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10.トマスさんの身体

「どうせお前、また『僕には無理』とか言うんだろ?」


周囲から笑い声が上がる。


「…………」


エマは固まった。


(試合……?)


聞いていない。

昨日作ったカンペにも、そんなことは一言も書いていなかった。


「何だよ、その顔。」


肩へ腕を回している男子生徒が、にやにやしながら顔を覗き込んでくる。


「まさか本当に逃げる気か?」

「いや…その……」


エマは言葉に詰まった。

そもそも何の試合なのかすら分からない。


周囲を見る。


木剣を持った男子生徒たちが、二つの組に分かれ始めている。どうやら剣術の授業らしい。


(どうしよう…。)


エマは剣が得意ではない。

女子も剣術の基礎は習うが、男子ほど授業数は多くない。ましてやトマスさんの身体でどこまで動けるのかなど、まったく分からない。


「……見学じゃ、だめ…ですか?」


そう尋ねた瞬間だった。

周囲の空気が少し変わった。


「ほらな。」


誰かが笑う。


「やっぱりトマスだ。」

「こいつ、ほんと度胸ないよな。」

「身体はそこそこデカいのに。」


エマは俯きかけて、止まった。

昨日まで自分が女子たちの輪を遠くから見ていたように、男子たちの輪も、遠くから何度も見たことがある。


肩を組んで大声で笑ってふざけ合う。

女子みたいに細かなことを気にせず、思ったことをそのまま言っていて楽しそうだと思っていた。

少なくとも、自分にはそう見えていた。


けれど今、その輪の中に立っていると


(……なんか、違う。)


一人が誰かをからかうと周囲が笑う。

からかわれた方も笑う。

肩を叩く、小突く、言い返す。

そしてまた笑う。


それ自体は楽しそうだ。


けれど、誰かが少し強い言葉を投げれば、投げられた方もすぐに何かを返している。


「お前昨日負けてただろ!」

「うるせえ、お前よりマシだ!」

「もう一回やるか?」

「上等だ!」


笑ってはいる。けれど…


(……引いたら、だめなの?)


エマはなんとなく見えてきた。

何か言われた時にすぐ何かを返す。

押されたら押し返すし挑まれたら乗る。

勝てなくても、最初から逃げない。

それが、この輪の中では当たり前のように行われている。


女子たちとは、まるでやり方が違う。

けれどこちらにも、こちらなりの細かな決まりがあるみたい。


(男の人たちの世界って、もっと単純だと思ってた)


力があれば認められるし堂々としていればいい。


そんな単純なものだと思っていたけれど、堂々としていればいい、ではない。堂々としていなければ、やっていけないのだ。


「おい。」


肩を小突かれる。


「聞いてんのか?」

「……っ」


身体が揺れた。


「まあ、こいつに無理させても仕方ねえだろ。」


別の男子が笑う。


「どうせまたうじうじするだけだろ」

「…………」


その言葉にエマの胸が、少しだけざわついた。


(トマスさんは……。)


いつも、どうしていたのだろう。


きっと


「僕には無理だから」


そう言って引いていたのだろうと思う。

昨日、本人も言っていた。

兄たちの輪にも入れないし人と話すのも苦手。

目立ちたくない、と。

だったら、こういう場面で無理に前へ出るとは思えない。そして、そのたびに。


——やっぱりトマスだ。

——度胸がない。


そう言われていたのだろうか。


「じゃ、人数足りないけど始めるぞー。」


誰かが声を上げたのを聞いてエマはほっとした。


(よかった…。)


出なくて済む。

怖かった。

トマスさんの身体は自分より大きくても、中身は自分なのだ。剣術だって得意ではない。怪我をするかもしれない。


だからこのまま見学していればいい。

そう思い一歩下がろうとして、足が止まった。


(……待って。)


今日ここで見学するのは、自分だ。


でも、身体が戻った時、ここへ戻ってくるのはトマスさんだ。


(私がここで逃げたら……。)


また


「やっぱりトマスだ」


と言われるのではないか。


「…………」


エマは唇を噛んだ。

自分のことならきっと、断っていた。

恥ずかしくても。馬鹿にされても、怪我をするよりはいい。目立たずに済むなら、その方がいい。


でもこれは私の身体じゃない。

私の人生でもない。


(……私が勝手に、逃げていいの?)


