〇〇二 ハジメ
今日は夏休みの初日だ。
校内に人影はほとんど無く、シンと静まり返っている。
目に映るのは、呑気にあくびをする猫くらいだ。
そんな中、僕はある場所へ駆け足で向かっている……。
本来なら学期末に提出しなければならないレポートだが、学費を稼ぐためアルバイトを掛け持ちしたせいで、書き上げるのが遅れてしまった。
――いや、違う。
大学受験を決めた時点で、こうなる可能性は分かっていた。
アルバイトを理由にするのは、ただの言い訳だ……。
とにかく教授に頼み込み、何とか提出を一日だけ猶予してもらい、昨夜は徹夜で書き上げた。
教授は今日の午前中に用事を済ませたら、夏季休暇で旅行に行くらしい。
その前に提出できなければ、夏休みどころか学生生活が――いや、人生そのものが終わってしまう。
幼い頃に両親を亡くした僕は、祖父に引き取られ、ここまで育ててもらった。
高校を卒業後すぐ就職する道もあった。
だか、どうしても諦めきれない夢……いや、使命があって、祖父に何度も土下座して進学の支援を頼み込んだ。
猛勉強の末、やっと入れた大学だ。
半年も経たずに放り出されるわけにはいかない。
まして、祖父が懸命に働いて稼いでくれた学費をドブに流す真似など、絶対にできない。
そんなことをすれば地獄行きどころじゃない。
魂にありとあらゆる罪の烙印を押されて末代まで呪われるに違いない。
そんな理由で僕は、静まり返った大学を一人、ドタバタと駆け抜けて行く……。
向かう先は校内の外れにある生物学科の研究室、通称『お化け屋敷』だ。
校内の外れにあるその研究室は、周囲を大樹で囲まれており常に薄暗い。
建物自体も老朽化が進み、あちこちが破損している。
雰囲気からして、何が出てもおかしくない……。
その上、見たこともない奇妙な生物の死骸や臓器がホルマリン漬けにされ、標本として大量に保管されている。
興味本位で肝試しに来た学生たちの間では、『ホルマリン漬けの眼球が睨んできた』だとか『影から無数の動物の手が伸びた』などの噂が広がり、誰も近寄りたがらない異質な空間となっている。
生物学を専攻してる学生ですら、めったに近付かない始末だ。
そんな研究室へと続く並木道を駆けていると、前方に見知った顔を見つけた。
りん先輩だ。
「おっ! 遠くからでも分かる、その悲壮感に満ちた顔の持ち主はハジメではないか。そんなに急いでどこに行くんだい?」
「何ですか……その失礼な言い方は……。それに、こんな陰気な道の行き着く先は『お化け屋敷』しかないって分かってるでしょ……先輩こそ、こんな所でどうしたんですか?」
「なに、ちょっとした忘れ物を思い出してな……夏休み初日だというのに早起きして、ここに来る羽目になってしまった」
「相変わらず、おっちょこちょいなんですね……」
「いつも何かに追われてるハジメにだけは言われたくないがな……。それより、こんなところで私と立ち話なんかしていて大丈夫なのかい?」
「そ、そうでした! 教授が帰ってしまう前に、このレポートを提出しないと人生が終わってしまうんですっ!」
「たかがレポート一冊で、そんな大げさな……。そこまで運命は変わらんだろうに……」
「されどレポートなんです! と、とにかく行ってきます! では先輩、よい夏休みをお過ごしください!」
「ああ、ハジメもな……君の未来に女神の加護があらんことを……」
「な、なんですかそれは……? 先輩の方が大げさですよ……」
「まぁ気にするな。ほら、急げっ!」
「はいっ! 失礼します!」
そう言って先輩に背を向け、再び研究室へ向かって走り出す。
去り際、かすかに鈴の音が聞こえた気がしたが、今は気にしている余裕もなかった……。
りん先輩との最初の出会いは今でも鮮明に覚えている。
それは半年ほど前のことだ……。
――まだ桜の花弁がかすかに残る暖かい春の日差しの中、夢と希望に満ちた新入生達が大学の門をくぐって行く。
一年生の前期は時間割の大半は必修で埋まり、義務教育とそれほど変わりはない。
環境の変化に対応するための大学側の配慮なのかもしれないが、新入生からしたら夢にまで見た憧れの大学ライフを、叩き潰された感じだ。
義務教育と違う事といえば、学科での授業だ。
大学では自分で受験した科目を、より専門的に学んでいくことになる。
うちの大学はそんなに大きな大学ではないので、専門性の高い学科ともなると学生の人数も激減する。
今日は生物学科の初授業だ。
ざっと見て三十人から四十人程度の学生が静かに教員が来るのを待っている。
大学にクラス分けは無いが、学科が同じなら履修もほぼ重なる。
この顔ぶれとは、今後何度も会うことになるだろう。
今日は授業の初日ということでオリエンテーションがあり、その後で交流会が執り行われる予定だ。
オリエンテーションでは最初に履修方法や細かなルール説明があり、最後に教員の紹介が行われた。
学年が上がると、より専門的な講義や研究をする為にゼミというのに参加する必要があるらしい。
それぞれのゼミの代表が順番に前に出て、研究内容などの説明がなされていく。
人気のゼミなどは教員や院生の数も多く、輝かしい功績を誇らしげに語っていく。
名の知れた教授なども登場し、新入生達はキラキラした眼差しを向け、夢中で話を聞いている。
教授という人種は、何かを突き詰め専門的な分野に特化した存在だ。
個人的な偏見だが、それ故に少し変わった人が多かったりもする。
そんな中でも更に異質な変わった教授がいた。
黒いスーツに黒いネクタイを締め、知らない人が見れば、葬式帰りにしか見えない格好だ。
髪はボサボサで前髪が目を覆い隠し、かろうじて眼鏡を掛けているのが分かる程度だ。
年齢はおそらく三十代後半か四十代だろう、他の教授に比べれば若く見える。
そんな人物が一歩前に進み、ホルマリン漬けにされた眼球を右手に掲げる……。
『オイ、キタロー! コレガ、コトシノ、イチネンセイダゾ!』
と……腹話術を披露する。
当然ながら学生達は静まり返り、呼吸音すら聞こえない静寂が会場を支配した。
隣に居た女性が、共感性羞恥で顔を真っ赤に染めていたのが印象的だ。
僕は、この人物が自身の人生を左右する恩師になるとは、この時点では微塵も想像していなかった……。




