(3)二度目の戦い
義政は、小山一族や老臣たちから、鎌倉公方、足利氏満へ謝罪するようにと再三にわたって諫言を受けた。だが、それらをことごとく斥け、結局、氏満のもとへ赴かなかった。
氏満は、義政が鎌倉府へ服従する意思がないものと判断した。それどころか、義政が叛心を抱き、幕府や鎌倉府に対する不満分子との連携を模索しているとの確証もいくつか入手した。そのため、氏満は再度の義政討伐を決断した。
氏満はまず、将軍義満あてに使者を派遣し、義政討伐と、武蔵における国人武装集団である白旗一揆を動員する許可を求めた。また年明け後、氏満は「凶徒退散」の願文を鶴岡八幡宮本地供堂へ納め、義政討伐の成就を祈願した。
義満からの許可を得た氏満は、関東の武家に宛てて再度義政討伐の大号令を発した。
康暦三年(一三八一)二月十五日、義政討伐軍の大将に任命された犬懸上杉家当主、上杉朝宗と、氏満の側近で、奉公衆の木戸法季が軍勢を率いて鎌倉を発し、小山へ向かった。
対する義政も、手をこまねいてはいなかった。鎌倉府軍の襲来に備えて、主城の祇園城、鷲城のほか、その周辺に位置する長福城、岩壺城などを修復し、防備を固めた。
後醍醐天皇による建武の新政後、朝廷は南朝と北朝とに分裂した。後醍醐天皇の忠臣で、南朝方の主力武将であった新田義貞は、北朝方の足利尊氏と戦って敗死したが、その残党は主に越後や上野、武蔵に潜伏し、北朝方に対しつねに蜂起する機会を窺っていた。
小山家は、義政の伯父で、先々代当主の朝氏が一時的に南朝方を支持したことがあったものの、義政の父で、先代当主の氏政は、一貫して北朝方を支持した。
義政も氏政同様、足利家与党として北朝方を支持してきた。十二年前、南朝方の新田家残党が越後、上野で蜂起した際、義政は鎌倉府からの命を受けて宇都宮家、結城家、千葉家らとともにその討伐に乗り出し、これを鎮圧したことがあった。
過去にそういう出来事があったものの、義政は、かつて干戈を交えた南朝方の新田家残党と密かに連絡を取り、協力して氏満へ対抗する盟約を結ぶことに成功した。
義政はまた、氏満に対し不満を抱いていると思われる関東の武家に向けて密使を派遣し、協力を求めたが、どこからも色よい返事を得ることができず、そちらは不調に終わった。
四月、鎌倉府軍が下野足利に到着、一部の部隊はさらに東行して下野天命まで進み、西側から小山へ進攻しようとした。
そのとき、武蔵国北部で南朝方の新田家残党が蜂起し、鎌倉府軍の背後から攻撃を仕掛けた。すると鎌倉府軍はいったん小山進攻をやめて南下し、新田家残党と交戦、五月下旬にそれを鎮圧した。同時に、小山領である武蔵国大田庄を占拠した。
蜂起した新田家残党は、義政が想定していたよりも早く鎮圧されてしまった。
「もう少し長く鎌倉府軍を翻弄してくれていたら、我らが出陣して敵を挟み撃ちにできたものを」
義政は歯噛みしたが、小勢の新田家残党に過度の期待をしたことも自分の甘さだったと反省もした。
鎌倉府軍は、再び小山へ向けて進軍を開始し、六月、小山領内へ進攻した。氏満自身も鎌倉を発ち、後詰めとして小山へ向けて軍を進めた。
今回の戦いでは、義政は祇園城から思川を約半里ほど下った場所にある鷲城に主力部隊を集め、みずから鷲城に詰めて軍を指揮することにした。
両軍とも、しばらくは前線で一進一退の攻防が続けられたが、八月、前線の小山家城砦群を制圧した鎌倉府軍が鷲城周辺へ現れ、攻撃を開始した。
小山領内でも随一の堅城である鷲城は、義政の直接指揮によって攻め手を何度も撃退した。鎌倉府軍は多くの死傷者を出し、中には軍勢を撤収し、自領へ引き上げてしまった武家もいた。一方、小山軍側でも、部将や小山一族の中で、鎌倉府軍へ投降する者もいた。
十二月に入ると、鎌倉府軍は、鷲城の堀に大量の草木を投げ入れ始めた。義政は城壁の上に弓隊を並べて矢を放たせ、敵部隊を蹴散らそうとしたものの、敵は被害を出しながらも投入を続け、ついには堀を草木で埋め尽くしてしまった。
鎌倉府軍は、草木で平坦になった堀を踏み越えて城壁に取り付いた。
「もはや防ぎきれない」
鷲城の堀を埋められた義政は敗北を悟り、禅僧を敵の上杉、木戸両大将に遣わして降伏を申し入れた。また鷲城、祇園城ほか小山家の各城砦の門を開き、鎌倉府軍へ明け渡した。
義政自身は、城兵とともに鷲城から祇園城へ移動した。
「わしは出家する。以後、公の場には顔を出さぬ」
義政は剃髪して袈裟を身に付け、永賢と号した。
「若犬丸、今日からそなたが小山家当主だ」
「今日から、ですか?」
「当主としてのそなたの最初の仕事は、小山家存続のために、氏満めに頭を下げることだ。本来ならば、わしが氏満のもとへ赴き、詫びを入れるべきであることは重々承知してはいるが、あの小僧に跪くことだけはどうしてもできぬ。そなたには申し訳ないが、どうか父の頼みを聞き届けてくれ」
たとえ死んでも、氏満への謝罪だけは無理だった。今頃氏満は、狙い通りに小山家討伐を遂行し、義政を降伏させることができたと悦に入っていることであろう。そんな氏満の前に跪き、衆目の嘲笑を浴びる自分を想像するだけで身が引き裂かれる思いだった。
「分かりました。父上のお指図に従います」
「すまぬ」
若犬丸は内心、父はやり過ぎたと思っていた。二度にわたって鎌倉府軍に攻略された以上、小山家はそれ相応の代償を支払わされることになるのは目に見えていた。義政の切腹、あるいは義政、若犬丸父子の切腹、さらには小山家の取り潰しさえあり得る。
そう考えると、この場から逃げ出したくなる衝動に駆られもするが、自分は藤原秀郷流小山家の惣領息子であり、今日からは当主である。そのような見苦しい所作はとれない。
(ままよ、今後の差配は氏満の胸三寸次第)
若犬丸はそう覚悟を決めた。
「ついては、今からそなたの元服式を執り行う」
若犬丸は十三歳であり、元服にはまだ早い年齢だが、小山家当主となり、しかも氏満への拝謁を控えているため、急ぎ元服する必要があると義政は言った。
義政は、祇園城内に居る一族や重臣を広間に集めると、みずからの手で若犬丸の前髪を剃り、烏帽子をかぶせた。
「若犬丸よ、そなたを隆政と命名する」
「ははっ」
「小山家の危難の中での家督相続となり、返す返すもそなたには申し訳なく思う。だが、畢竟、武家の当主とは、艱難辛苦を棲家とし、己が命の危殆に瀕する日常に暮らす者であって、決して安住安逸の徒にはあらず。そのことを肝に銘じて、これからの日々を生きよ」
「しかと承りました」
身なりを整えたせいか、若犬丸は急に五歳も十歳も年齢を重ねたような気持ちになった。面映ゆいような、誇らしいような気分である一方、「命の危殆に瀕する日常」という父の言葉に身が引き締まり、背筋に緊張が走った。




