〇〇六 好奇心
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白い靄の中、何かが近付いてくる。
「……メ……ル……? ……ミ……ダナ」
それは何かを語りかけてくるが、ほとんど何も聞き取れない。
「君は誰なんだい?」
「オ……ハ……オ……デ……ダ」
駄目だ、何も分からない。
手を伸ばす。
だが、それに触れることは出来ない。
遠くで、ギィ……と金属を擦るような音が鳴る。
靄がゆっくりと薄れていき、意識が浮上していく。
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どうやら考え事をしているうちに眠ってしまったらしい。
「……ギィ……ギィ……」
夢のようなものを見た気がする。
意識の奥で、何かと接していた気がする。
だが、思い出そうとすると輪郭がほどけていく。
「ギギ……ギィ……ギィ……」
ただ、この不快な音に起こされたのははっきりしている。
木の隙間から、外の様子をうかがう。
この姿になってから、五感が妙に冴えている。
音や匂い、気配まで、やけに鮮明だ。
猫の特性なのだろうか。
しかし、良い事ばかりでもない。
不快な音も強烈に響き、頭が割れそうになる。
音の発生源を探るため、警戒しながら外へ出る。
先ほど通ってきた方向から、あの音が聞こえてくる。
無視して先に進んでもいいのだが、後で厄介事になるのは嫌だ。
確認だけしておくことにする。
近付いて行くと、黒い棒のようなものが木の根で蠢いているのが見えた。
見たことのない新種の生物かもしれない。
……好奇心が湧く。
『好奇心は猫をも殺す』
そんな言葉が頭をよぎる。
所詮は、ことわざだ。
それで死ぬなら、とっくに猫は絶滅している。
更に近付いてみる。
黒い光沢のある身体が見えた。
蟻……?
色も形も蟻だ。
ただし大きさが、自分と同じくらいある。
元の世界なら、完全に化け物だ。
慎重に様子を見る……。
どうやら仰向けにひっくり返り、木の根に嵌って抜け出せないらしい。
足をばたつかせ、藻掻いてる。
「にゃ、にゃんちわ……」 |(こ、こんちわ……)
とりあえず声をかけてみる。
「……ギィ……」
返ってきたのは、大顎を擦り合わせる音だけだった。
そもそも蟻に言葉が通じるのか分からない。
この大きさなら知能もあるのでは、と思ったが……どうやら期待しすぎだったらしい。
……というか、挟まって藻掻いている相手に挨拶している場合じゃない。
この空気の読めなさが、ネクラのコミュ障と呼ばれていた理由なのかもしれない……。
襲ってくる可能性もゼロではない。
助けるべきか、一瞬躊躇する。
……だけど、このまま放置するのも後味が悪い。
言葉は通じなくても、心は通じ合うはずだ。
そんな楽観的な考えが頭をよぎる。
初めて出会った"生きた存在"に、気持ちが浮ついているのかもしれない。
敵意がないことを示すように、ゆっくり近付く。
蟻も抵抗せず、じっとしている。
木の根との隙間に頭を突っ込み、身体を使って押し上げてみる。
猫ほどの大きさになった蟻の身体は硬くて重い。
泥濘んだ地面もあって、まったく持ち上がらない。
自分の非力さを思い知らされる。
それならば、力でなく頭を使えばいい。
自分は元人間なんだと思い出す。
蟻と木の根の隙間に棒を挿し込み、梃子の原理を使えば力が弱くても救い出せるはずだ。
さっそく、手頃な棒が無いか周囲を歩いて探してみる。
なるべく硬くて長い方が良い。
あまり重量があると運べないのでそこも考慮しないといけない。
条件に合いそうな枝を見つけたので近付いていく。
太さがそれなりにあり口にくわえて運ぶのは無理そうだ。
二本のしっぽに絡めて引き摺って行くことにする。
その時――
背後で、ガサッと落ち葉を踏む音がした。
――油断していた。
蟻の救出に夢中になり、他の生物が存在する可能性を考えていなかった。
振り返る。
そこにいたのは、白い皮膚を剥き出しにした異形の犬だった。
毛はほとんどなく、湿った肉が露出している。
最初に目を覚ました時に転がっていた死体の仲間だろう。
黄色く濁った目が、こちらを捉えている。
明らかに、敵だ。
話せば分かる雰囲気は全くない。
先程、自分の力の弱さを痛感したところだ、戦う選択肢はない。
しかし、逃げるにしても体格差ですぐに追い付かれてしまうだろう。
一瞬迷い、相手から目を逸らしてしまう。
その隙を相手は逃さない。
ガォーンと咆哮と共に、大口を開けて飛び掛かってくる。
しっぽに絡めていた枝を盾にし、転がるように回避する。
バキッ――枝が砕ける。
直撃していたら、終わっていた。
猫として生まれてきたばかりなのに、次の日を迎えることなく寿命が尽きそうだ。
しかも自分だけじゃない。
助けようとしていた蟻まで巻き添えになる。
助けるつもりが、両方とも死ぬ――それはまずい。
あの化け犬が、最初から近くにいたのか、それとも血の匂いか何かに釣られて来たのかは、分からない。
ただ、もし僕の動きがきっかけだったとしたら、後味が悪い。
助けるなら、ちゃんと助けきらないと意味がない
ここで一つ賭けに出ることにする。
力がなければ頭を使うしかない――。
化け犬から視線を外さず、ジリジリと後退する。
相手も警戒してるのか、すぐには飛び込んでこない。
相手の射程から離れた瞬間――背を向けて走る。
向かう先は、蟻のいる場所。
全力で駆ける。
足音がすぐ後ろまで迫ってくる。
流石に早すぎる。
後ろを振り向く余裕なんてない。
蟻が挟まる木の根に跳び乗る。
同時に、背後から牙が迫る。
その瞬間――身体をひねり、飛ぶ。
蟻の身体を飛び越えた直後――後方で鈍い音がする。
――ボギッ。
犬の突進が、木の根をへし折る。
反動で、蟻の身体は解放されたはずだ……。
さて、ここからは二対一。
二人とも死ぬかもしれないなら、二人で戦えばいい。
蟻を救い出すという賭けには勝った。
この窮地にも勝ってみせる。
そう思い振り返る。
だが。
蟻の姿はなかった。
ガサガサと落ち葉を蹴散らし、猛スピードで逃げていく背中だけが見える。
……逃げた。
僕はそれを見送る事しかできなかった……。
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