(1)鎌倉公方の軍勢催促
康暦二年(一三八〇)六月一日、鎌倉公方、足利氏満は、下野守護、小山下野守義政討伐の軍勢催促状を、管轄下の関東の各武家宛てに一斉に発付した。
「先般の小山義政と宇都宮基綱との私闘、固く制止したにもかかわらず義政は宇都宮領へ侵攻、五月十六日、ついに基綱を討死させるに至れり。義政の狼藉罪科逃れ難きこと明白、よってこれを退治すべく小山へ馳せ参じ、武功を立てるべし」
鎌倉からの早馬の口上によって、義政は居城である下野小山の祇園城でその報を知った。
「そんな馬鹿な!」
すでに各武家は出陣の準備を進めており、鎌倉からは関東管領、上杉憲方らを大将とした軍勢が小山へ向けて進発しつつあるという。関東管領が大将であるとすれば、氏満は本気で小山家を潰しにかかったとみて間違いない。義政はそう思った。
足利氏満は、室町幕府を開府した尊氏の庶流の孫で、二代目鎌倉公方として関東八ヵ国と甲斐、伊豆を含めた十ヵ国を統轄する幕府の重鎮である。尊氏の嫡孫で、京都花の御所を在所にして本邦全体の政事を掌理している三代将軍義満は、氏満の従兄にあたる。
この前年、京都で康暦の政変が勃発した。野心家の氏満は、これを機に関東の軍勢を上洛させて将軍義満を追い落とし、みずからが将軍位に就こうと目論んだ。結局、氏満の補佐役であった前関東管領、上杉憲春の諌死によって出陣を取りやめたものの、その事実を知った義満は氏満に疑心を抱いた。
氏満はすぐに謝罪の使者を上洛させて義満に詫びを入れ、表面上ながらようやく事態を収拾した。
義政を含めた関東の武家の多くは、氏満の分不相応な野望の頓挫を冷笑すると同時に、歓迎した。
「氏満の危険な火遊びに付き合わされて、上洛の軍役などを強いられたらたまったものではない。これでしばらくの間、氏満は関東の仕置にうるさく介入してこないであろう。ほとぼりが冷めるまでは、息を潜めて大人しくしているに違いない」
義政はそう思っていた。
下野国南部を領する小山家と、同国中部を領する宇都宮家とは、かねてから領境をめぐって小競り合いが続いていた。宇都宮家当主、基綱の正室は、康暦の政変で失脚した幕府管領、細川頼之の姪であり、基綱は中央政界の重要な後ろ盾を失ったばかりである。
「私戦禁止という幕令はあるが、今こそ忌々しい宇都宮家に打撃を与える千載一遇の好機」
義政はそう考えて、宇都宮領へ侵攻した。
その結果、自軍の被害も少なくはなかったが、首尾よく基綱を討ち取り、勝利を収めた。
基綱を討ってからわずか半月程しか経っていない。氏満は、待ち構えていたかのように義政討伐の大号令を発した。
「まさか、氏満が動くとは……」
過去からの行状を観察すれば、氏満の主眼は自身の権威を高めることにあり、その目的達成のために、管轄下の関東武家の勢力削減を望んでいることは明白だった。これまでも氏満は、何かと理由を探し出しては武家の所領を没収していて、それを鎌倉府の所領へ組み入れるほか、他の武家への恩賞、あるいは寺社への寄進領に充てたりしてきた。
ただ、将軍義満に睨まれている今の氏満には、小山家と宇都宮家との戦いに口を差し挟む余力はないと読んだのだが、それは誤算だった。義政の宇都宮領侵攻は、氏満に小山家討伐という恰好の大義名分を与えてしまった。義政は自身の読み誤りを悔い、天を仰いだ。
関東管領率いる先発隊に続いて、後詰めとして氏満みずからも鎌倉から出陣した。
義政は鎌倉府軍の攻勢に対し、祇園城に籠城して防戦したが、衆寡敵せず、九月十九日、ついに開城して降伏した。
「すぐに鎌倉公方様へ謝罪に出向くのがよろしかろう」
義政は、鎌倉府軍の総大将である関東管領の上杉憲方からそう言われた。
「負傷者の手当てと戦死者の供養を行い、戦禍で荒れた城下ならびに城内を整え次第、すぐに参上致します」
義政はそう答えた。
だが、鎌倉府軍が小山を去ったのちも、義政は腰を上げなかった。義政自身、一時はすぐにでも氏満のもとへ赴き、謝罪しようと思ったのだが、どうしても踏み出せなかった。
やがて鎌倉府から、すみやかに参上せよとの催促状が届いた。
「戦後の領内の混乱がまだ終息しておらず、しかも義政を不甲斐ない主君と見限った家臣らによる叛乱が起こったため、それを鎮圧すべく、いましばらく御猶予を賜りたく候」
義政は文書でそう回答したが、実際には、小山領内で叛乱など起きていない。それなのに、叛乱を鎮圧するために鎌倉へ伺候できないと虚言を吐く。
十二歳になった義政の嫡男、若犬丸は、率直な疑問を父に投げかけた。
「父上は、なにゆえ鎌倉公方様のもとへ赴かないのですか?」
「あの小僧めに、頭など下げられるか」
「小僧とは、鎌倉公方様のことでしょうか?」
「そうだ」
義政は、腹を立てていた。




