(10)奥州の田村庄司を頼る
鎌倉で捕縛された小田孝朝父子は、幕府の命によって赦免され、小田城は小田家に返還された。小田家への懲罰は、一部の所領没収と、嫡男治朝の那須家預かりという内容で決着し、氏満が目論んだ小田家の改易は実現しなかった。
氏満は幕府の介入が不満だったが、幕府側には、氏満ならびに鎌倉府の必要以上の勢力増大を懸念し、野党としての小田家を楔として残す選択をした形跡があった。
この年の九月、将軍義満は富士山遊覧のため、駿河国へ下向した。この義満の行動には、氏満の野心を牽制する狙いが含まれていたとの専らの噂だった。
鎌倉府の目を逃れて行方をくらました若犬丸は、奥州にいた。
小田城を退去後、北へ移動し、旧小山領だった菊田荘に入った。夜風の衆の根回しで菊田荘在住の小山家支援者の協力を取り付け、そこに落ち着いた。
後日、小田軍が籠った男体山落城の報を聞いたとき、若犬丸の胸は痛んだ。
「わしを庇護してくれた小田家に多大なる迷惑をかけてしまった」
そう自分を責め、一時は氏満への反抗などもうやめようとさえ思った。
だが、と若犬丸は考えた。
人にはそれぞれ、個々が胸に抱く志や思いがあり、それに共鳴する人と結びつくことがある一方、反目する人と軋轢を生むこともあり、畢竟、それが生きるということの実態である。すべての人の利害が一致する世の中など、望むべくもない。
小田家が若犬丸を庇護したのは、小田家がそれを是と判断したからであり、氏満からの若犬丸引き渡し要求を拒み、あえて鎌倉府軍との戦に臨んだのも、同様に小田家の判断である。小田家は、天晴れにも身命を賭して武門の矜持を貫く決断をしたのであって、ここで若犬丸が節を屈して氏満への反抗をやめれば、それこそ小田家のせっかくの奮闘を無にすることになる。今後も支援者が存在する限りは、初志を貫いて氏満への反抗を続けることこそ、小田家へ謝意を示すことにつながるはずだ。
そう思い至った若犬丸は、もう迷わなかった。
「わしは死ぬまで、氏満への反抗を続ける」
現実的に、小山家再興は難しい。だが、自分が氏満の目の上の瘤となり、氏満のやり口に対し非を鳴らし続けることが、自分が生きる意義であると覚悟を決めた。
菊田荘に潜伏してから三年後、夜風の衆の奔走により、陸奥国田村荘を管理する庄司である田村則義、清包父子との提携が決まり、若犬丸は菊田荘から北西約十五里の場所にある則義の居城、宇津峰城へ入城した。
田村家は、これまで南朝方勢力として戦い続けてきた武闘派であり、足利尊氏存命中は周辺の北朝勢力との抗争に明け暮れていた。近年は平穏が続いていたが、南朝方としての火種は持ち続けており、関東から陸奥へ流れてきた新田家残党とも連絡を取り合っていた。
二十二歳になった若犬丸は、宇津峰城へ移ってからすぐに、則義の媒酌によって田村家一族の娘を娶った。その翌年の明徳二年(一三九一)、男児が生まれ、宮犬丸と命名した。
「しばし小休止か」
戦いに生きると決めた身だが、妻を娶り、稚児を腕に抱くと、鉄腸が溶ける気がした。
「若殿には、妻子が必要です」
修羅の道を選んだ小山家当主なればこそ、御家存続のために妻子が不可欠であり、決して小休止ではないと、井野権兵衛は表情を崩さずに言った。
あくまでも職務行動に忠実な権兵衛を見て、若犬丸は苦笑した。
だが、悠長に構えていられないほど、世の中の情勢は大きく変化しつつあった。
宮犬丸が生まれたこの年、陸奥と出羽が鎌倉府の管轄国に編入された。これで鎌倉府は、従来の十ヵ国にこの二ヵ国を加えた十二ヵ国を号令下に置くこととなった。幕府としては、鎌倉府の勢力増大を危険視する一方で、奥羽地域の政情不安定などを鑑みて、当面は鎌倉府にこの二ヵ国の束ねを委ねるのが得策と判断しての決定であった。
