第231話 月と死神
白衣の女が、ヒールを履いているとは思えない動きで木々を抜け、跳ぶ。
枝々を飛び移り、上へ上へと駆け上がる。
木のてっぺんから、弾丸のように舞い上がった。
狙うは凶鳥アンズー。
鷲の翼と頭。
体は獅子。
四本の猛禽の脚。
翼を広げれば、二十メートルを超える巨体。
魔力を纏った刃が伸びる。
巨体の首筋に光が走り――ゆっくりと、首と胴が離れた。
光の粒に消えるかと思われたが。
凶鳥の後脚。
それが掴んでいる粘土板を、前脚がガリガリと掻く。
粘土板が淡く光り、首は何事もなかったかのように繋がった。
運命の粘土板。
最高神より盗みし万能の器。
そこに記されたことは、成就するという。
その様子を見つめるのは、月のSSR――エミーラの分身。
本体は少し離れた場所で、分身の一体と視覚を共有していた。
エステルの獰猛さと、神話伝承級のデタラメさに、呆れたように呟く。
「あんな、わけが分からない化け物と戦って、何が楽しいんだか」
――運命、ね。
エミーラの口元が、わずかに歪む。
そんなに都合よく運命が書き換わるなら――。
小さく首を横に振る。
胸元まで伸びた滑らかな栗色の髪が揺れた。
冷たい光を瞳に宿し、独白は続く。
「ノコノコ踏み込んできた、あなたたちが悪いのよ。
選択を悔やみなさい」
自分には、選択などなかった。
生まれた世界の情勢も。
SSRに当選し、ある日突然連れ去られてからのことも。
過去はもう要らない。
思い出したくもない。
誰がどうなろうが、どうでもいい。
世界も、魔法使いも。
ただ、この森での仕事には意味があった。
増山――あの男。
高ランク魔法使いの集団拉致など、狂気の沙汰だ。
発覚しないはずがない。
だが、発覚しようがしまいが、どうとでもなる。
それが、月の魔眼の能力。
政府首脳、警察、マスコミ……。
ほんの一部を押さえれば、それで足りる。
この世界の大多数は一般人。
幻術に抗う術を持たない人間たちだ。
ダンジョンでの失踪。
増山も、高天原ファーマも無関係。
そういうことにしてしまえばいい。
実際、高天原ファーマには、魔法使い監督省庁からの問い合わせが殺到しているという。
しかし、証拠がなければ時間は稼げる。
マスコミも、大スポンサーの威光を前にしては下手に動けまい。
さっさと賢者の石を手に入れて、外の世界を黙らせる。
森に踏み込んだ連中は、行きがけの駄賃だ。
やると決めた以上、大きく仕掛けて、とことん搾り取る。
エミーラは軽く目を閉じた。
とはいえ――
いかに月の魔眼といえども、通常ならリスクが高すぎて請けない仕事だ。
やろうと思えばできる、という話と。
実際にやるかどうかは別だ。
しかし、賢者の石。
今回の作戦が成功すれば、百年先の国家を潤す富が生まれると、あの男は豪語した。
狂人には違いない。
だが、賢者の石活用の実績は本物だ。
その言葉に、疑いはない。
危ない橋を渡るだけの価値はあった。
仕事は果たしてみせる。
しかし――。
エミーラは呟く。
「そこから先は……契約にないものね。
夢を見せてあげるわ。
世界一のお金持ちで、権力者の夢。
復讐相手がひれ伏す夢。
対価は……賢者の石。
私のために富を生み出すのよ」
冷たく嗤う。
――私は、価値の根源を手に入れる。
世界中の魔法使い全員。
贄にでも、金持ちの玩具にでもなればいい。
壊れてしまえばいいのだ。
自分のように。
いっそ、世界も……。
月の魔眼が淡く輝き、森に黄金の光が静かに落ちていた。
***
エステルは地上に降り立ち、上空を睨んだ。
「首を飛ばしても戻るなんて、面白いやつ」
その言葉に、九条は静かに言う。
「あの粘土板は厄介ですよ。
当時の佐伯さんでも、あれには苦労していましたから」
そこに、スコットが確認するように口を開いた。
「で、その当時は。
粘土板に書き込む間を与えないくらい、物量で押し切ったと。
……シンプルですね」
九条は苦笑い。
「初遭遇でしたし。
他に手が思いつきますか?」
「そうですねえ……」
スコットは小さく呟き、両手のナイフに魔力を巡らせる。
「そんなもので、どうするのよ」
エステルの声にも反応せず、ナイフを鋭く空中へ投げた。
凶鳥はひらりと身を翻し、難なく回避する。
スコットの指がわずかに動いた。
ナイフが空中で軌道を変え、粘土板を掴む二本の脚へ、一本ずつ突き刺さる。
込められた魔力が弾けた。
爆属性魔法だ。
脚が吹き飛び、粘土板が落下する。
