(2)「小僧」
氏満の父、足利基氏は尊氏の子息であり、初代鎌倉公方であった。十三年前、基氏が二十八歳の若さでこの世を去ると、当時九歳だった嫡男の氏満が家督を継ぎ、二代目鎌倉公方に就任した。まだ年若い氏満は政務を執ることができなかったため、当初は補佐役の関東管領が鎌倉公方の職務を代行していた。
その頃、義政は十八歳だったが、すでに下野守護、かつ下野守に任じられていた。義政は六歳のときに小山家の家督を継ぎ、幼少期は一族の大人や家老たちが政務を代行していたものの、十五歳で元服後は、みずから家政を取り仕切るようになった。
小山家の所領は、本拠地である小山庄のほか、中泉庄、佐野庄、茂木庄の一部など下野国南部、それに常陸国中郡庄、伊佐郡、武蔵国大田庄、下総国下河辺庄、さらに陸奥国南部の菊田庄などを含む広大な範囲に及んでいた。鎌倉府下の関八州内で、小山家は最大規模の所領を有する有力武家であった。
義政は、子供の頃の氏満を知っているだけに、氏満のことを鎌倉公方なる貴人というよりも、前髪を垂らしたおぼっちゃん、という印象を強く抱いていた。その氏満もすでに二十二歳、義政は三十一歳になっており、お互い小童ではない。
「以前からあの小僧は、当家の所領削減を狙っていた。それゆえ、わしが下野守であるにもかかわらず、わざわざ宇都宮基綱を下野守に任じてわしを挑発し、当家と宇都宮家とが相争うように仕向けたのだ」
下野国における有力武家としては、南部を領する小山家のほか、中部を領する宇都宮家、北部を領する那須家が存在する。その中にあって、下野守護かつ下野守である義政は、宇都宮家、那須家に対する強制力までは及ばないものの、下野国内の政事を主導する第一人者のはずであった。
だが、約四年前、宇都宮基綱が下野守に叙任されたと聞き、義政は耳を疑った。
「氏満が幕府へ奏上してこの話をすすめたに違いない。同国内で領境を接する両家の当主が、相揃って下野守とは、いったいどういうことか!」
義政が不興がるのは誰の目にも明らかであり、むしろ氏満は、義政をいきり立たせることを狙ってわざとこの人事を進めたとしか思えない。義政は激しい憤りを覚えた。
その宇都宮家も、基綱の父である先代の氏綱が、鎌倉府からひどい仕打ちを受けた過去があった。
氏綱は当時、下野守護かつ下野守であったが、足利尊氏と、その弟の直義とが争った観応の擾乱の際、尊氏方の主力武将として転戦し、多大な戦功を挙げた。その恩賞として、氏綱は上野守護と越後守護にも補任され、三ヵ国の守護を兼務したその威勢は尋常ならざるものがあった。
ところが、当時の鎌倉公方、足利基氏は、観応の擾乱で直義方に味方して失脚した元関東管領の上杉憲顕を関東管領に復帰させ、さらに氏綱に対し、上野守護職と越後守護職とを憲顕に譲るように命じたのだ。以前、憲顕はこの両国の守護であった。
「なぜ上野と越後の守護を上杉に譲らなければならないのだ? そんな命令になど従えるか!」
氏綱に何ら落ち度があったわけではない。当然ながら、氏綱は基氏からの理不尽な要求に立腹し、それを拒否した。
腹の虫が収まらない氏綱は、上杉憲顕襲撃の挙に出たが失敗し、その制裁として鎌倉府から追討を受ける羽目に陥った。結局、氏綱は降伏し、基氏に頭を下げて謝罪したため助命されたものの、三ヵ国の守護職は剥奪された。
氏綱が基氏のもとへ足を運び、謝罪した場所は、義政の居城、小山祇園城であった。基氏が関東の軍勢を祇園城に集結させて、まさに宇都宮城へ攻め入る直前の出来事だった。
当時十四歳だった義政は、小山家当主かつ祇園城主として基氏に近侍していたため、氏綱が基氏へ頭を下げる場面をじかに目にしていた。義政は、宇都宮家の失態、失脚をあざ嗤う一方、屈辱に耐えて平身低頭する氏綱の心中を思い、同じ武家の当主として氏綱への同情を禁じ得なかった。そもそもこういう仕儀に至ったのは、元はと言えば基氏が氏綱に無体な要求を突きつけたことにある。
(基氏公が氏綱へ上野、越後守護職を上杉憲顕へ譲れと命じたのは、氏綱を挑発する目的も含まれていた。結果的に氏綱が暴発したため、基氏公の目論見通りに事は進んだのだ)
義政は、もし自分が氏綱と同じ立場に置かれたならば、間違いなく基氏へ反発したであろうと思った。みじめな氏綱の姿は、決して他人事ではなかった。
その後、氏綱は再び鎌倉府へ反抗したが敗北し、観応の擾乱における戦功で得た広大な所領はすべて没収され、その勢威は完全に削がれた。
基氏の跡を継いで鎌倉公方に就任した氏満も、基氏同様、管轄国内における大名の勢力削減を狙っていた。
(その対象として、氏満が目をつけたのが、関東随一の封地を擁する小山家ということなのだろう)
氏満が、わざわざ義政の官位と重複させてまで宇都宮基綱を下野守に補任した目的は、義政を苛立たせ、両家の領境争いを煽り立てるためとみて間違いない。義政はそう思った。
将軍義満に野心を見抜かれて委縮しているはずの氏満は、小山家と宇都宮家との紛争に口を挟めないだろうと見積もったのは誤算であり、後悔するものの、今さら氏満へ頭を下げるなど、想像しただけでも反吐が出そうだった。十七年前、氏綱が祇園城にいた基氏のもとへ参じ、屈辱を噛みしめながら謝罪したあの場面が頭に浮かんだ。
(わしがあのときの氏綱の立場となって氏満へ平伏し、そこに居並ぶ他の武家や評定衆、奉公衆らの嘲笑を浴びることなど、とても耐えられない)
義政は、その屈辱に耐えるのは不可能だと思った。
「でも、鎌倉公方様へ謝罪しなければ、また小山が攻め込まれることになりはしませんか?」
「そのときは、戦うまでだ」
「鎌倉府の大軍に、勝てる見込みはあるのでしょうか?」
「とにかく、あの小僧に頭を下げることだけは断じてできぬ!」
「父上……」
義政の目は血走っていた。これ以上の問答は無用、ということだと若犬丸は悟った。
義政の氏満に対する憎悪は相当に根深い。若犬丸は、小山家は存続の危機に立たされることになると確信した。恐ろしい想像だが、それは不可避であると覚悟するしかなかった。