昨日、エマの身体をしたトマスが言っていた。


——僕、エマとして、この身体を大事にする。


その言葉を思い出す。

エマはぎゅっと拳を握った。


「あの……!」


声が裏返った。

男子たちが振り返る。


「ん?」

「…………」


全員に見られた。


(嫌だ。)

(帰りたい。)


けれど


「わ…」


違う、私じゃない!今はトマスだ!


「僕も……。」


一度、息を吸う。


「僕も、出る。」

「……は?」


先ほどの男子が目を丸くした。


「試合に?」


エマは頷く。


「……うん。」

「お前が?」

「…………うん。」


男子たちは顔を見合わせたあと


「マジかよ!」


一人が笑った。

エマはびくりと肩を揺らす。

また馬鹿にされるか…そう思ったのだが。


「じゃあこっち入れよ! 一人足りなかったんだ!」

「え?」

「ほら、木剣!」


一本の木剣が投げられる。


「わっ!」


慌てて受け取る。


「落とすなよ!」


笑い声が上がった。


けれど最初の笑い声とは、少しだけ違うように聞こえた。


「……。」


エマは手の中の木剣を見る。


重い。

怖い。

ものすごく帰りたい。


(トマスさん……。)

(私、出ることになってしまいました……。)


今すぐ校舎の窓にいる本人へ助けを求めたい。

もちろん、そんなことは出来ない。


「ほら、行くぞトマス!」


背中を強めに叩かれる。


「いたっ……!」

「何だよ!」

「な、何でもない!」


エマは慌てて走り出した。


———


試合が始まった。

当然ながらエマは、まったく活躍できなかった。


「うわっ!」


木剣を受け損ねて尻餅をつく。


「トマス!後ろ!」

「えっ!?」


振り返った時には遅く、背中を軽く叩かれる。


「一本!」

「…………」


悔しいというより。


(痛い……。)


立ち上がりまた走る。

今度は誰かがこちらへ突っ込んでくる。


(怖い!)


反射的に避ける。


「おっ、今のいいじゃん!」

「え?」


考える暇もなく、また別の生徒が来る。


「トマス、右!」

「み、右!?」


何とか木剣を構える。


ガンッ!


腕が痺れた。


「っ……!」

「そのまま押せ!」

「えっ。」

「押せって!」

「は、はい!」


必死に木剣を押し返す。

相手が少しだけよろけた。


「おお!」


声が上がる。

エマ自身が一番驚いた。


(……動く。)


当然なのだがトマスの身体は、エマの身体よりずっと力がある。

自分では絶対に押し返せないと思った相手が、少しだけ後ろへ下がった。


(これが……トマスさんの身体。)


その瞬間、横から別の木剣が飛んできた。


「いたっ!」

「よそ見すんな!」

「す、すみません!」


また笑われた、けれど不思議と嫌ではなかった。


結局、試合は負けた。

エマは息を切らしながら、その場へ座り込む。


「はぁ……はぁ……。」


腕も痛いし脚も痛い。

明日は本当に筋肉痛になりそうだ。


「トマス。」


声を掛けられ、顔を上げる。

最初にからかってきた男子だった。


「……何?」


男はにやりと笑った。


「やれば出来るじゃん。」

「……。」

「全然ダメだったけど。」

「…………。」


周囲が笑う。


エマは一瞬だけ俯きそうになったがそのまま


「……はい。」


そう答えると、また笑い声が上がった。

不思議だった。

同じ笑い声なのに最初の笑い声とは全く違って聞こえる。


男子たちはもう、エマではなく次の試合の話をしていた。


「あそこでお前が取ってれば勝てただろ!」

「お前こそ外したじゃねえか!」

「次やろうぜ!」


騒がしい。

乱暴で思ったことをすぐ口にする。

そして。


(……結構、大変。)


エマはぼんやりと彼らを見る。


男なら女のように周りの空気を読まなくてもいい。

もっと単純で、もっと気楽に生きられる。

…そう思っていた。


でも、こちらにはこちらで、別の空気があるようだ。

それを読めなければ簡単に「弱い側」に置かれてしまう。


(……トマスさん。)


エマは自分のものではない大きな手を見る。

トマスはこの身体でずっと、ここにいたのだ。

そして自分はそんなことも知らずに


——男はいいよね。


そう思っていた。

エマはしばらく手のひらを見つめたあと、小さく息を吐いた。


(……知らなかった。)


その日の夜もエマは日記を開いた。


——今日、剣術の試合に出ました。

——勝手なことをしてしまってごめんなさい、でも出てよかったと思っています。


エマはその文字をしばらく見つめていた。

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