の窮状を知りながら、人として素知らぬ顔などできぬ」
鎌倉府側は、若犬丸の身柄引き渡しを要求したが、孝朝はそれを拒否した。
「当方が手を差し伸べた御仁を引き渡すことなど、できるはずがない。もしそんなことをすれば、小田家は信義にもとる弓取りよと世間からの嘲笑を浴び、武門としての信用を失墜してしまう。すなわちそれは小田家の死である。たとえわしと息子たちの命が奪われるとしても、その事態だけは避けなければならない」
それなら小田城を攻め落とすぞと脅しをかけられても、孝朝の答えは変わらなかった。
七月十九日、氏満は若犬丸を捕縛すべく、上杉朝宗を大将とする軍勢を小田城へ差し向けた。孝朝は拒否しても、城を守る孝朝の息子なら若犬丸を差し出すであろうと期待した。
だが、期待通りにはならなかった。
「小田家の武門にかけても、若犬丸殿の引き渡しには応じかねる」
小田城を守備していた孝朝の子、直高、重知兄弟も、そう言って若犬丸の引き渡しを拒絶した。小田孝朝父子は、みな信義を重んじる武人たちであった。
不首尾に終わったとの復命を受けた氏満は、むしろこれを小田家を滅ぼす絶好の口実を得たものと捉え、関東各武家あてに小田城攻略の陣触れを発した。
「それがしを匿い通すために、家名を賭してまで鎌倉府を敵に回す小田家の志操の高さ、私はどうお詫びすれば良いのか言葉が見つかりません」
若犬丸は、申し訳ない気持ちと同時に、武家としての一分を貫き通す小田家の心意気に打たれ、感涙にむせびながらそう言った。
「氏満の狙いは、関東の有力武家の勢力削減にあることは明白です。小山家がまず槍玉に挙げられ、次に当家が狙われたまでです。若犬丸殿を匿ったか否かは一つのきっかけに過ぎず、いずれ氏満は何かしら口実をでっち上げて小田家討伐の軍を起こしたことでしょう。もとより、当家には戦う以外の選択肢はありません。
ただ、事ここに至った以上、若犬丸殿が当家に滞在し続けるのは危険です。心苦しくはありますが、新天地を求めて早々にここをお立ちになるのが得策です」
直高、重知兄弟にそう言われた若犬丸は、共に戦うと申し出たが、小山家の手兵がない以上、それは無用のことだと断られた。実際若犬丸には、身辺を警護する夜風の衆のほかに動員できる兵力はなかった。
若犬丸は、二人に感謝の意を述べて、小田城から退去した。
氏満の陣触れに対し、一部の武家は出兵に応じなかった。
「小田家が小山若犬丸を匿い、その引き渡しを拒んだということが、果たして討伐軍を起こすほどの違背なのか?」
そう疑問を抱く者もいたが、それでも一定の軍勢が集結し、小田城へ進軍した。
鎌倉府軍の攻撃を受けた直高、重知兄弟や重臣の信太氏、岩間氏らは、不利を悟って小田城を捨て、約七里北にある男体山の砦に立て籠もった。
小田軍は男体山で奮戦し、その攻防は約九ヶ月間に及んだが、嘉慶二年(一三八八)五月十八日、敗北を悟った小田軍は砦に火を放ち、直高、重知兄弟ほか約百人が自刃、ついに男体山は陥落した。
鎌倉府は、若犬丸の行方を捜索したが、判明に至らなかった。




