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20/21

20.三日ぶり

午後の授業を終え、エマは帰りの馬車に乗っていた。


「……。」


窓に映る自分の顔を見る。

前髪には、まだ小さな髪留めがついている。


結局、一度も外さなかった。


もちろん何度か外そうとは思った。

誰かと目が合うたびに落ち着かなかったし、自分の顔が見えているというだけで、妙にそわそわした。


それでも。


「……。」


エマは髪留めへ触れる。


(やっぱり、楽。)


視界に髪が入らない。

本を読む時も、歩く時も、いちいち前髪を避けなくていい。たったそれだけのことなのに、思っていた以上に快適だった。


「……明日も、」


そこまで呟いて、やめた。

明日も留めるかどうかは、明日になってから決めればいい。


馬車がゆっくりと止まった。


カーター男爵家だ。


扉が開きエマは馬車を降り、門番に会釈をした。


「お帰りなさいませ、お嬢様。」


聞き慣れた声。


「……。」


エマは一瞬だけ立ち止まる。


三日前まで、毎日のように聞いていた声。

けれどこの三日間、この人と話していたのは自分ではなくトマスさんだった。


「……ただいま。」


そう返すと、侍女が微笑んだ。


「本日も前髪はそのままになさったのですね。」

「あ……。」


反射的に髪留めへ手を伸ばしかけたが、


「……はい。」


そのまま手を下ろした。


「今日は……ずっと、このままでした。」

「左様でございましたか。」


侍女はそれ以上何も言わなかった。


「お着替えはいかがなさいますか?」

「……。」


エマは少し迷った。

いつもなら、自分でやると言うところだけど


——僕が頼んだら、嬉しそうにしてたよ。


トマスの言葉を思い出す。


「……お願いしても、いいですか?」


自分でも驚くほど小さな声になった。

侍女が一瞬、目を丸くする。


「もちろんでございます。」


そしてやっぱり少し、嬉しそうだった。


「……。」


エマはその顔を見ていた。


(本当だ。)


トマスさんが言っていた通りだ。

本当に、嬉しそう。


「では、お部屋へ参りましょう。」

「はい。」


エマは侍女と一緒に自室へ向かった。



着替えを終え、エマは鏡台の前に座っていた。


「……。」


鏡の中にいるのは、自分だ。

三日ぶりに、自分で動かしている自分の顔。

そして前髪が留められているせいで、いつもはっきりと顔が見える。


「……。」


エマは少しだけ顔を近づけた。


頬、額、鼻の周り。


「……やっぱり。」


肌が少し荒れている。


知っていた。

もちろん、今までだって知っていた。

だからこそ、なるべく見たくなかったのだから。


鏡を見るたびに、やっぱり綺麗じゃない。

そう確認しているような気持ちになったからだ。


けれど今日は、なぜか少しだけ違った。


「……。」


エマは自分の頬へ触れると少しざらついていた。


(これ……。)


もう少し、どうにかならないのかしら。

今更美人になれるとは思わないし、前髪を留めたところで顔立ちが変わるわけでもない。


わかつている、でも。


(……荒れてない方が、いいわよね。)


その時だった。


「お嬢様。」


後ろから侍女の声がした。


「はい?」


振り返ると侍女が何か言いたそうにしていた。


「……どうしたの?」

「その……。」


珍しく、侍女が少し言い淀む。


「もし、お嫌でなければなのですが。」

「……?」

「お肌の手入れを、少しさせていただいてもよろしいでしょうか。」


エマは目を瞬いた。


「……肌の?」

「はい。」


侍女が鏡台の上を示す。


「少し乾燥されておりますので、化粧水と保湿剤をお使いになれば、今より楽になるかと思います。」

「……。」


エマは鏡を見る。


それから、もう一度頬へ触れた。


「……そう、なの?」

「はい。」

「……。」


少し考えてから、エマは尋ねた。


「今まで……どうして言わなかったんですか?」


侍女が一瞬黙った。


「以前、一度だけお話ししたことがございます。」

「……え?」


覚えていない。


「ですが、その時のお嬢様は……。」


侍女は少し言葉を選ぶ。


「お顔のことをお話しされるのを、あまりお好みではないご様子でしたので。」

「……。」


エマは思い出した。


そういえば、あった気がする。


肌が荒れているので何か使ってみては、と言われて。


——いい。


そう答えた。


たぶん、かなり不機嫌そうに。


「……。」


侍女は続ける。


「ですので、それ以降はこちらからは申し上げない方がよいかと。」

「……そう、でした…ね。」


エマは鏡へ視線を戻した。

何もしてくれなかったわけではない。

何も気付いていなかったわけでもない。


私が嫌がったから、彼女はそれ以上言わなかっただけだった。


「……。」


エマは少し迷って


「じゃあ……。」


侍女を見る。


「今日、お願い…してもいいですか?」

「……!」


侍女の顔が、ぱっと明るくなった。


「もちろんでございます。」

「……。」


その反応に、エマは少しだけ目を丸くした。


(……本当に。)


思わず小さく笑いそうになる。


(本当に、嬉しいんだ。)



