9.これはエマさんの身体だから
トマスはゆっくり顔を上げた。
目の前の少女は、こちらが教科書を拾うのを待っている。周囲からも、くすくすと小さな笑い声が聞こえていた。
(……どうしよう。)
いつもの自分なら、間違いなく拾う。
何も言わずに立って拾い、席に戻って、なるべく早くこの時間が過ぎるのを待つ。
その方が楽だし、言い返したらもっと何か言われるかもしれない。嫌われるかもしれないし目立つかもしれない。それなら黙って我慢した方がいい。
(……。)
トマスは床に落ちた教科書を見る。
でも、これは僕の教科書じゃなくエマさんのものだ。
そして三日後、この席へ戻ってくるのも僕ではない。
(……僕が勝手に、我慢していいのかな。)
そう思った瞬間。
「……拾って。」
声が出た。
「は?」
少女が眉をひそめるのを見てトマスの心臓が跳ね上がった。
「……。」
やっぱりやめればよかった?
どうしよう、今からでも「何でもない」と言おうか。
そんな考えが一瞬で頭を駆け巡ったが、
「ひ、拾って……ください。」
言った。
緊張で腹の奥がぎゅっと縮まり、痙攣でも起こしそうだった。
少女が目を丸くする。
周囲の笑い声も止まった。
「何?急に。」
「……。」
怖い…ものすごく、怖い。
それでもトマスは膝の上で拳を握った。
「あなたが……落としたんだから。」
声が震える。
「あなたが、ひ、拾ってください。」
「……。」
少女はしばらくトマスを見ていた。
「何よ。今まで何も言わなかったくせに。」
(やっぱり……。)
胸が苦しくなる。
今すぐ謝りたい。
何でもありませんと言いたい。
けれど、またエマの顔が頭に浮かんだ。
「こ、こういうことも…」
一度、息を吸う。
「こういうことも、もうおやめください。」
「は?」
「次に……また、されたら。」
喉が詰まりそうになる。
「先生に……相談します。」
言えた!
というか言ってしまった。
教室が妙に静かに感じた。
少女はしばらく黙ってトマスを見つめていたが、やがて小さく舌打ちすると、床の教科書を拾った。
どん、と机の上へ置く。
「……なによ、ただの冗談じゃない。」
そう言って自分の席へ戻っていった。
「…………。」
トマスは動けなかった。
心臓がうるさいし、腹はまだ痛い。
手のひらはじっとりと汗をかいている。
けれど。
(……終わった?)
恐る恐る周囲を見る。
何人かと目が合ったが、すぐに逸らされた。
誰も何も言わない。
(……終わった。)
トマスはそっと息を吐いた。
もっと大変なことになると思っていた。
もちろん、明日どうなるかは分からない。
これで嫌がらせがなくなるとも限らない。
でも少なくとも今は、教科書は机の上へ戻ってきた。
(……よかった。)
ほっとしてから、ふと思う。
(エマさんは、いつもどうしてたんだろう。)
今まで何も言わなかった、と少女は言っていた。
きっと黙って拾っていたのだろう。
それを考えると、少しだけ胸がざわついた。
———
授業が終わり教師が教室を出ていくと、途端にあちこちで話し声が上がった。
トマスは次の授業の教科書を取り出しながら、なんとなく周囲を見る。
「ねえ、今日の課題どうだった?」
「最後の問題、全然分からなかった。」
「私も、あとで答え合わせしない?」
「あ、するする。」
少し離れたところでは、
「その髪飾り、今日初めて見た。」
「分かる? 昨日買ってもらったの。」
「その色、似合うね。」
「本当?」
少女が嬉しそうに笑う。
その隣では、一人の生徒が配布物を抱えて教室へ戻ってきた。
「あ、手伝うよ」
すぐに別の少女が立ち上がる。
「私も。」
「ありがとう。」
何気ない光景だった。
今までだって、何度も見ていたはずだ、けれど。
(……。)
トマスは少しだけ手を止めた。
前世でも、今世でも、女子というのは、もっと簡単に輪の中へ入っていけるものだと思っていた。
笑っていればいい。
愛想よくしていれば、誰かが話しかけてくれる。
少なくとも、自分にはそう見えていた。
けれど、エマの席から眺めていると少し違った。
話している人の方を見る。
頷く。
笑う。
昨日と違う髪飾りに気付く。
誰かが困っていたら、さっと手を出す。
自分が話したら、今度は相手の話を聞く。
それら自体はほんの小さなことばかりだ。
けれど、それをみんな、当たり前のように何度も繰り返している。相手を見て使い分けている。
(……ただ笑ってるだけじゃ、ないんだ。)
トマスはぼんやりと少女たちを見る。
そういえば、朝だってそうだった。
——あんた、今日なんか喋り方変じゃない?
自分では、そこまで変なことをしたつもりはなかったのに、それでも気付かれた。
(思ってたより…みんな、人のこと見てるんだな。)
少し怖くなった。
そして同時に。
(……僕、女でも無理だ。)
そんなことを思ってしまった。
男じゃなくて女だったならもっと簡単に人の輪へ入れたかもしれない…そんな風に思っていたのに。
これを全部やれと言われたら、自分には出来る気がしない。
(……。)
トマスは頬杖をつきそうになり、慌ててやめた。
エマが普段そんな仕草をするのか分からなかったからだ。
代わりに姿勢を正す。
すると、斜め前に座っていた少女がこちらを振り返った。
一瞬、トマスは身構えたが少女は、
「エマ、次って魔法史だよね?」
と尋ねただけだった。
「えっ。」
「あれ? 違った?」
「いや、魔法史……だと思う。」
「だよね。ありがとう。」
少女はそれだけ言って前を向いた。
「……。」
何でもない会話だった。
それなのにトマスは少し驚いていた。
(普通に……話しかけられはするんだ。)
エマは、誰からも相手にされていないわけではない。
嫌がらせをしてくる少女がいるし、一人でいることも多い。けれど、それがエマのいる世界のすべてではなかった。
自分は今まで、遠くから見ていただけだった。
女子たちが笑っているところだけを見て楽しそうだと思っていた。
エマが一人でいるところを見ても、その理由を考えたことなんてなかったし、女子の関係性というものはそう単純ではないようだった。
(……知らなかったな。)
トマスは小さく息を吐いた。
その時、窓の外から大きな声が聞こえてきた。
「おい!次は絶対勝つぞ!」
男子生徒たちの笑い声。
何気なく窓の外を見る。
グラウンドには、次の授業のために集まり始めた男子生徒たちがいた。
その中に。
「……あ。」
自分がいる。
もちろん、中身はエマさんだ。
遠くから自分を見るという奇妙な感覚に、トマスはしばらく目を離せなかった。
男子たちは肩を組んだり、互いに小突き合ったりしながら笑っている。今までなら
楽しそうな連中だ。
自分とは違う。
そう思って、すぐに目を逸らしていただろう。
けれど今日は、なぜかもう少しだけ見てみようと思った。
その時だった。
一人の男子生徒が、トマスの身体をしたエマの肩へ腕を回した。
「なあ、トマス。」
エマの身体が、わずかに強張るのがここからでも分かった。
男子生徒は笑っていた。
「今日こそ逃げないよな?」
「……え?」
「試合。」
周囲の男子たちも、こちらを見る。
「どうせお前、また『僕には無理』とか言うんだろ?」
笑い声が上がった。
「…………。」
窓の向こうで自分の姿をしたエマが、固まっていた。