「奥州の地にも、うるさげな鎌倉府が介入してくる」
危機感を募らせた田村則義はそう言った。
若犬丸にとっても不測の事態だった。陸奥は鎌倉府の管轄外であり、この地に居れば安全だと思っていただけに、今居る地面から急に刃が生え出したような感覚に襲われた。
さらに翌年の明徳三年(一三九二)、将軍義満の斡旋で、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇へ譲位する形で南北朝の合一が実現した。これによって両朝が融和し、平和が訪れるはずだったが、南朝方の子孫や遺臣の中には、必ずしもこれを歓迎しない者が存在した。
「我らが御上と仰ぐのは、あくまでも後醍醐帝の血統を引かれる御方のみ。北朝が南朝から強引に帝位を簒奪したに違いない」
則義はそう決めつけた。合一の条件に、北朝方と南朝方とで交互に皇位を継承し合う両統迭立が盛り込まれているらしいが、
「そのような約定はいずれ反故にされ、北朝方が皇位を独占するに決まっている」
則義はそう付け加えた。則義が連絡を取り合っている新田家残党も、
「一見おめでたく見える両朝合一、実のところ南朝方の劣勢、ここに極まったと言える」
と憤慨しているという。
若犬丸の小山家は、先々代当主の氏政以降、北朝方として室町幕府の体制下に組み込まれてきたが、すでに武家としての体裁を失った今、南北朝のどちらか一方を支持するという思いはなかった。田村家や新田家残党が南朝支持を熱く表明することに対し戸惑いを禁じ得ない、というのが正直な気持ちだった。
ただ、則義はよくわきまえていて、若犬丸に対し南朝支持を強要しなかった。過去の経緯などは俎上に載せず、田村家と小山家はあくまでも「反鎌倉府」という一点のみで手を結ぶという線を崩さなかった。おかげで若犬丸は安堵し、かつ則義の器量に敬意を抱いた。
そういう情勢下、田村家は、かねてからの白河結城家との確執を深めつつあった。
下野結城家の庶流である白河結城家は、田村家の宇津峰城から南西約十里の場所にある搦目城に本拠を構える武家である。かつては田村家と同じ南朝方に属していたが、先代当主、顕朝が北朝方へ鞍替えした。その後、顕朝は幕府から、白河や田村荘を含む陸奥八郡の検断職に任じられた。すると顕朝は、南朝方の田村家に対し何かと介入するようになったが、田村家がそれに反発したため、両家は緊張関係にあった。
陸奥が鎌倉府の管轄国に編入されると、鎌倉府からの命を受けた白河結城家の現当主、満朝は、鶴岡八幡宮の段銭徴収を田村家へ命じたが、則義はそれを無視した。
さらに、鎌倉府から御料所進上を命じられた満朝は、田村家へ所領の一部を差し出すよう強要したが、則義はそれを撥ねつけた。
満朝は、一連の鎌倉府からの命に田村家がことごとく従わないため、征伐が必要だと鎌倉府へ報告した形跡があった。それを知った則義は激昂した。
「結城満朝の当家への執拗なまでの横槍、我ら南朝方に対する不当な圧力とみた」
応永二年(一三九五)、則義、清包父子は、陸奥に潜伏中の新田家残党の協力を取り付け、共に白河へ進攻した。これに対し白河結城家は応戦し、かつ親交のある大崎家へ援軍を要請した。両軍は阿武隈川周辺で衝突したが、戦況は一進一退が続いた。
この年、若犬丸には第二子となる男児、久犬丸が生まれた。めでたい気分に浸る間もなく、田村家が白河結城家と交戦することになったため、若犬丸は参戦を申し出た。則義は、それならばと一軍の指揮を若犬丸に委ねた。
若犬丸は田村家の部将として白河へ出陣し、敵と戦った。若犬丸には、田村家へ寄寓している恩をこういう形で返したいという思いがあった。




