20.三日ぶり
午後の授業を終え、エマは帰りの馬車に乗っていた。
「……。」
窓に映る自分の顔を見る。
前髪には、まだ小さな髪留めがついている。
結局、一度も外さなかった。
もちろん何度か外そうとは思った。
誰かと目が合うたびに落ち着かなかったし、自分の顔が見えているというだけで、妙にそわそわした。
それでも。
「……。」
エマは髪留めへ触れる。
(やっぱり、楽。)
視界に髪が入らない。
本を読む時も、歩く時も、いちいち前髪を避けなくていい。たったそれだけのことなのに、思っていた以上に快適だった。
「……明日も、」
そこまで呟いて、やめた。
明日も留めるかどうかは、明日になってから決めればいい。
馬車がゆっくりと止まった。
カーター男爵家だ。
扉が開きエマは馬車を降り、門番に会釈をした。
「お帰りなさいませ、お嬢様。」
聞き慣れた声。
「……。」
エマは一瞬だけ立ち止まる。
三日前まで、毎日のように聞いていた声。
けれどこの三日間、この人と話していたのは自分ではなくトマスさんだった。
「……ただいま。」
そう返すと、侍女が微笑んだ。
「本日も前髪はそのままになさったのですね。」
「あ……。」
反射的に髪留めへ手を伸ばしかけたが、
「……はい。」
そのまま手を下ろした。
「今日は……ずっと、このままでした。」
「左様でございましたか。」
侍女はそれ以上何も言わなかった。
「お着替えはいかがなさいますか?」
「……。」
エマは少し迷った。
いつもなら、自分でやると言うところだけど
——僕が頼んだら、嬉しそうにしてたよ。
トマスの言葉を思い出す。
「……お願いしても、いいですか?」
自分でも驚くほど小さな声になった。
侍女が一瞬、目を丸くする。
「もちろんでございます。」
そしてやっぱり少し、嬉しそうだった。
「……。」
エマはその顔を見ていた。
(本当だ。)
トマスさんが言っていた通りだ。
本当に、嬉しそう。
「では、お部屋へ参りましょう。」
「はい。」
エマは侍女と一緒に自室へ向かった。
⸻
着替えを終え、エマは鏡台の前に座っていた。
「……。」
鏡の中にいるのは、自分だ。
三日ぶりに、自分で動かしている自分の顔。
そして前髪が留められているせいで、いつもはっきりと顔が見える。
「……。」
エマは少しだけ顔を近づけた。
頬、額、鼻の周り。
「……やっぱり。」
肌が少し荒れている。
知っていた。
もちろん、今までだって知っていた。
だからこそ、なるべく見たくなかったのだから。
鏡を見るたびに、やっぱり綺麗じゃない。
そう確認しているような気持ちになったからだ。
けれど今日は、なぜか少しだけ違った。
「……。」
エマは自分の頬へ触れると少しざらついていた。
(これ……。)
もう少し、どうにかならないのかしら。
今更美人になれるとは思わないし、前髪を留めたところで顔立ちが変わるわけでもない。
わかつている、でも。
(……荒れてない方が、いいわよね。)
その時だった。
「お嬢様。」
後ろから侍女の声がした。
「はい?」
振り返ると侍女が何か言いたそうにしていた。
「……どうしたの?」
「その……。」
珍しく、侍女が少し言い淀む。
「もし、お嫌でなければなのですが。」
「……?」
「お肌の手入れを、少しさせていただいてもよろしいでしょうか。」
エマは目を瞬いた。
「……肌の?」
「はい。」
侍女が鏡台の上を示す。
「少し乾燥されておりますので、化粧水と保湿剤をお使いになれば、今より楽になるかと思います。」
「……。」
エマは鏡を見る。
それから、もう一度頬へ触れた。
「……そう、なの?」
「はい。」
「……。」
少し考えてから、エマは尋ねた。
「今まで……どうして言わなかったんですか?」
侍女が一瞬黙った。
「以前、一度だけお話ししたことがございます。」
「……え?」
覚えていない。
「ですが、その時のお嬢様は……。」
侍女は少し言葉を選ぶ。
「お顔のことをお話しされるのを、あまりお好みではないご様子でしたので。」
「……。」
エマは思い出した。
そういえば、あった気がする。
肌が荒れているので何か使ってみては、と言われて。
——いい。
そう答えた。
たぶん、かなり不機嫌そうに。
「……。」
侍女は続ける。
「ですので、それ以降はこちらからは申し上げない方がよいかと。」
「……そう、でした…ね。」
エマは鏡へ視線を戻した。
何もしてくれなかったわけではない。
何も気付いていなかったわけでもない。
私が嫌がったから、彼女はそれ以上言わなかっただけだった。
「……。」
エマは少し迷って
「じゃあ……。」
侍女を見る。
「今日、お願い…してもいいですか?」
「……!」
侍女の顔が、ぱっと明るくなった。
「もちろんでございます。」
「……。」
その反応に、エマは少しだけ目を丸くした。
(……本当に。)
思わず小さく笑いそうになる。
(本当に、嬉しいんだ。)
⸻
侍女は鏡台から小さな瓶を取り出した。
「少し冷たいですよ。」
「はい。」
頬へ触れられる。
エマの身体が一瞬だけ強張った。
「……。」
人に顔を触られる。
以前なら、それだけで嫌だった。
醜いと思われているかもしれない、そんなことばかり考えていた。
けれど。
「痛いところはございませんか?」
「……大丈夫。」
「こちらは少し乾燥しておりますね。」
「……ええ。」
侍女の手つきは、とても優しかった。
嫌そうでもないし馬鹿にしているわけでもない。
