6.最初の夜
「じゃあ…」
トマスがおずおずと口を開いた。
「また、明日。」
「……はい。」
エマも小さく頷く。
「…………」
「…………」
挨拶したものの二人とも、その場を離れようとしなかった。もう話すことはないしカンペも作った。
それでも、ここから先、一人だと思うと心細かった。
「……気を付けて。」
トマスが言うとエマは少しだけ笑った。
「トマスさんも。」
軽く頭を下げ、それぞれ反対方向へ歩き始める。
数歩歩いたところで、二人は同時に振り返った。
「…………」
「…………」
目が合うと慌ててもう一度だけ頭を下げ、今度こそ歩き出した。
(……落ち着こう。)
トマスは馬車に揺られながら胸ポケットの手帳をぎゅっと握りしめ、何かトラブルが起きて家に着くのが遅れればいいのにと考えていたらもう屋敷の門が見えてきた…やたらと時間が早く感じた。
(…大丈夫)
(カンペだってある。)
門番が深々と頭を下げた。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
(来た……。)
手帳にはこう書いた。
——軽く頷く。
トマスは小さく頷く。
門番は何事もなかったかのように門を開いた。
(……よかった。)
屋敷へ入ると、侍女が駆け寄ってくる。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
「……た、ただいま。」
(いきなり来た!)
トマスは心の中で慌ててしまい、少し動きが固くなってしまった。だが幸い侍女は不思議がるそぶりもなく言った。
「本日は少々お疲れのご様子ですね。」
(筋肉痛)
(筋肉痛…)
トマスは手帳を思い出す。
「その……身体中が少し、痛くて。」
「まあ。」
侍女は心配そうに表情を曇らせた。
「それでは本日は、お着替えも入浴も私がお手伝いいたします。」
(き、来た……)
トマスは小さく頷いた。
「お願い…」
侍女は少し驚いたような顔をした。
「……お嬢様が、お任せくださるなんて珍しいですね。」
「あ…と、その…」
「久しぶりにお手伝い出来るので嬉しいです。」
「今日は…本当に、腕が…上がらなくて。」
「まあ…それは大変でしたね。」
侍女は疑う様子もなく微笑んだ。
(……なんとかなった)
———
一方その頃のエマは、馬車から降りると、トマスの家の前で立ち尽くしていた。
(大丈夫。)
(…カンペがあります。)
深呼吸をして扉を開ける。
「ただいま……。」
「あ、お帰り、トマス。」
明るい声が飛んできた。
(明るい…おそらく次兄さん)
カンペは確か…
——よく喋る。
「今日はどうだった?」
「学園は?」
「腹減ったな!」
質問が一気に飛んでくる。
確か相槌…そうなんですね…?いや、違う違う、ここは相槌じゃないわ。
エマの頭が真っ白になった。
そこへ
「おい、お前。」
低い声…きっと長兄さんだ。
「返事くらいしろ。」
カンペには確か…
——真面目。
エマは慌てて頭を下げた。
「ご、ごめんなさい。」
その時だった。
ぽん。
肩を強めに叩かれる。
あ、これも、確かカンペに書いたわ。
——兄が肩を叩く。びっくりしない。
(これのことか。)
エマは反射的に肩を跳ねさせそうになりながら、ぐっと堪えた。
「疲れてるのか?」
長兄が少しだけ心配そうに尋ねる。
「……少し。」
「そうか。」
それだけ言うと、長兄は先に食堂へ向かっていった。
次兄が笑いながら嬉しそうに言った。
「今日はいつもよりよく喋ったな!」
「………」
(これで…)
(喋った方、なんですね。)
エマは心の中だけで、小さくため息をついた。
⸻
その夜、離れた二つの屋敷で二人は同じように手帳を開いていた。
トマスは一つ書き足す。
——侍女さんは、とても優しい。
——着替えを手伝えることを、嬉しいと言っていた。
エマも一つ書き足す。
——次兄さんは、思っていた以上によく喋る。
——長兄さんは、疲れているのかと心配していた
そして二人は同じように苦笑した。
「……まだ一日も終わってないのに。」
「……もう帰りたい。」
その呟きは、もちろん相手には届かない。
けれど。
明日になれば、また会える。
そう思うと、不思議と少しだけ安心できた。