侍女は鏡台から小さな瓶を取り出した。


「少し冷たいですよ。」

「はい。」


頬へ触れられる。

エマの身体が一瞬だけ強張った。


「……。」


人に顔を触られる。

以前なら、それだけで嫌だった。


醜いと思われているかもしれない、そんなことばかり考えていた。


けれど。


「痛いところはございませんか?」

「……大丈夫。」

「こちらは少し乾燥しておりますね。」

「……ええ。」


侍女の手つきは、とても優しかった。


嫌そうでもないし馬鹿にしているわけでもない。

慈しむように手入れをしてくれた。


「最後にこちらを。」

「はい。」


保湿剤が薄く塗られる。


「……。」


しばらくして、侍女が手を離した。


「いかがでしょう?」

「……。」


エマは頬へ触れてみる。


「……なんか。」


もう一度触る。


「しっとりしてます。」

「ふふ。良い感じでございましょう?」


侍女が笑った。

エマも少しだけ笑った。


「これ……毎日やるものなんですか?」

「ええ、毎日やるともっと手触りよく心地良いお肌になるかと。」

「……そうなんですね。」


知らなかった…いや、知ろうともしていなかった。


「もしお嫌でなければ、今後もお手入れさせていただきとうございます。」

「……。」


エマは鏡を見た。


何も劇的には変わっていないが、なぜだか以前より親しみやすい自分の姿が映っていた。


「……お願い…するわ。」


そう言うと。


「はい!」


やっぱり侍女は嬉しそうだった。



その頃、ベネット男爵家へ帰ったトマスは、玄関を入った瞬間。


「……痛っ。」


顔をしかめた。


腕が痛いし脚も痛い。

たった一度試合へ出ただけなのに、身体中が重い。


「お前、何してんの?」


声がして顔を上げると次兄がいた。


「……何って。」

「歩き方変だぞ。」

「……。」


トマスは少し迷ってから答えた。


「今日……試合、出た。」

「お?」


次兄の眉が上がる。


「また出たのか。」

「……また?」

「一昨日も出たんだろ?」

「あ。」


そうだった、一昨日エマさんが出たから、今日僕は出てみることにしたんだった。


「……うん。」

「へえ。」


次兄がにやりと笑う。


「どうだった?」

「……全然、ダメだった。」

「ははは!」

「……。」


笑われた。

思わず肩を縮めそうになったが。


「まあ、最初はそんなもんだろ。」


次兄は普通に続けた。


「……。」

「で、どうだった?」

「どうって……?」

「面白かった?」

「……。」


トマスは考えた。


怖かったし痛かった。

それに恥ずかしかった。


「……分かんない。」

「なんだそれ。」

「本当に分かんないんだよ。」


次兄が笑う。


「じゃあ、またやってみりゃいいじゃん。」

「……。」


トマスは少しだけ黙る。


以前なら、ここで


——僕には無理。


そう言っていただろう。


「……まあ。」


少し考えて。


「……そうだね」

「おう。」


次兄はそれ以上何も言わなかった。


「あ、そうだ。」

「何?」

「今度俺ともやろうぜ。」

「……。」


トマスは固まる。


「……兄さんと?」

「おう。」

「……。」


絶対強い。

ものすごく嫌だ。


「……そのうち。」

「はは!逃げんなよ!」

「やるっては言ってないから!」


次兄は笑いながら去っていく。


「……。」


トマスはその背中を見る。

それから、ふと気付いた。


「…あれ…普通に喋れた。」


自分でも少し驚いた。



その夜エマは机に向かい、トマスから受け取ったノートを開いていた。


自分がいなかった三日間。

一ページずつ、ゆっくりと読む。


侍女のことや教室のこと。

教科書を落とされた日のこと。


そして。


——侍女さんは、エマさんのことをとてもよく見ています。


エマの手が止まる。


——好きな髪飾りも、香油も、上着も、苺ジャムのことも知っていました。


「……。」


今日の侍女を思い出す。


——エマさんが思っているより、エマさんのお世話をすることが好きなんじゃないかと思います。


エマはしばらく、その一文を見つめた。


「……そうみたいです。」


誰もいない部屋で、小さく答えた。


ページをめくっていくと、やがて最後の方に。


——前髪は、今日一日中留めていました。


そして。


——僕は、楽でした。


「……。」


エマは自分の前髪へ触れる。

髪留めは、まだついていた。

それから、先ほど手入れしてもらった頬にも触れる。


「……。」


明日も前髪を留めるかは、まだ分からない。

肌の手入れだって、毎日続けるかは分からない。


けれど。


「……明日の朝。」


小さく呟く。


「もう一回くらい、やってみようかな。」


エマはノートを閉じた。



そのころ、トマスもまたエマの書いたノートを読んでいた。


——お兄様たちに、試合へ出たことを話しました。


ページをめくる。


——次兄さんは「やるじゃん」と言っていました。

——長兄さんは、怪我をしていないか心配していました。


「……。」


今日のことを思い出す。


笑われた、でも、それだけだった。


そして最後に。


——お二人とも、嬉しそうに見えました。


「……。」


トマスはしばらく、その文字を見つめる。


父から兄たちと比べられるたびに、兄たちを見ることすら嫌になっていた。

兄たちが何か出来るたびに、自分が出来ないことを突きつけられているような気がした。


でも。


「……。」


少なくとも、自分が試合へ出たと聞いて笑った次兄の顔は、馬鹿にしているようには見えなかった。


トマスはページをめくる。


——私は、出てみてよかったと思っています。


「……。」


今日、自分も出た。

出てよかったかどうかは。


「……まだ、分かんないな。」


トマスは苦笑する。


でも、一度やった。

それだけはもう、なかったことにはならない。


トマスはノートを閉じた。

立ち上がり、何気なく鏡の前を通る。


「あ。」


鏡の中にいるのは、いつもの自分だ。


当然相変わらずイケメンではない、三日前と同じ顔。


でも。


「……。」


トマスは背筋を少し伸ばし肩の力を抜いてまた鏡を見る。


「……まあ。」


少し考えて。


「こっちの方が、楽か。」


それだけ言って、部屋を出た。

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