スコットは飄々とした調子でエステルに言った。
「厄介なのは、取り上げればいいんじゃないですか?」
返ってきたのは、舌打ちひとつ。
――しかし。
アンズーの翼が震え、羽根が射出される。
それはペンのように粘土板へ文字を書き込み――
何事もなかったかのように修復された。
エステルは、なぜか嬉しそうな笑みを見せた。
一方の九条は、眉を寄せる。
「昔は羽根なんて使ってきませんでしたが……
どうやら、学習しているようですね」
「羽根なんか使われたら、物量も意味なくないですか?」
スコットの、もっともな指摘だ。
いかに数を撃ち込もうが、そのすべてを羽根に処理される可能性がある。
アンズーは大きく羽ばたくと、羽根を飛ばしてきた。
その一枚一枚が鋭い。
それらはすべて九条の重力操作魔法でいなされ、反撃の爆縮が巨体を抉る。
しかし、羽根が粘土板の上を走るとすぐに再生。
重力操作で粘土板付近の羽根を散らす。
すかさず凶鳥は攻撃の羽根を飛ばす。
守りに転じた隙に、書き込みが行われる。
攻撃と粘土板の書き込みが絶え間なく続く。
九条は少しだけ困った顔を作った。
「以前と同じ強さなら、私の魔法とエステルさんたちの追撃があればなんとかなると思っていましたが……
少しだけ計算が狂いましたね」
そう言いつつも、声に焦りはない。
エステルは大鎌を構え、さらに笑みを深めた。
「それでこそ、神話伝承級じゃない。
漲ってきた……」
刃に魔力が満ち、不吉な光が溢れ出す。
瞳を黄金に輝かせ、銀髪が風もないのに揺れた。
細身の体に魔力が満ちる。
再び跳ぼうとした、そのとき。
「楽しそうなところ悪いけど……
あまり時間をかけていられないのよね。
私の仕事は、あなたたちの相手だけじゃないから」
エミーラの分身が薄く笑う。
その言葉に、エステルは面倒くさそうな顔をした。
クラリスたちの方向へ顎をしゃくる。
「だったら、他所に行けば?
あっちはたくさんいるでしょ」
エミーラは、少しだけ考える素振りを見せた。
「まあ、それもそうかもね。
ここでちまちま小魚をすくうより……」
そして、わざとらしく肩をすくめる。
「聖剣エクスカリバーとは、あまり戦いたくないんだけど」
そのやり取りを眺めていたスコットが、フォローになっていないフォローを入れる。
「隠者の魔眼は、最強のSSRとして有名人ですから。
エステルさんよりも、きっとお金になりますよ」
「そうね。
あなたたち、あとでまた来るから……死んじゃだめよ?」
そう言って、分身たちの魔力が次々と散り始める。
エステルがこめかみを脈動させ、静かに死を宣告した。
「三時方向、百五十メートル……
動いたら、殺す」
手にした大鎌の刃に不可思議な紋様が走り、魔力の輝きが暗い森を冷たく照らす。
死神の魔眼が捉えているのは、上空の凶鳥ではなかった。
***
エミーラの本体の瞼が、わずかに動く。
――いつの間にか、目深にフードを被った骸骨に取り囲まれていた。
そして、足元には淡く光る魔法陣。
ただ事ではないことは、すぐに分かった。
「あら……
ただの戦闘狂じゃなくて、たいした戦闘狂ね。
これはお金になりそう」
分身を再構成し、意識を切り替えた。
***
エステルは、再び現れたエミーラの分身へ鋭い視線を投げた。
「私よりもあの脳筋の方が手強い……って聞こえたんだけど。
頭が腐ってんの?
あっちの方が狩りやすいから行きなさいって教えてあげたのよ」
「それはどうも……ご親切に」
月の魔眼が輝くと、大鎌の光がふっと失せた。
同時に、離れた場所に仕掛けていた骸骨が消える感覚。
エステルの思考が、九条からもたらされた月の魔眼の情報をなぞる。
――魔力のジャミング。
大鎌グリムキーパーに魔力を通し、生体反応を探る。
……まだ、同じ場所にいる。
獰猛な目で分身を睨みつけた。
「逃げないの?
チャンスだったのにね」
魔力が奔る。
こめかみが脈打つ。
――打ち消される前に、次は確実に魂をもらう。
大鎌が強く発光し、刃に紋様が浮かび上がる。
技を放つ、その直前。
「さっさと終わらせるわよ、あれ……」
エミーラの視線は、エステルではなく――上空の凶鳥。
「どういうことよ」
エステルの問いに、何でもない顔で返答が返る。
「どうって……そのままの意味。
あなた、強いから。いただきたくなったの。
早くあの化け物片付けましょう。
手を貸してあげるから」
その言葉に、エステルは小馬鹿にしたように笑った。
「あんたが?
