〇〇五 死の森
生臭く、錆びた鉄のような匂いが鼻を刺す。
吐き気を催すと同時に意識がゆっくり浮上していく。
身体を起こそうとするが、上手くいかない。
バランスを崩しゴロンと転がった。
何か、おかしい……。
手を見れば、可愛いピンク色の肉球。
裏返せば、真っ黒の毛むくじゃらの腕。
「ニャンアコレー!?」|(なんだこれー!? )
どうやら――『吾輩は猫である』、らしい。
当然、夢ではないかと疑う。
だが、鼻を刺す生々しい臭いが、容赦なく現実に引き戻してくる。
四つ脚で立ち上がる。
幸い、怪我は無さそうだ。
非現実的すぎる状況に、逆に頭は冴えていく。
まずは安全確保が最優先だ。
周囲を見渡す。
真っ先に目に入ったのは、水膨れした白い肉塊だった。
まるでホルマリン標本をぶち撒けたかのように、肉の塊があちこちに転がっている。
だが標本と決定的に違うのは、赤黒い血が大量に付着している事だ。
生臭い鉄錆の匂いも、それが原因だろう。
血の匂いに釣られて、新たな化け物がやって来るかもしれない。
一刻も早く離れるべきだ。
どちらへ逃げるか考えていた時、ふと足元に違和感を覚えた。
矢印が描かれている。
まるで、この化け物を葬った何者かが、あちらへ行けと導いているようだった。
訳の分からない存在を頼りにしていいのか分からない。
だが立ち止まって考える余裕もない。
藁にも縋る思いで、矢印の示す先へ歩みを進めた。
初めての四足歩行。
覚束ない足取りだが、なんとか歩ける。
ここは、おそらく森の中だ。
|おそらく、としか言えないのは、自分の知る森とは様相があまりにも違っているからだ。
乱立する木々は灰色で、葉は全て枯れ落ちている。
水捌けが悪いのか地面は泥濘み、足取りをさらに鈍らせる。
ここは、緑が生い茂る生命力に満ちた森ではない。
一言で言えば――『死の森』だ。
鳥の鳴き声はおろか、小さな虫の気配すら感じ取れない。
木々の隙間から見える空も、僕の心を映したように鈍く重たい。
とにかく身を隠せる場所を探しながら歩き続ける。
小一時間程進んだだろうか。
小さな歩幅では、どれほど移動できたのか見当もつかない。
体力も限界に近づいていた。
倒木が重なり空洞になっている場所を見つける。
そこで休む事にした。
ふぅ……と息を吐き、どうしてこうなったのか思い返す。
『教授にレポートを渡すために研究室の扉を開けたら猫になってここに居た』
誇張でも冗談でもない。
現実に起きた事だ。
ここで、高校時代のオタク知識が役に立つ。
おそらくこれは、転生……。
金もなく、友達も居なかった高校時代。
暇さえあればネットのファンタジー小説を読み漁っていた。
貧弱な青年が異世界に転生し、神から授かったチート能力で無双する――
そんな話を好んで読んでいた時期がある。
もし、定番に当てはめるなら、こうだ。
教授が実験中に大事故を起こす。
僕は爆発に巻き込まれて死亡。
不憫に思った神々がチート能力を授け、猫として転生させた。
……定番ではある。
ファンタジー小説の導入としては及第点だ。
――だが、神々とやらに会った記憶は、まるでない。
これは夢でも小説でもない。
今起きているのは、紛れもなく現実なのだ。
改めて自分の身体を確認する。
真っ黒な体毛に、ピンクの肉球……。
後ろを振り向けばしっぽが二本。
ゆらゆらと揺れている。
しっぽが二本の猫と聞いて思い浮かぶのは、二足歩行し人語を解する猫の妖怪だ。
人を襲ったという物騒な伝承もあったはず……。
人に出会っても、迂闊に姿を見せてはいけない気がする。
――そもそもこの世界に人は居るのだろうか?
ここはきっと元いた世界ではない。
オタクの知識と直感が、そう告げている。
災害で枯れた森の話は聞いたことがある。
だが、ここまで死にきった場所は知らない。
ましてや、化け猫姿で目覚めるなんて元いた世界の理屈では説明がつかない。
それなら素直に異世界に転生し、何らかの使命を背負っている――そう考えた方がまだ辻褄が合う。
これ以上考えても答えは出ない。
受け入れて行動するしかない。
そういう面では、自分はしぶといと思う。
起こってしまった事は仕方ない、前に進むしかないのだ。
「にぁー、にぁー」 |(あー、あー)
「にぁ、にぃ、にぅ、にぇ、にぉ」 |(あ、い、う、え、お)
「にゃんにぃちわぁ」 (こんにちは)
人と会話が出来るのか声を出して試してみた。
そもそも発声器官が違うので上手く発音ができない。
人だった頃の知識で無理やり言葉にしているだけだ。
だが、練習すればもう少し話せるようになるかもしれない。
元いた世界の言語がこちらで通じるかも分からない。
だがそれも、実際に人に会ってみないと判断できない事だ。
結局、今出来る事は身体を休めて体力を回復し、あの矢印の指示通り前に進んでいくしかないのだ。




