↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/21

20.三日ぶり

午後の授業を終え、エマは帰りの馬車に乗っていた。


「……。」


窓に映る自分の顔を見る。

前髪には、まだ小さな髪留めがついている。


結局、一度も外さなかった。


もちろん何度か外そうとは思った。

誰かと目が合うたびに落ち着かなかったし、自分の顔が見えているというだけで、妙にそわそわした。


それでも。


「……。」


エマは髪留めへ触れる。


(やっぱり、楽。)


視界に髪が入らない。

本を読む時も、歩く時も、いちいち前髪を避けなくていい。たったそれだけのことなのに、思っていた以上に快適だった。


「……明日も、」


そこまで呟いて、やめた。

明日も留めるかどうかは、明日になってから決めればいい。


馬車がゆっくりと止まった。


カーター男爵家だ。


扉が開きエマは馬車を降り、門番に会釈をした。


「お帰りなさいませ、お嬢様。」


聞き慣れた声。


「……。」


エマは一瞬だけ立ち止まる。


三日前まで、毎日のように聞いていた声。

けれどこの三日間、この人と話していたのは自分ではなくトマスさんだった。


「……ただいま。」


そう返すと、侍女が微笑んだ。


「本日も前髪はそのままになさったのですね。」

「あ……。」


反射的に髪留めへ手を伸ばしかけたが、


「……はい。」


そのまま手を下ろした。


「今日は……ずっと、このままでした。」

「左様でございましたか。」


侍女はそれ以上何も言わなかった。


「お着替えはいかがなさいますか?」

「……。」


エマは少し迷った。

いつもなら、自分でやると言うところだけど


——僕が頼んだら、嬉しそうにしてたよ。


トマスの言葉を思い出す。


「……お願いしても、いいですか?」


自分でも驚くほど小さな声になった。

侍女が一瞬、目を丸くする。


「もちろんでございます。」


そしてやっぱり少し、嬉しそうだった。


「……。」


エマはその顔を見ていた。


(本当だ。)


トマスさんが言っていた通りだ。

本当に、嬉しそう。


「では、お部屋へ参りましょう。」

「はい。」


エマは侍女と一緒に自室へ向かった。


⸻


着替えを終え、エマは鏡台の前に座っていた。


「……。」


鏡の中にいるのは、自分だ。

三日ぶりに、自分で動かしている自分の顔。

そして前髪が留められているせいで、いつもはっきりと顔が見える。


「……。」


エマは少しだけ顔を近づけた。


頬、額、鼻の周り。


「……やっぱり。」


肌が少し荒れている。


知っていた。

もちろん、今までだって知っていた。

だからこそ、なるべく見たくなかったのだから。


鏡を見るたびに、やっぱり綺麗じゃない。

そう確認しているような気持ちになったからだ。


けれど今日は、なぜか少しだけ違った。


「……。」


エマは自分の頬へ触れると少しざらついていた。


(これ……。)


もう少し、どうにかならないのかしら。

今更美人になれるとは思わないし、前髪を留めたところで顔立ちが変わるわけでもない。


わかつている、でも。


(……荒れてない方が、いいわよね。)


その時だった。


「お嬢様。」


後ろから侍女の声がした。


「はい?」


振り返ると侍女が何か言いたそうにしていた。


「……どうしたの?」

「その……。」


珍しく、侍女が少し言い淀む。


「もし、お嫌でなければなのですが。」

「……?」

「お肌の手入れを、少しさせていただいてもよろしいでしょうか。」


エマは目を瞬いた。


「……肌の?」

「はい。」


侍女が鏡台の上を示す。


「少し乾燥されておりますので、化粧水と保湿剤をお使いになれば、今より楽になるかと思います。」

「……。」


エマは鏡を見る。


それから、もう一度頬へ触れた。


「……そう、なの?」

「はい。」

「……。」


少し考えてから、エマは尋ねた。


「今まで……どうして言わなかったんですか?」


侍女が一瞬黙った。


「以前、一度だけお話ししたことがございます。」

「……え?」


覚えていない。


「ですが、その時のお嬢様は……。」


侍女は少し言葉を選ぶ。


「お顔のことをお話しされるのを、あまりお好みではないご様子でしたので。」

「……。」


エマは思い出した。


そういえば、あった気がする。


肌が荒れているので何か使ってみては、と言われて。


——いい。


そう答えた。


たぶん、かなり不機嫌そうに。


「……。」


侍女は続ける。


「ですので、それ以降はこちらからは申し上げない方がよいかと。」

「……そう、でした…ね。」


エマは鏡へ視線を戻した。

何もしてくれなかったわけではない。

何も気付いていなかったわけでもない。


私が嫌がったから、彼女はそれ以上言わなかっただけだった。


「……。」


エマは少し迷って


「じゃあ……。」


侍女を見る。


「今日、お願い…してもいいですか?」

「……!」


侍女の顔が、ぱっと明るくなった。


「もちろんでございます。」

「……。」


その反応に、エマは少しだけ目を丸くした。


(……本当に。)


思わず小さく笑いそうになる。


(本当に、嬉しいんだ。)