幻術ごときで何ができるっての。
黙って見てなさい。
次はそっちの命をもらうから」
言い捨てると、視線は上空へ。
九条の爆縮が巨体を潰し、スコットが飛行魔法で宙を駆け、翼を斬り裂く。
だが、次の瞬間にはアンズーの体は元通りだった。
押し潰されても。
斬り裂かれても。
何度でも蘇る。
不死鳥じみた、異形の鳥。
それを見つめる死神の魔眼が、黄金に輝いた。
猛烈なデバフと、死のビジョンが叩き込まれる。
怪物の体が大きく痙攣し、絶叫が森に響いた。
エステルの頬が、わずかに染まる。
深い海のような瞳が潤んだ。
「死の恐怖が分かるのね。化け物のくせに。
いいわ、その声……とても……もっと聴かせなさい」
何度も。
何度も。
何度も。
ありとあらゆる死を叩き込む。
絶叫の中、九条の魔法に潰され、スコットの刃に翼を削がれる。
それでも。
宙を舞う羽は粘土板に取り付き、再生を止めない。
歪な、生と死のサイクル。
それが、白衣の女の奥底を痺れさせる。
あらゆる死を想像し、体験させる。
大鎌を握る手が、熱を帯びる。
幾多の死を越えた魂を、最後に刈り取る――
その予感に、体が打ち震えた。
艶やかな唇から、吐息がこぼれる。
エミーラは腕を軽く組み、その様子を見つめていた。
「私も人のことは言えないけど……
なかなか壊れてるわね」
ふと、疑問を口にする。
「ところで、あなたたち。
捕まった魔法使いを助けに来たんじゃないの?」
目の前の女は、仲間を気にしている様子がまるでない。
――何をしに来た?
エステルは、恍惚の表情をわずかに歪めた。
「邪魔するんじゃないわよ。
自分のこともどうにもできない連中なんて、どうでもいいの」
エミーラの冷たい目が探る。
捕らえられた者たちとは無関係ではない。
だが、別の目的がある。
それは?
「私のことも知ってたし。
いま、この森がどういう状況か――分かってるのよね」
エミーラの問いに、面倒くさそうな声が返る。
「私は私のお宝をいただきに来ただけ。
とっ捕まったマヌケなSSRも、増山とかいうイカれジジいも、どうでもいいわ」
「へえ……そのお宝って?」
エステルは小馬鹿にしたように鼻で笑う。
「言うわけないでしょ。
金のことしか考えてない、つまらない魔法使いなんかに」
――分身の目が、死のビジョンを放つ横顔を見つめる。
視線を上げれば、泡を吹きながら叫び、生と死を繰り返す異形の姿。
幻術など使っていないのに。
まるで悪い夢のような光景。
狂った世界。
それが、冷えきった心をわずかに揺らす。
続く言葉に引き戻された。
「まあ、あいつらの方が、あんたより面白いけどね。
魔法使いなら、ダンジョン……冒険に挑みなさいよ。
人攫いで小金稼いで、何が楽しいんだか」
ふっと、エステルの目つきが変わる。
「私は、取り戻すの。私の“熱”を。
何を対価にしても」
月の魔眼に、これまでとは別の光が宿った。
「熱……?」
エステルは、言い過ぎたとでも思ったのか、小さく舌打ちした。
大鎌を構える。
魔力を静かに込めると、上空――凶鳥アンズーの足元に魔法陣が生まれた。
それを取り囲むように、剣を携え、フードを目深にかぶった骸骨が数体現れる。
九条の重力魔法が巨体を空中に縫い付ける。
スコットの声が響く。
「エステルさん、遊びすぎ。
最初からこれやってれば良かったんじゃないですか?」
白衣の死神は、余裕の笑みを浮かべた。
「すぐに死んだら面白くないでしょ……」
その言葉と同時に、魔眼の輝きが森を貫く。
魔法陣から結界が伸び、巨体を逃さぬよう閉じ込めた。
骸骨の一体がラッパを吹くと、他の骸骨たちは剣を振り下ろした。
結界の中に雹が降り、巨体を削る。
肉塊に変わる寸前、粘土板の力で蘇る。
同時に、時間が巻き戻るように雹が下から上へと昇り、何事もなかったかのように消えた。
エステルは「ふーん」と声を漏らす。
「それじゃ、次は焼き鳥になりなさいな」
別の骸骨がラッパを吹く。
魔法陣から炎が噴き上がった。
羽根を焼き、巨体の脚から削るように業火が結界内に満ちていく。
粘土板が落下を始めた。
……いける。
誰もがそう思った、そのとき。
空中で嘴が粘土板に文字を刻む。