慈しむように手入れをしてくれた。
「最後にこちらを。」
「はい。」
保湿剤が薄く塗られる。
「……。」
しばらくして、侍女が手を離した。
「いかがでしょう?」
「……。」
エマは頬へ触れてみる。
「……なんか。」
もう一度触る。
「しっとりしてます。」
「ふふ。良い感じでございましょう?」
侍女が笑った。
エマも少しだけ笑った。
「これ……毎日やるものなんですか?」
「ええ、毎日やるともっと手触りよく心地良いお肌になるかと。」
「……そうなんですね。」
知らなかった…いや、知ろうともしていなかった。
「もしお嫌でなければ、今後もお手入れさせていただきとうございます。」
「……。」
エマは鏡を見た。
何も劇的には変わっていないが、なぜだか以前より親しみやすい自分の姿が映っていた。
「……お願い…するわ。」
そう言うと。
「はい!」
やっぱり侍女は嬉しそうだった。
⸻
その頃、ベネット男爵家へ帰ったトマスは、玄関を入った瞬間。
「……痛っ。」
顔をしかめた。
腕が痛いし脚も痛い。
たった一度試合へ出ただけなのに、身体中が重い。
「お前、何してんの?」
声がして顔を上げると次兄がいた。
「……何って。」
「歩き方変だぞ。」
「……。」
トマスは少し迷ってから答えた。
「今日……試合、出た。」
「お?」
次兄の眉が上がる。
「また出たのか。」
「……また?」
「一昨日も出たんだろ?」
「あ。」
そうだった、一昨日エマさんが出たから、今日僕は出てみることにしたんだった。
「……うん。」
「へえ。」
次兄がにやりと笑う。
「どうだった?」
「……全然、ダメだった。」
「ははは!」
「……。」
笑われた。
思わず肩を縮めそうになったが。
「まあ、最初はそんなもんだろ。」
次兄は普通に続けた。
「……。」
「で、どうだった?」
「どうって……?」
「面白かった?」
「……。」
トマスは考えた。
怖かったし痛かった。
それに恥ずかしかった。
「……分かんない。」
「なんだそれ。」
「本当に分かんないんだよ。」
次兄が笑う。
「じゃあ、またやってみりゃいいじゃん。」
「……。」
トマスは少しだけ黙る。
以前なら、ここで
——僕には無理。
そう言っていただろう。
「……まあ。」
少し考えて。
「……そうだね」
「おう。」
次兄はそれ以上何も言わなかった。
「あ、そうだ。」
「何?」
「今度俺ともやろうぜ。」
「……。」
トマスは固まる。
「……兄さんと?」
「おう。」
「……。」
絶対強い。
ものすごく嫌だ。
「……そのうち。」
「はは!逃げんなよ!」
「やるっては言ってないから!」
次兄は笑いながら去っていく。
「……。」
トマスはその背中を見る。
それから、ふと気付いた。
「…あれ…普通に喋れた。」
自分でも少し驚いた。
⸻
その夜エマは机に向かい、トマスから受け取ったノートを開いていた。
自分がいなかった三日間。
一ページずつ、ゆっくりと読む。
侍女のことや教室のこと。
教科書を落とされた日のこと。
そして。
——侍女さんは、エマさんのことをとてもよく見ています。
エマの手が止まる。
——好きな髪飾りも、香油も、上着も、苺ジャムのことも知っていました。
「……。」
今日の侍女を思い出す。
——エマさんが思っているより、エマさんのお世話をすることが好きなんじゃないかと思います。
エマはしばらく、その一文を見つめた。
「……そうみたいです。」
誰もいない部屋で、小さく答えた。
ページをめくっていくと、やがて最後の方に。
——前髪は、今日一日中留めていました。
そして。
——僕は、楽でした。
「……。」
エマは自分の前髪へ触れる。
髪留めは、まだついていた。
それから、先ほど手入れしてもらった頬にも触れる。
「……。」
明日も前髪を留めるかは、まだ分からない。
肌の手入れだって、毎日続けるかは分からない。
けれど。
「……明日の朝。」
小さく呟く。
「もう一回くらい、やってみようかな。」
エマはノートを閉じた。
⸻
そのころ、トマスもまたエマの書いたノートを読んでいた。
——お兄様たちに、試合へ出たことを話しました。
ページをめくる。
——次兄さんは「やるじゃん」と言っていました。
——長兄さんは、怪我をしていないか心配していました。
「……。」
今日のことを思い出す。
笑われた、でも、それだけだった。
そして最後に。
——お二人とも、嬉しそうに見えました。
「……。」
トマスはしばらく、その文字を見つめる。
父から兄たちと比べられるたびに、兄たちを見ることすら嫌になっていた。
兄たちが何か出来るたびに、自分が出来ないことを突きつけられているような気がした。
でも。
「……。」
少なくとも、自分が試合へ出たと聞いて笑った次兄の顔は、馬鹿にしているようには見えなかった。
トマスはページをめくる。
——私は、出てみてよかったと思っています。
「……。」
今日、自分も出た。
出てよかったかどうかは。
「……まだ、分かんないな。」
トマスは苦笑する。
でも、一度やった。
それだけはもう、なかったことにはならない。
トマスはノートを閉じた。
立ち上がり、何気なく鏡の前を通る。
「あ。」
鏡の中にいるのは、いつもの自分だ。
当然相変わらずイケメンではない、三日前と同じ顔。
でも。
「……。」
トマスは背筋を少し伸ばし肩の力を抜いてまた鏡を見る。
「……まあ。」
少し考えて。
「こっちの方が、楽か。」
それだけ言って、部屋を出た。