⸻


侍女は鏡台から小さな瓶を取り出した。


「少し冷たいですよ。」

「はい。」


頬へ触れられる。

エマの身体が一瞬だけ強張った。


「……。」


人に顔を触られる。

以前なら、それだけで嫌だった。


醜いと思われているかもしれない、そんなことばかり考えていた。


けれど。


「痛いところはございませんか?」

「……大丈夫。」

「こちらは少し乾燥しておりますね。」

「……ええ。」


侍女の手つきは、とても優しかった。


嫌そうでもないし馬鹿にしているわけでもない。

慈しむように手入れをしてくれた。


「最後にこちらを。」

「はい。」


保湿剤が薄く塗られる。


「……。」


しばらくして、侍女が手を離した。


「いかがでしょう?」

「……。」


エマは頬へ触れてみる。


「……なんか。」


もう一度触る。


「しっとりしてます。」

「ふふ。良い感じでございましょう?」


侍女が笑った。

エマも少しだけ笑った。


「これ……毎日やるものなんですか?」

「ええ、毎日やるともっと手触りよく心地良いお肌になるかと。」

「……そうなんですね。」


知らなかった…いや、知ろうともしていなかった。


「もしお嫌でなければ、今後もお手入れさせていただきとうございます。」

「……。」


エマは鏡を見た。


何も劇的には変わっていないが、なぜだか以前より親しみやすい自分の姿が映っていた。


「……お願い…するわ。」


そう言うと。


「はい!」


やっぱり侍女は嬉しそうだった。


⸻


その頃、ベネット男爵家へ帰ったトマスは、玄関を入った瞬間。


「……痛っ。」


顔をしかめた。


腕が痛いし脚も痛い。

たった一度試合へ出ただけなのに、身体中が重い。


「お前、何してんの?」


声がして顔を上げると次兄がいた。


「……何って。」

「歩き方変だぞ。」

「……。」


トマスは少し迷ってから答えた。


「今日……試合、出た。」

「お?」


次兄の眉が上がる。


「また出たのか。」

「……また?」

「一昨日も出たんだろ?」

「あ。」


そうだった、一昨日エマさんが出たから、今日僕は出てみることにしたんだった。


「……うん。」

「へえ。」


次兄がにやりと笑う。


「どうだった?」

「……全然、ダメだった。」

「ははは!」

「……。」


笑われた。

思わず肩を縮めそうになったが。


「まあ、最初はそんなもんだろ。」


次兄は普通に続けた。


「……。」

「で、どうだった?」

「どうって……?」

「面白かった?」

「……。」


トマスは考えた。


怖かったし痛かった。

それに恥ずかしかった。


「……分かんない。」

「なんだそれ。」

「本当に分かんないんだよ。」


次兄が笑う。


「じゃあ、またやってみりゃいいじゃん。」

「……。」


トマスは少しだけ黙る。


以前なら、ここで


——僕には無理。


そう言っていただろう。


「……まあ。」


少し考えて。


「……そうだね」

「おう。」


次兄はそれ以上何も言わなかった。


「あ、そうだ。」

「何?」

「今度俺ともやろうぜ。」

「……。」


トマスは固まる。


「……兄さんと?」

「おう。」

「……。」


絶対強い。

ものすごく嫌だ。


「……そのうち。」

「はは!逃げんなよ!」

「やるっては言ってないから!」


次兄は笑いながら去っていく。


「……。」


トマスはその背中を見る。

それから、ふと気付いた。


「…あれ…普通に喋れた。」


自分でも少し驚いた。


⸻


その夜エマは机に向かい、トマスから受け取ったノートを開いていた。


自分がいなかった三日間。

一ページずつ、ゆっくりと読む。


侍女のことや教室のこと。

教科書を落とされた日のこと。


そして。


——侍女さんは、エマさんのことをとてもよく見ています。


エマの手が止まる。


——好きな髪飾りも、香油も、上着も、苺ジャムのことも知っていました。


「……。」


今日の侍女を思い出す。


——エマさんが思っているより、エマさんのお世話をすることが好きなんじゃないかと思います。


エマはしばらく、その一文を見つめた。


「……そうみたいです。」


誰もいない部屋で、小さく答えた。


ページをめくっていくと、やがて最後の方に。


——前髪は、今日一日中留めていました。


そして。


——僕は、楽でした。


「……。」


エマは自分の前髪へ触れる。

髪留めは、まだついていた。

それから、先ほど手入れしてもらった頬にも触れる。


「……。」


明日も前髪を留めるかは、まだ分からない。

肌の手入れだって、毎日続けるかは分からない。


けれど。


「……明日の朝。」


小さく呟く。


「もう一回くらい、やってみようかな。」


エマはノートを閉じた。


⸻


そのころ、トマスもまたエマの書いたノートを読んでいた。


——お兄様たちに、試合へ出たことを話しました。


ページをめくる。


——次兄さんは「やるじゃん」と言っていました。

——長兄さんは、怪我をしていないか心配していました。


「……。」


今日のことを思い出す。


笑われた、でも、それだけだった。


そして最後に。


——お二人とも、嬉しそうに見えました。


「……。」


トマスはしばらく、その文字を見つめる。


父から兄たちと比べられるたびに、兄たちを見ることすら嫌になっていた。

兄たちが何か出来るたびに、自分が出来ないことを突きつけられているような気がした。


でも。


「……。」


少なくとも、自分が試合へ出たと聞いて笑った次兄の顔は、馬鹿にしているようには見えなかった。


トマスはページをめくる。


——私は、出てみてよかったと思っています。


「……。」


今日、自分も出た。

出てよかったかどうかは。


「……まだ、分かんないな。」


トマスは苦笑する。


でも、一度やった。

それだけはもう、なかったことにはならない。


トマスはノートを閉じた。

立ち上がり、何気なく鏡の前を通る。


「あ。」


鏡の中にいるのは、いつもの自分だ。


当然相変わらずイケメンではない、三日前と同じ顔。


でも。


「……。」


トマスは背筋を少し伸ばし肩の力を抜いてまた鏡を見る。


「……まあ。」


少し考えて。


「こっちの方が、楽か。」


それだけ言って、部屋を出た。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。