たちまち炎は収束し、凶鳥の体は元通り。
粘土板は空中で脚に掴まれた。
エステルの余裕の口元が引き締まり、こめかみが脈打つ。
「そろそろ死んでいいって、この私が言ってるんだけど……」
大鎌に魔力を込める。
そのとき。
「なかなかの魔法なのは認めるけど。
粘土板を攻略しないことには、どうにもならないんじゃない?」
エミーラの声。
その言葉には取り合わず、エステルは言い放った。
「次で決める」
第三のラッパが鳴った。
結界の中に流星が降り注ぐ。
ひとつひとつが巨体を貫通し、耳をつんざく叫びとともに削れていく。
羽根が狂ったように舞い、粘土板に文字を刻む。
流星が下から上へ昇り、時間が巻き戻るように消えていく。
削れた体も元通り。
エステルのこめかみの脈動が速くなる。
「その復活と、流星……
どっちが上か見せてやるわよ」
落ちる流星。
巻き戻る流星。
次々に新たな流星を叩き込む。
死神の魔眼が、眩いほどに輝いた。
九条が冷静な声を飛ばす。
「それ以上はやめておいたほうがいいですよ。
魔眼を使い過ぎです」
こめかみが、不穏に脈動する。
先ほどとは違う、嫌なリズム。
エステルはギリ、と奥歯を軋ませた。
「この程度が限界?
なわけがないでしょ」
余裕もかなぐり捨て、叫んだ。
「私は!!
運命に一発かますまでは終われないのよ!!」
その咆哮に呼応するように――
凶鳥の羽根があらぬ方向に飛ぶ。
目的を見誤ったかのように。
流星が幾筋も降り注ぐ。
巨体を、そして粘土板を粉々に砕いた。
光の粒となり、崩れ落ちる。
九条は注意深く目を凝らす。
光の粒の中に紛れた、別の煌めきを探す。
指を鳴らし、重力操作。
“それ”を逃さず回収した。
エステルのこめかみの脈動が収まり、不敵な笑みが戻る。
――パチ、パチ、と拍手。
視線を向けると、月の魔眼が輝いていた。
「幻術……」
エステルは呟く。
最後の、羽根の妙な動きは――
目に獰猛な光を宿し、跳ねるようにエミーラへと飛びかかった。
喉元に大鎌の刃をあてる。
「余計な手出しして、いい気分?
この私に、上等なことやってくれるじゃない」
エミーラは薄笑いを崩さない。
「あのまま本当にぶっ壊れたら、価値がなくなっちゃうじゃない……」
そして、凶鳥が消えた方を見る。
スコットがせっせと魔石を拾っていた。
「で、お宝ってあれ?
そんなはずないわよね」
「命が惜しかったら、探るんじゃない」
有無を言わせぬエステルの声。
エミーラは構わず続けた。
「あなた、何か違う……他の魔法使いの誰よりも。
ねえ、何を見てるの? 何に乾いているの?」
月の瞳が妖しく揺れる。
死神の視線が重なる。
「……知って、どうするってのよ」
「私も、運命の横っ面をはたきたいの」
大鎌の刃が、ゆっくり離れる。
そして。
瞬時に左手でエミーラの首を掴む。
分身を構成する魔力が森に散った。
「知りたいなら、堂々と顔を見せることね」
ちらり、と目をやる。
スコットの姿はもうなかった。
***
エミーラの本体。
首筋にナイフが当てられていた。
「転移の魔導ギア……こんなものまで所持しているなんてね」
スコットは飄々とした調子で言う。
「それでも、森からは出られないんですよー。
出るときの対価確保。
……って言いたいところですけど」
スッとナイフを下ろす。
「さっきは助かりました。
エステルさん、強情だから。
これで貸し借りなし」
そして、少しだけ声の調子を落とした。
「捕らえられた魔法使いたちのことは、別に心配してませんよ。
あのおじさん……佐伯さんがいるんですから」
細い目に、光が漏れた。
「むしろ、増山とかいうやつの方が心配ですけどね」
それだけ言い置くと、その姿は煙のように消えた。
静かになった森。
エミーラの懐のスマホの振動が、短い沈黙を破った。
スマホを取り出す。
着信メッセージの内容は……。
思わず額に手をやる。
「確かに、あのおじさん。
最初に潰しておくべきだったかもね」
落胆とも安堵ともつかない、ため息がひとつ。
暗い森の下。
小さく輝く月の光が、終わりが近いと告げていた。
そして、挑む者たちの戦いも佳境を迎えるのだった。




